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2009年8月12日 (水)

宗教政党 (1/7)

2009年8月6日付け 朝日新聞 朝刊の 「オピニオン 私の視点」 に

島田裕巳先生 の

宗教政党

「理念を政治に」 が存在意義

という記事が載っていた

この記事について、 島田先生ご自身は ブログで

今度の衆院選には、 公明党だけではなく、 幸福実現党も候補者を擁立し、 宗教団体を背景とした政治勢力が登場することになっている。 その点を踏まえ、 その意味や可能性について書いてみた。 かなり丁寧に書いた文章なので、 ぜひ読んでもらいたいところだ

と書いておられる

なおちなみに、 もともとは 「宗教と政治」 というタイトルだったようだ

====================

さて、 内容である

まず 「宗教右派」 という概念で、 幸福実現党を特徴づける

幸福実現党は北朝鮮の脅威を強調し、 改憲を唱え、 日本の人口を3億人に増やし国力を増強するなど、 宗教右派的な主張を展開している

多くの方にとって 「宗教右派」 は聞きなれない言葉だろうが

もとは Religious Right という英語の概念で、 専門家はよく使う

島田先生はすぐにつづける

外国の脅威を強調し、 ナショナリズムを打ち出し、 妊娠中絶や同性愛に反対するのが宗教右派の特徴だ

具体例としては、 アメリカ共和党の有力な支持基盤があげられる

次に、 「日本の宗教右派の代表」 として、 生長の家 があげられる

[生長の家は] 戦前は天皇信仰を打ち出し、 侵略戦争を聖戦と位置づけた。 戦後も紀元節の復活や優生保護法の改正といった主張を展開して、 生長の家政治連合を組織し、 自民党を通して国会議員を数人送り込んだ

こう述べたうえで、 島田先生は、 幸福の科学 (幸福実現党の母体) が

生長の家から大きな影響を受けているだろうことを示唆する

<つづく>

【メモ】

  • こちらのエントリ にて 日本の政教分離原則について触れた
  • 「島田裕巳 宗教政党」 で Google! →

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01B 宗教政治学」カテゴリの記事

コメント

 『フランスにおける脱宗教化(ライシテ)の歴史』の著者のジャン・ポペロ氏は、世俗化が確固たるものになってその脱魔術化が起きたとき、その現象のなかにライシテの第3段階を見ている。

 『第一に、脱制度化が進むということである。かつて宗教制度の屋台骨を揺るがし、世俗世界を象徴する希望を担ってきたさまざまな制度が、進歩に対する信仰が衰退したことによって打撃を受けている。・・・制度に対しては、さまざまな権利要求がなされる。(「病人の権利」「生徒の権利」など)こうした状況で、制度のまさに内側で、さまざまな「宗教」の権利要求が(新たな仕方で)現われてくる。
 第二に、道徳を形成する社会化が危機に瀕していることである。これまで民主的な社会の諸制度は、個人が社会の観念を持ち、自立するのに適した規範を教え込んできた。・・・これに対し、現在の社会が暗黙のうちに道徳上の義務として理想に描いているのは「自己実現」であって、いきおい他人との関係は、自分に魅力と競争力があることを示すようなものとなる。この種の疑念が生まれるのは、大衆消費がスタンダード化されているからだが、そこから今度は「違い」の魅力もでてくることになり、これは集団のアイデンティティを突出させた形を取ることもある(宗教的・文化的集団、同世代の集団、性的少数者の集団など)。
 第三に、新たな多元主義の状況が出現していることである。象徴性にかかわるものがグローバル化のなかで本来の土地の文脈から切り離され、近代という時代に設けられた「宗教」と「非宗教」を分かつ境界が構造上崩れてきている。・・・その揺れ戻しとして、アイデンティティの再構築も起こっており、その場合に「宗教」がある程度の包括性を目指した主張を新たに展開する可能性がある。』
 (上記pp167‐168 注釈、強調等省略)

 社会的格差が宗教を必要とする人たちを増加させ、政治的イデオロギーとしての強い「宗教」を正当化する・・・といった見方はもちろんできると思います。しかし、一方、世俗化の結果として宗教(とされていたもの)が変質して、人の中で大きな位置を占めるようになる(かも)といった変化にも(この話題で当てはまるかは別として)注目したいと思いました。

 『このような状況で、これまで普遍的だと思われていた国民国家は、ローカル(個人化と関連)とグローバル(大衆化と関連)の台頭によって弱体化している。国民国家は人権という「普遍的な倫理宗教」に高い価値を置いているが、世俗化が行き着くところまで行き着いた状況では、この宗教が効果を発揮するかどうか不透明なうえ、この宗教ゆえに国民国家はライシテから遠ざかっていくかもしれない。』
 (同 つづき)

