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2009年8月31日 (月)

現実主義の政治学

こちらのエントリ で紹介した

  • 施光恒・黒宮一太 (編) 『ナショナリズムの政治学 ― 規範理論への誘い』 (ナカニシヤ出版, 2009年4月)

読了しました

全体として リベラル・ナショナリズム を高く評価する本でした

多くの編者・寄稿者らの 「規範理論」 に霊感を与えているのは

ウィル・キムリッカやデイヴィッド・ミラーらの仕事です

僕などがボンヤリ視野に入れていたマーサ・ヌスバウムあたりは

やや現実味を欠いた、 どちらかと言えば理想論に傾きがちな理論家――

とみなされているようです (まぁ そうかもしれません・・・)

こうしてこの本からは

若き社会科学の研究者たちの 現実主義 への確固たる傾き が

読み取れるのでした

読みやすさも この本の (編著者らの) 特徴なのかもしれません

とにかくわかりやすい。 これもある種の現実主義なのでしょう

【メモ】  「"リベラル・ナショナリズム"」 で Google! →

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01B 宗教政治学」カテゴリの記事

経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

 「宗教とナショナリズムが、所属する人々に究極的な忠誠を命じる枠組みを与え、《殉教》と《暴力》に道徳的許可を与える力を持つ」というユルゲンスマイヤーの考え方は、現代の人々が宗教とナショナリズムに見る危険性の中心的な考え方であると思います。
 その部分は宗教からもナショナリズムからも排除することはできないでしょう。

 他方で、宗教とナショナリズムの相互関係の正常な機能こそが、《殉教》と《暴力》に抑制力を発揮できるのではないでしょうか。そういった意味で、脱宗教化した世俗的ナショナリズムの危険性のほうが大きいのではないかと感じています。

 血縁的な地域共同体に基盤をもたない「想像の政治的共同体」である近代の世俗的ナショナリズムの中では、自己の価値観は根なし草のように宙に浮いてしまい、人々は漂流してしまうだろう、というのが私の考えの根本で、地に足のついた共同体を求める気持ちの中心に存在するものです。

 そこでは、宗教も擬骸的なものではなく、精神からの直接的なつながりを持ち、日本でかつて人々を結んでいた緩やかな共同体をはぐくむものであってほしい、というのが私の理想です。

 《地》、《共同体》、《宗教》の織りなす混合的なナショナリズムの中では、人が自己の価値も他社の価値も見出すことができるのではないか。

 まだ、うまく説明できませんが、《宗教》と《世俗的ナショナリズム》の分断に未来を見出せない私の考えていることは、だいたいこんなところです。

 取り急ぎ。

  先生のご批判はごもっとも。
 この文章はかなりの部分小原克博先生の『信仰の土着化とナショナリズムの相関関係―「宗教の神学」の課題として―』によっていて、コピペと言えばそうだと思います。きちんと引用と書くべきでした。ごめんなさい。

 ただ、私のこの文章に真っ向から「インドは違う!!」と先生に突っ込んでいただく目的だったので、許してくださいませ。

 日本は単一民族国家なので、そちらからみれば小原先生の論文に対して私が言っていること(私が自分の意見として言いたい部分も解ってくれていますか?)がある程度理解されても、それは狭い世界でしか通用しない。むしろ、宗教とナショナリズムは手を結んで《殉教》と《暴力》に走るのが今までの世界で見られる傾向です。

 これは宗教とナショナリズムの問題というよりは《宗教と共同体間の機能不全》の問題ではではないか。むしろ、共同体の中の問題ではないかというのが私の考えです。
 ある共同体自身、あるいは共同体同士の関係が健全であれば、宗教とナショナリズムが手を結んで暴走するようなことはないのではないかと思っています。そういった意味で、現在のインドの中間層が、資本主義を通じて関係を築いている共同体として、どう機能しているかを考えたらおもしろいと思ったりしました。(それほど単純ではないとは思いますが)

