宗教と科学
高校3年の10月まで 完全に理系だった僕
サイエンスの知、 数学の知には 素朴にエロスを感じてしまう
そうした個人的な感性はさておくにせよ・・・
宗教研究にとって この種の知がいかに重要か――
この点には これまでも何度か言及してきた (注1)
科学と数学の知は 存在と生命について 確実かつ斬新な知見を
すでにもう 大量に産みだしているからだ
最近のエントリは こちら
そして、 僕がその重要性を指摘するまでもなく
この領域は 実はずいぶん前から追究されてきた
日本語になっている本も きわめて多い
アマゾン和書で 「宗教 科学」 を検索すると (→ ★)
669冊ヒットする (2009年7月23日 16:54時)
しかし、うなってしまうような本は めったにない、 と言ってよいだろう
僕はこの分野の専門家ではないので
網羅的な読書をしてきたわけではない。 しかし!
ほとんどが・・・ ニューサイエンスか、 ロマン主義か、 トンデモ本か
あるいは 問題をぎりぎりまで詰め切れていないか
まぁ そんなところだろう、、、 と経験上 予測している
====================
だから 宗教と科学の問題を 上手にとらえるには
まだまだ時間がかかりそうだ
とくに、 宗教や宗教研究の側から そうした貢献がなされることは
ほとんど期待できそうにない
人間と社会と歴史のヴィジョンのなかに 科学と数学をどう位置づけるか――
宗教や宗教研究は この点を明確にできていないからだ
むしろ参考にできそうなのは
科学の側から 文系的な問題設定へのアプローチ である
注1:
このことはもちろん、 宗教論 (および 人間論、 歴史論、 社会論等) において
理系学者 (サイエンティスト) が 無条件に指導者になる、 という意味ではない
科学者が書いた 「啓蒙書」 (笑) を読んでいると
短絡と (誤った) 一般化が なんともはげしいものが けっこう多い
そのことに著者らがちゃんと自覚的である――
それらは 「方便」 として選ばれた表現上の工夫なのだ――
と僕は信じたい・・・
しかし少なくとも、 まじめで、 影響を受けやすい、 批判が苦手な読者は
そこに披瀝される見解を 「鵜呑み」 に近いしかたで
飲み込んでしまうのではないか・・・
そしてもし、 それを著者らが あまり問題にしていないとしたら・・・
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コメント
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文系学問と理系学問(思考的アプローチと実証的アプローチ)について、最近は混沌としていてよくわからないと感じることが多いです。
たとえば、経済学と言えば、いくら複雑な計算式を含んでいても、文系学問だと思っていました。
「金融工学のフィールドははるかに広い。たとえばおカネを貸した時にそれがどれくらいの割合で回収されるのかという信用リスク、ある企業がどういう価値を持っているかの企業評価、またプロジェクト評価とか、金融技術のカバーする対象が大きく広がり発展している。-中略-罪があるのは、ビジネススクールでちょっと金融工学を勉強したMBAのアメリカ企業トップ。アメリカ全体がヘッジファンド化して、彼らがとにかく儲けたいとやみくもにやらせた。」
週刊東洋経済(2009.6.27号p139) 『「理工系離れ」が経済力を奪う』を書いた今野浩氏に聞く より
どうやらこの世界同時不況の元凶となった経済学は、金融工学という理系学問が源であったかもしれない。どうやって文系学問から理系学問に変身していったかはなんとなく想像できませんか?
「われわれの日常の概念を説明するとき、当の概念の必要十分条件を与えることは普通不可能である。なぜなら、言語を説明する事象が当の言語に依存する結果として、説明と説明されるものとは区別できなくなるからである。日常使われる言語・概念の説明ということは、自己参照的構造、循環的構造をなしている。」
羽地 亮 「フレーム問題」の解消:人工知能研究への一提言
(京都大学文学部哲学科研究室紀要 1998.12.1 p21)
最近「フレーム問題」がちょっとしたマイブームで、人の思考について考えるときのよいヒントになると直感しています。そして、そのうえで、なぜ人に宗教や哲学が必要になって生まれたのか理解できないかな・・と。
「(3)本論文では、示唆するにとどまっているが、AIに思考させたり行為させたりしようというときに、身体性だけを考慮するわけにいかない。いかなる知的システムも文化や社会を生み、その文化的社会的制約の中で活動している。この文化的社会的制約が、私がこれまで強調してきた身体性を条件づけている場合さえ十分に想定可能である。文化や社会を生まない知性というのは、ほとんど矛盾した概念ではなかろうか。AI研究者にとって予想すらしない提言であろうが、私は、知性に対する文化的社会的な可能性の制約を明らかにすることが、AI研究にとっても重要なことであると考える。したがって、AI研究者は、人文諸科学、社会諸科学の知見にも耳を傾けるべきである。」
(同上 p27)
もう少しきちんとこの論文をよんでいただけると、もっと納得していただけるのにと思うのですが、私も羽地先生のおっしゃる通り、理系の先端学問においても、人間の生活そのものを研究したような文系学問の助けがない限り本当に人間の役に立つものにはならないと考えます。
生命倫理的な場合だけでなく、理系学問に文系学問ができることとその役割は大きいかと。そしてその必要性は今後増していくと思っています。
投稿: u.yokosawa | 2009年8月 3日 (月) 23時11分
yokosawa さん>
コメント ありがとうございます
今日はたまには、ちょっと早めのリスポンスをやってみますね
==========
おっしゃられることに 賛成です
羽持亮先生ご自身、 分析哲学者でいらっしゃる
哲学は 文系中の文系ですから (政治学、経済学、社会学が中間領域)
理系的な知 (サイエンスの知) は もうすでに
かなり 文系的な知との融合を はじめているわけです
こんな記事もありました
「人口脳、 10年以内に完成か」
http://news.cocolog-nifty.com/cs/article/detail/world-200907301514/1.htm?c=app.3
どうも、研究者の過剰な自己宣伝、、、のにおいがしますが
それにしても チェックしておきたい記事です
取り急ぎ コンドウ
投稿: コンドウ | 2009年8月 4日 (火) 00時56分