 フランスと日本では少し状況が違うと感じるところはありますが、≪ライシテから遠ざかる≫現象は同じように出てくると思います。その時に、中心にある≪宗教≫がどのようなものかで、世界が変わると実感しています。

yokosawa さん>

コメント、ありがとうございます

「世俗主義の脱魔術化」 という視点は、 とってもフランスっぽいですね。 フランス社会学のひとつの共通理解、 といったところでしょうか。

日本の社会学とは、 その辺りの強調点がちがいますね。 やはり、フランスではカトリックの基盤が、しっかり残っているんだろうなぁ、、、 と思わせられます

日本で、近未来ヴィジョンを描く際、 寺社仏閣の帰趨をイメージすることなんて、 ほとんど全くないでしょうから

日本は、フランスほどの振れがないのではないか、と僕は思います。 日本の社会生活では、 《宗教》 そのものではないにせよ、人間のいろいろとゴチャゴチャしているところに関わる 《宗教性》 が、 なんと言いますか、 大変オープンで正当なものとなっていますよね。 言い換えれば、 世俗主義 (ライシテ) がさほど徹底されていない

だから、 《世俗主義の脱魔術化》 という契機が そんなに強くならないだろう、 と思うのです

おそらく、そうした感覚は、ボベロ先生にはわからないんだろうな、、、 と思います。 フランスの経験が強すぎるんでしょう、きっと

  コメント返しありがとうございます。

 たしかに、日本における≪宗教≫が、フランスにおけるカトリックとは違うことは間違いありません。したがって、脱ライシテ化によって人々が神社仏閣に帰趨することはないでしょう。

 しかし、私には日本で脱宗教化が起こっていないとは思えません。むしろ、何だかわからないうちに起こっている脱宗教化だとしたら、ライシテよりも性質が悪いものだと言えるでしょう。

 それでは、フランスではなく、日本において≪宗教≫と≪世俗≫に対応するものとは一体何でしょうか。

 『日本人が社会的統合―言い換えれば「和」―を極度に重んじることは周知の如くである。さらに、日本人の自我が、ある集団との一体化によって初めて充実されるということもよく指摘されるところである。ともかく、もし、多くの宗教社会学者が言うように、人間のアイデンティティ、とりわけその焦点になる要因と宗教的なものとの間に非常に密接な関連があり、しかも「共同体」が本質上宗教的性格を帯びているのみならず、宗教がただ共同体においてのみはじめて生きた実存となるならば、日本人の所属意識およびそれを表現する種々の儀礼的行為の中に、宗教的側面を見極めることが可能である。そういう観点から見れば、最終的な問題は、日本人はいかなる共同体に自らのアイデンティティの「聖」なる拠り所を求めるか、ということにほかならない。』

 ヤン・スィンゲドー 「世俗社会日本に見る宗教」(聖心女子大学キリスト教文化研究所編『現代世界の宗教性』 p43)

 私が先生の授業を受け始めたころに、日本人の宗教性についてあちこち探し回って見つけた宝物です。

 今読み返してもなお私に多くを語ってくれる。

 日本人の≪宗教≫は自らのアイデンティティの「聖」なる拠り所を求めた≪共同体≫であり、≪世俗≫はその≪共同体を壊すもの≫、あるいは≪共同体に疑似するもの≫、≪脱ライシテ≫に当たるのは≪共同体の復活≫と読み換えが可能ではないかと。

 やはり≪共同体≫と≪公共性≫についてもう少しきちんと勉強しようと思います。

 

yokosawa さん>

再コメント、ありがとうございます

話がすっかり僕の得意分野になってしまい、 なんだかすいません

yokosawa さんの書いてくださったことに 僕は賛成です

(1)
日本における脱宗教化はもちろん起こっているわけですが、、、
厳密に考えると、 それがなんなのか はっきりしません

そもそも 《宗教》 なんてものが 日本にはなかったわけですから
もちろん、 ここでの 《宗教》 はキリスト教を原基にしたものです

社会をすっかり覆いつくし、 権力と一体化した、 ひとつの組織制度――
これが力を失っていくのが、 ボベロ先生なんかがイメージする
脱宗教化なわけですが、、、
日本では それは考えにくい

実に非西欧的な、 アジア的な、 ひとつの近代の形がそこにはありますよね

日本で起こっていることは、 したがって
ボベロ先生的な見方では ほとんどわからないでしょう

(2)
ただし、 日本なりの 「脱宗教化」 (にあたるもの) を
タチが悪い、、、 とは僕は思いません

(3)
スィンゲドー先生の論文までお読みとは、 御見それしました
大変重要な業績であり、 今も多くの専門家に霊感を与えてくれています

やや古めの宗教社会学用語に流されがちなのが気になりますので
スィンゲドー先生の業績の焼きなおしが 求められておりましょう

(4)
日本における 《世俗》 が 《共同性をこわすもの》 というのは
論理的にはそうなるでしょうが、、、
どうも 僕には 具体的な事例/様子が 想像できません

どんなことをお考えなんでしょうか・・・?

  「ライシテ」は日本には当てはまらない、≪宗教≫や≪世俗≫といった考え方は日本のものではないというのはもっともです。でも、近代化によってどこでも変化が起きているし、その変化によって精神的に生きにくくなっているのは実感できている。
 そのような現状において、これは違うと拒絶するよりも、こっちではどのような考え方ができるかと想像し、相違について考察し、私なりに結論付ける作業が勉強することの醍醐味だし、わたしにとってはおもしろいと感じられるやりかたです。
 (私は根っからの日本人だから、創作もだけど加工も大好き!)