 ひとは宗教のせいにばかりしたがりますよね。それはナショナリズムについても同じです。これらシステムをうまく運用しなければ人は生きてはいけません。
 これに関連して、今は宗教の生まれた場所とリベラルなモラル(というより正義か)の生まれた場所の違いについて考えています。
 精神に直結した部分を利用することは危険すぎるのかという問題です。

yokosawa さん>

コメント、いつもありがとうございます m(_ _)m
返事が遅れて すいません。 バタバタしておりました

=====

「批判」・・・ 僕 しましたっけ・・・?
「コピペ」とか・・・?
すいません、ちょっと何のことかわからず、戸惑っております

=====

小原先生のこの論文、存じ上げませんでした
ご紹介 ありがとうございます

ザッと斜め読みをしてみまして、 実にいい論文だなぁ、と思いました
僕自身 考えてきたことが、 見事に定式化されている・・・
キリスト教神学のすごいところは やっぱりこういうところだなぁ、 と

時間をとって あらためて熟読してみますね

=====

さて、 ご提示いただいた問題について・・・

ナショナルなものは、精神的、物質的 (つまり、言説=制度=物質的に)
僕自身の血肉のひとつですから、 やすやすと否定はできません

それを リベラルな理想の実現のために活用できる、しよう、すべき という
リベラル・ナショナリズムの立場も わからなくはありません

しかし・・・

ヒンドゥー・ナショナリズム研究をやっていると、どうしても
ナショナリズムについて 前向きな気持ちをもつことができません
ナショナルなものと宗教との連結についても そうです

日本のように、ナショナリズムと戦争と宗教の体験が重なっていてくれれば
その暴力性に気づきやすいのでしょうが
インド (ならびに、南アジア諸国) で ナショナリズムとは
外国支配の打倒、自尊心と独立獲得の記憶=政治文化ですから
どうもそこにストッパーがかかりにくいのです

小原先生は タミールの著作から
イスラエル=パレスチナの歴史に触れていますが
これもまた、インドとも日本とも違うケースということになりましょう

タミールの結論は、ギリギリの選択であるように思いますが
これを 日本やインドに ヒョイともってくることはできないだろうなぁ
と思います

神学もそうですし、政治理論もそうですが
ちょっと一般化が先行しすぎなんじゃないかなぁ、と思います
もうちょっと個別具体的な事例研究が先行していかないと
なんだか、いつか来た道をたどるような気がします

=====

すいません、いかにも学者っぽい 抽象論に走ってしまいました
yokosawa さんのおっしゃる論点に もっとひきつけるべきでした

日本のこと、ですよね

日本についていえば、僕もナショナリズムにいつも否定的ではありません
戦争の記憶、天皇カルトの問題――
これらが十分に意識化されているかぎり
ナショナルなものに ヒステリックに反対する必要はないだろう、と

しかし問題は、それがまったく空虚であることですよね

空虚とわかって、ナショナリズムを推奨する政治学者は
僕のような、プロレスを愛するプロレス・ファンのように見えます(笑)

=====

一切推敲なしの流し書きですので、支離滅裂 ご容赦ください

とりあえずのレスポンスとして

  私はあまり格闘技は好みませんが、たまたま昭和60年の東京体育館での猪木と藤波の試合を、特設リングサイトで見たことがあります。
 それは今でも伝説といわれる試合で、猪木が卍固めで藤波にTKO勝ちするまでの約30分間強、会場は強烈な盛り上がりで満ちていました。
 選手の動きに興奮し、大勢の男の人が足を踏みならす音、そしてすごい歓声と罵声の中、小さなリングの中で戦う二人。
 私はロック歌手のコンサートやスポーツ観戦も人並みには経験していますが、あんな体験は未だに再経験していません。バレーボール黄金時代のニッポンチャチャチャも、ラルクのアンコール直前のアンコール、アンコールも、ずいぶんと一体感がありましたが、会場に響く足を踏み鳴らす低い声には、もう会場全体が一つの生き物になったような感じを受けました。

 それこそが、ナショナリズムと同じ場所で生まれたものではないでしょうか。

 ひとは自分と同じ環境をだれかと分かたなければ生きられません。もちろん、家庭が基本でしょう。でも、そんな緩やかな温かい場所とは別の、精神が高揚して収まらない場所を欲求してしまう。そのことは、きっと本能的にされていて(得に男の人にとっては)逃れられない欲求なのだろうと感じます。

 だから、私がナショナリズムに持つイメージは、先生とはきっと違っているのだろうと思います。そこを探究することには空虚さは感じられません。

yokosawa さん>

レスポンス ありがとございます

「ナショナリズムの空虚」 について、僕のコトバが足りなかったようです

ナショナリズム論では (宗教論とまったく同じで)
分析のレベルと、体験のレベルを 分けることが まず必要です

ナショナルなものの 《体験》 は、たしかに確実なものです
僕にもその経験はあります (あまり強くはないですが)
どれほどの強度かは別にして
「精神が高揚して収まらない場所」 が経験されるわけです、実際に!