 自らのアイデンティティの「聖」なる拠り所を求めた≪共同体≫を壊すものとは何か。
 もちろん≪資本主義≫!って言いたいところですが、それはあまりに短絡すぎるし、もっときちんと考えてから結論付けたいと思いました。

 実は今の職場には共同体のスペシャリストがたくさんいて、私の上司はその中でも草分けです。だから、朝一番に共同体を壊しているものは何か聞いてみました。
(フィールドワーク!)

 すごく丁寧に説明してくれた上に、再生のために努力している人の話もきけました(それが老人の存在意義だとその人たちは意識しているとか)

 「究極的にいえば、それは豊かさだ。」と彼は言いました。
 私はなんだかガツンとしました。

 豊かさと共存できないなら≪聖なる共同体≫は死んでしまうのか。

 と、その辺はじっくり考えても頂くとして、これまでの私のまとめを。


 ≪共同体≫のなかで生きている「日本人の重層的宗教帰属」が変質する一番の理由は、生活するために必要なモノ(財も人的サービスも)はすべてカネで手に入ることができるようになったから。
 たとえば、かつて近代の日本における≪共同体≫としてスィンゲトー氏が例に挙げた≪会社≫において、給料さえもらえば何もかも手に入るのに、面倒な習慣や行事にまで参加することはないという意識が強まると、会社の神性は薄まってやがてなくなっていく。
 カネに対する価値観の高まりは「マネー教」やそれにつながる「科学教」に人びとを誘っていく。
 それはもはや多神教的ではなく一神教的な縛りを持っている≪宗教≫である。

 ≪共同体≫から離れた人々はアイデンティティの拠り所を見失う。


 今のところはこんなところです。せっかくなのでもう少しフィールドワークしようかなとも考えています。
 
 ナイスなフォローお願いします(笑)
 
 
 

yokosawa さま>

なるほど そういうイメージですか・・・ よくわかりました ありがとうございます

スィンゲドー先生の議論は、こういう風に展開できるんだなぁ、、、と
勉強になりました、ホントに

しかしこうなりますと、僕ら宗教学者がやるべきなのは、もはや
宗教社会学ではなく、まして宗教学者なんかではなく
社会学そのもの、、、ということになりますね

《宗教》 というコトバにこだわりつづけていくと かえってものが見えなくなる――
しかし、 《宗教》 というコトバに託された 人間の深い可能性は大事――

この辺りをどう整除できるかが、職業的宗教学者にとっては
死活問題であるように思いました

  「宗教学」の範囲についてなど、全く考えずにつらつらと書きたい事を書いて申し訳なかったです。いつだか申し上げた通り、私の中で学問の範囲が理解できなくなっている(むしろ理解しようとしていない)のが原因なのだと思います。

 ただ、たとえば≪働く≫ことについて、以前は≪宗教≫の側から考えることも一般的でしたよね。(勉強不足なので現在も考え続けられているのかはわかりませんが。)それを社会学が自らのものとして一般化してしまったのは、つい最近(マルクス以降)だと思います。社会学の分野について、宗教学的な視点から見ることが社会学の一部になってしまうのか。(もっとも、私の視点が宗教学的なのかが最大の問題なのかもしれませんが)

 ヤン・スィンゲドー『宗教社会学が目指すもの』(東洋学術研究 通巻10号,1981)を読みました。この問題とは違うけれど、学問の方法や研究の分野とは難しいということがよくわかりました。スィンゲドー先生のおっしゃることはすんなり頭に入ってきます。

 『この研究課題は,「市民公共性」という類型を分析することにある。
 ここでみられる独特な研究方法は,この対象に特有な取り扱いにくさによって必要になったものである。
 まず第一に,ただひとつの学科の専門的方法だけによることは,対象の複雑さからしても不可能である。むしろ公共性というカテゴリーは,かつて伝統的な「政治学」が視野にいれていた広大な領域の中に求めなければならない。
 社会科学のどの個別科学をとりあげても,その範囲内では,この対象は姿を消してしまうのである。
 社会学と経済学,国法学と政治学,社会史と思想史,―
 これらさまざまな展望を統合することが深刻な懸念を生ずるということは,火を見るよりも明らかである。』
 (ユルゲン・ハーバーマス『公共性の構造転換 第2版』表紙)

yokosawa さん>

もちろん! 学問分野のタコツボ的な制約、 とりわけ
宗教学なんてものの行き詰まりに関して
yokosawa さんにお気遣いいただく必要なんてないのです (笑)

あくまでも 「職業的」 宗教学者として
もうちょっと誠実に言いますと、 宗教学に恩義と愛着を感じており
宗教学の先生や先輩や後輩に仲間意識を感じている、 僕という人間の
個人的な感想なのです

思想が そんなものに縛られてはいけません!

宗教学そのものの存立が問題ではなく
大切なものを たしかなコトバにできることが問題なのですから

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