この体験のレベルが、ナショナルなものと 個々人との一体感――
より精確には、個人の拡張した身体感覚―― を与えます

そこから、ナショナルなものが 個々人に対して要請/強要するものが
まったくそのまま 自分の欲望にもなっていく
ナショナルなものが与える 《世界》 のあり方のなかで
《我》 は解体されたり、拡張されたり、刷新されたり、目的づけられたり・・・
要するに 《救済》 《コタエ》 を与えられる

一方、ナショナリズムを分析しますと
その 《歴史的構築性》 は、あまりにも明らかです

ここからは、二つのことが分析的に導出されます
① ナショナルなものの 人工性
② ナショナルなものの 偶然性

人工的といっても、もちろんそれは少数集団、ましてや個人の創作
ではありえません
ナショナルなものはやはり、実在的なものというよりも、やはり
範疇的なものなのだ、という意味で 人工的です

また、ナショナルなものは、まったくの無根拠ではもちろんありえません。
しかし、性別、世代、階級、趣味、地域などを 《排除》 したところでしか
ナショナルなものは 成り立ちえません、定義上!
その意味で、まったく偶然的なものです

「空虚」 というのは、こうした分析のレベルの話でした
コトバ足らずで申し訳なかったです

=====

さて、問題は その意味で空虚なものを まったくリアルに体験する――
ちょうど宗教と同じ この問題系です

リベラル・ナショナリズム論者は どうもここがわかってないのではないか・・・
僕はそう思いました

この方がたは 僕が上で述べたようなナショナリズム理解
(専門用語では、近代主義的ナショナリズム論 といいます) を
完全に 認めています
そのうえで、ナショナルなものの 戦略的復権を唱えているのです

これはしかし、「現実的」なんでしょうか?

近代主義的ナショナリズム論者の代表格とされるアンダーソンは
ナショナリズムと宗教の相同性を 真っ先に強調しましたが
その根拠は、 いずれも ヒトの生死をつかさどるからです

どちらもが、実際に! ヒトを生かしたり死なせたりする――
ここに ナショナリズム理解の出発点をおいたのが、アンダーソンでした
(ちなみに、彼はもともと インドネシアの研究者です)

この局面を、リベラル・ナショナリズム論は 包接できていない――
僕には そう思えて仕方ないのです

私も少し言葉が足りませんでした。《分析の場》では・・という考えがなかったわけではありません。
 しかし、政治の中で実際生かせるためには、ほかの考え方も必要な気がするのです。

 たしかに《ひとを生かしたり殺したりする》のがナショナリズムであり宗教でしょう。


 例えば私が諸葛孔明であったらとします。

 私はそれが《ひとを生かしたり殺したりする》ことを十分知っています。同時に自分がこの力を行使すれば人々を賛同させ統一することが容易になります。
 しかし、それを一度行使したからには、この人たちの人生の面倒をすべて自分で背負わなければなりません。

 私が国政をリードすると決めたら、自分がどのような人になっても、民を守らなければならない。この人たちを迷わせないためにはありとあらゆる手を使うでしょう。それはきっと学者のころの私であったら決してしてはならないと感じていたことに部類する。しかし、ためらいはありません。それは自分が国政のブレインである自分になると決意したときに、決定付けられているからです。


 政治学者は学者であって政治家ではないので、ナショナリズムに反対する立場でなければならないというのはよくわかります。今の世の中でおかしいのは、自分がそのことを主張することで、どのような責任が発生するかを熟考しないで世に出してしまうことだと思います。
 特に今の政治には未来を明るくするような考えを定義することが難しく、いかに今の繁栄を保てるかに考えが傾いています。
 こういった時期に、人が過ちを犯すことは、歴史上よくあることです。

 では、どうしたらよいのでしょう。

 政治家であるならば、腰ぬけと言われようと、今の状況を維持することに奔走するのか。
 あるいは、理想を高く掲げ、新しい世の中を作ることにするのか。

 私は、政治の中にこの2つの意見が両方成り立ち、戦いながら先に進むことが一番な気がしています。

 理想のうち、危険な思想があったとしたら、それは政治の中で淘汰されるべきです。(学者の仕事でもありますね)
 そうして、その度になぜこの意見が淘汰されるべきなのか考えられることが重要です。目先のことだけでなく、政治というもの全体が、国政の場で考えられることが国民にとって大切な気がするのです。

 また、そのことが行使されていないから、学者が考える範囲が本来あるべきものと離れてしまうのかなぁと。

 なにか話が大きくなって、支離滅裂な感じもしますが、このような大きな政治の場について、今の日本はあまりにもかけ離れてところにあるので、つい考えてしまいました。

 そして、どの場でも一番大切なのは(辞めることでなく、続けることの)責任だと思います。
 

yokosawa さん>

仰るとおりです!

僕自身、学者として語ることの枠組みを探しあぐねていてばかりです

学者の身上は 《分析》 です
情報収集と分析ができない学者は 何をやっとるのか、っていう話ですよね
まずは、高度なコンピュータになりきること!
これが 現代日本で「学者」と呼ばれる人のやるべきことです

思想は 言うまでもなく 根源的に重要ですが
R&Dの実践にともなう理論とともにないといけません
(そうでないと、思想はどこまでも暴走しますから)

このような意味で良質な言論を供給していかなくちゃいけない――
学者としての僕は いつもそのように考えています

しかし・・・・・・ これは 何のためなのでしょう?

たとえば、教育者でもある僕は
上のような学者の身上を 何のために 学生に伝えるのでしょうか?
あるいは、伝えるべきではないのでしょうか?
あるいは、伝えなくてもよい?

ひいては、大学とは何でしょうか?
大学で学ぶことには どんな意義があるのでしょうか?

それは、一人ひとりの非学者の人生に どう影響するのでしょうか?
あるいは、学者を含めた 《社会》 全体にとっては?

(ちなみに、 個人的なことを言わせていただければ)
(僕が 本を書けない根本的な理由がこれです)

=====

あまりに 僕の事情に引き付けて 語ってしまいすぎました
(僕も 悩んでるんですねぇ・・・)
もうちょっと一般化して、お話をつづけるべきですね

たとえば、マスゾエさんとかハトヤマさんのような
学者的背景をもった政治家の台頭 といった話題です

しかしまぁ、とりあえずのお返事ということで

  この書き込みを続けながら、私はつい2年前に自分のしてきたことについてよく考えます。
 長くなりますが、お付き合いください。(いつもか・・・)


 それは主人の転勤である地域に住むことになったとき。
 行ったその場で、二人の子どもが通う小学校が廃校の憂き目にあっていることを初めて知る・・。
 近所の人は「大丈夫。廃校なんて絶対にない。そんなことは絶対させない。」といった。
 そうなんだ・・・と焦りつつ、いつもながらアウトサイダーの私は、どうせ長いこといないんだから深入りしないことだと思った。

 ところがそこに5年近く住むことになってしまった。
下の子が6年生の時、みんなが嫌がるクラス役員を引き受けるハメになった。

 しかも、小学校PTAは廃校問題と戦っていた。子どもの数が減り、次の子どもたちの受け入れ先になる近隣の小学校も、自校の運営の正常化をかけて参戦してきていた。
 それまで私は面白そうなので、時折市教委の説明会や議会や地域との話し合いに(こそっと)出かけながら、まあすごいことになったもんだと感じていた。

 当時PTA会長だったのは、某私立大学の大学教授のMさんで、社会学の立場から、市民の権利や子どもの人権についての話を持ち出されたり、他の地域の事例を持ち出してこられて、学校を死守なさっていた。

 しかし、地域の重鎮たちが「おまえらもっと地域全体のことを考えろ」という圧力をかけてきた。
 私たちの住んでいる地域は、新築マンションが立ち並ぶいわゆる新興地区で、周りの古くからの住民たちの住む地域からは、新参者扱いを受けている現状もあった。
 この圧力によって戦いが激化した。

 そのうえ、駅前の一等地である小学校跡地をめぐり、市長が市の財政のために民間に売り払うという(土木系出身市長の野心でもある)計画を知り、またまたMさんらの正義に火をつけた。

 私はこれら一連の騒ぎの中に送り込まれることになった。
私は、この戦いを続けることと、地域で育つ子どもたちへの影響について考えた。
 そして、結論をだした。
 子どもたちのために、戦いを終息させなければと。

 そこで、こーんなに頑張って死守してくれた学校を、廃校に向けて動かす運動を水面下で展開させていった。
 首謀者はMさんの次の会長になったM2さん(ややこしい!)
 彼の奥さんは地元の子で、地域住民との関係の改善を願っていた。
 
 戦いに疲れていたPTAの皆さんを、「廃校も悪くない。今のうちにたくさん条件を付けて、有利に転校しよう」という意見に持っていくのは、あまりにたやすかった。
 そして総会。
 私は自分の持つ(いつもは大嫌いで封印している)カリスマ性をこれでもかと発揮して、賛成多数で廃校へとコマを進めた。

 私は子どもの卒業と同時に関東に戻り、その次の年に小学校は廃校になった。つまり、私は自分のしてきたことに何一つ責任を取らずに、場所を離れた。
 そのことが、いつもいつも私のこころに引っかかる。
 あの時みんなを先導してしまった。あの行動が本当に正しかったのか。
 自分には関係のないことになるからと、こころのどこかで軽く考えていなかったか。
 自分の出身校がなくなるという目にあった、子どものケアはどうしているだろう。

 いつもここで偉そうに書いているけれど、実際問題に直面した時、自分でした行動に対して(特に他人を巻き込んだ行動をしたとき)責任なんて取れていない。

 だから、私はせめて、あのころあんなことをしてくれたと私を責める人がいたら、ごめんなさいと言おうと思っている。私は私の信念でしたことだけれど、それがすべての人に対して正しいなんてありえない。あとあと考えたら、私のせいで自分の考えを歪められてしまったなんて人もいるかもしれない。
 でもそのことに対して私は全ての責任を負うことなんかできないのだ。だから、私は私の意見の正しさと誤りの両方を認め、背負っていかなければならない。
 ごめんなさいと謝りながら。


 これが先生に対する答えになっているとは思えませんが、自分の意見を言う私の覚悟はこんなもんです。

 長くなってしまったので、大学教育とか学者と政治家についてはあとでじっくり話しましょうね。
 ちなみに、今は怒られてしまうのでできませんが、こんな経験二度とできないので、この運動を(間違っているかもしれないと迷いながらも)一緒に進めた元朝日新聞の敏腕記者だったYさんと、まとめてみたいね、なんて話しています。

yokosawa さん>

コメント ありがとうございます。お返事が遅くなって、すいません

いやぁ・・・ そういう 《政治》 をやってこられたんですねぇ
たくさんのご経験をなさっていて、素朴に感嘆します

流れ者だった僕には、地域や近隣や家族という 絶対的な条件のもとに
人を巻きこみながら (そして、巻きこまれながら) 闘争をしたという経験が
大きく欠けています

もちろん! 人を巻きこんできたことは 僕も何度もあります
間接的にではあれ、金銭面で損害を与えたこともあります
(与えられたほうが 何十倍も大きいですが)

しかし 僕の場合、一応
相手が成人ばかりでしたから、深く、深く申し訳ないと思う一方で
yokosawa さんほどの罪悪感に駆られないですんでいるのかもしれません

=====

もう少し、自分語りをつづけさせてください

《自分》 というものとは戦ってきた自信はありますが
《世界》 と戦おうと立ち上がったとき、 僕はいつも挫折させられてきました

「させられて」 というのは、外部要因があまりに大きい、ということです
何かを作りあげようというプロジェクトばかりでしたから
そういう外部要因が やっぱり大事だったんです

そこで流れ着いたのが、いまの この僕の状態であり
このブログでの言葉たち、、、ということです

=====

個別の人生から、一般的な言葉を 導き出していけるかどうか――
これが 僕だけでなく、 皆の課題になっておりますですね

政治家はもちろん、家庭内でも、地域でも
より包括的な制度問題でも、個別具体的な闘争でも
僕たちのやるべきことは もうハッキリしすぎるぐらいハッキリしている

yokosawa さんとの対話を通じて
そうした思いを ますます強めております

  闘争なんて、ないに越したことはありません。

 「リベラル・ナショナリズム的国家は依然として反完成主義的国家であり、競合する善き生の構想の価値についての評価は市民社会における個人の選択(と修正)に委ねられている。善き生の構想の合理的修正可能性を制限することはない。リベラル・ナショナリズム的国家は市民が一つの倫理的共同体に共属するという意識を生みだし、その意識を維持するだけを目指すのである。その結果、同胞市民にたいして正義の義務を全うする可能性が高まるであろう。」
   (W.キムリッカ 『新版 現代政治理論』p387)

 私はこれまで生きてきて様々な価値観の人と出会ってきました。それぞれが自らの善き生を目指して生きられていましたが、意見の違いから対立が起こり諍いになった時、彼らは見た目にも決して良くない争いをしました。そして、その争いが憎しみを生み、争いが終わって何もかもが解決したように見えても、わだかまりは必ず残っていました。
 
 政治家は職業なので、ある程度は割り切れるでしょう。(そうとも限らない場面を見ることもありますが)しかし、市民レベルでの争いの場合、そう簡単に整理できる問題ではありません。

 それでもリベラル・ナショナリズムの可能性は認められるべきでしょうか。エリートの思考といわれても仕方がないかもしれないと思うのは私だけでしょうか。

 したがって、私自身はいろいろな体験を積めば積むほど正義とは何なのかわからなくなっています。
 
 私の中の正義は、私の中では価値を持ちますし、外の世界と私とを正常につなぐ橋渡しもしてくれます。
 一方で、私の中の正義は相手を切り刻む剣となって、好むと好まざるにかかわらず、相手を切りつけます。

 そんなとき、私は途方に暮れてしまうのです。

 それでも話し合いを続けられるような相手なら、お互いの理解を深めることで乗り切れます。しかし、一生のうちでそのような腹を割った話し合いのできる相手に何人出会えるでしょう。

 だから、たぶん人は正義ではなく、ある一定の利害関係の上で同じ方向性を持って結ばれることが必要なのでしょう。それこそが資本主義が今日の世界の中心となっている理由であり、ナショナリズムでさえ資本主義の上に成り立っている現状を作っているのではないかと思います。

 しかしまた、資本主義は格差を生み、そのことが争いを生みます。

 私はまだ自分がいったい何をすべきかわかりません。
 
 リベラル・ナショナリズムにおいて、ひとがわだかまりを消せるようなシステムを強化する方法を考えるべきなのか。
 資本主義に代わる、新たな経済システムについて考察すべきなのか。

 どうすればよいのでしょう。

yokosawa さん>

いただいた課題は きわめて本質的なもので
民主党新政権の 《国家戦略局》 が まさにそういうことをやるのでしょうね

日本中の良心と見識をたもった知識人たちも
政府外で それを皆で考えはじめております

いろいろな意見がありますが、一長一短が現状
さらに問題は、国民的合意のこと、、、 のみならず
グローバルな合意形成のこと でもありますから
現実的であろうとすればするほど、 手も足もでなくなってしまいますね

ただし、やるべきことが何もないわけじゃありません!

まずは、 考えはじめること、悩みはじめることは
少なくとも ひとつのステップにはなりましょう

もちろんこの場合の「悩む」とは
自分の日常の煩悶懊悩のことではなく
人間と社会と歴史のレベルでの 考え悩みのことです
(なぜなら、問題は 明らかにそこにあるから)

その際、 《行き詰まり》 みたいなコトバで 問題を単純化しないこと!
yokosawa さんのように、より具体的な分析をして
《行き詰まり》 のあり方そのものを ちゃんと理解すること!

まずは ここから始めるしかないように 僕には思われます

=====

リベラル・ナショナリズムも こうした問題設定へのひとつの対応ですね

エリート主義的といえばそうですが
政治理論ですから、抽象的、、、ということなんじゃないでしょうか?
(政治理論は ものすごく そういう傾向がつよいです)

「正義」という概念についても 裁きの基準になるということを
少なくとも キムリッカは理解していると思うんです

もちろん こう述べますが、僕もリベラル・ナショナリズムには
ちょっと違和感があります

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