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2009年8月 9日 (日)

専門家の権威、市民の能力

前便 までつづけてきた

  • 藤垣裕子 『専門知と公共性: 科学技術社会論の構築へ向けて』 (東京大学出版会, 2003年)

のご紹介。 本便にて とりあえず最後になります

<連載 近代とは何か、 近代性とは何か> の一便ともなります

====================

藤垣先生 は 脱 「技術官僚モデル」 を提唱されている (前便 参照)

では、 そもそも そのモデルとはどのようなものか――

藤垣先生は 次のように書いておられます

またもや少々長くなりますが、 どうぞお付き合いください

「公共空間」 での問題解決において、 現場を支配している二つのシンプルな思いこみとして、 技術官僚モデル (Technocratic Model) と民主主義モデル (Democratic Model) とが挙げられる。 前者では、 強い科学主義・技術官僚主義があり、 科学者集団が証拠を評価するときの基準に行政官が通じることによってよい判断ができる、 とされており、 後者ではより多くの価値観 (専門家以外の) を導入することによってよい判断ができるということ主張されている。 [たとえば] 前者のモデルは、 環境における有害物質の規制の失敗は、 不十分な専門家投入の結果である、 と主張し、 一方後者では、 市民は十便に技術的なことを議論できる、 という仮定にたち、 民主制の導入を説く

136頁, 注12: 参照文献は引用者が省略した 

さて、 ここからが 私なりに注目したい文章である

現代日本ということに話はうつる

日本の科学技術政策は、 圧倒的に前者の技術官僚モデル (テクノクラティックモデル) に基づいて実行されている。 このテクノクラティックモデルの基礎となるのは、 専門主義への厚い信頼である。 だからこそ、 日本の公共空間の意志決定において、 専門家の意見の投入 (専門家委員会の構成) に大きな労力が割かれてしまう傾向があるのである

政策決定における科学への厚い信頼――

これはまさに 近代の一大特徴だろう!!

しかし、 藤垣先生の本は、 理論書であって歴史書ではない

近代日本において、 あるいは近代という時代において

科学への権威と信頼の付与が どこで いつ はじまり

それが どこで いつ どうやって展開したのか――

翻って、 日本の 「市民」 の議論能力への信頼は いつ どこで どのように

もたれたり、 もたれなかったりしてきたのか――

同様に、 その他の場所での 「市民」 についてはどうか――

こうした問いに 本書はこたえてくれない (もちろん それでかまわない)

さらに勉強すべきポイントがここにはあるだろう

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コメント

  齋藤純一先生の『公共性』のつづき

 公共性への排除と周辺化の力について(p8~13)

 齋藤先生は、本当は開かれた公共性へのアクセスを封じ非対称性的なものにしているものを列挙して説明されています。

 1 フォーマルな排除
   政治的な意思形成・決定過程からの制度上の排除
 2 インフォーマルな排除
   マテリアルな資源(所得・資産)
   自由時間
   言語資源
  
  そのなかでも、公共性におけるコミュニケーションは言葉というメディアを用いておこなわれるのだから、「言語資源」に恵まれた者たちが「ヘゲモニー」を握ると。

 「たとえば、金融・医療・先端科学技術などをめぐる争点について、公共的空間の論争を実質的にバイパスする仕方で意思決定がおこなわれる傾向が顕著になってきている。そうした言説の資源の格差にもとづく支配(technocracy)を批判的に制御するためには、専門家に説明責任を課し、日常言語への翻訳を求めるだけではなく、専門知をもって専門知を批判しうる対抗的な言説をその外部にもつことも必要である。」
 (p11 ℓ14‐20)

 このあたりを藤垣先生はきちんと述べられているのだろうと思いました。
 しかし、一般の言語に直して説明されるとしても、それが多くの人にとって理解されるのは難しそうです。また、生き馬の目を抜く科学技術分野において、機密性もまた重要なはずです。私たちが知るころには、もう何もかもが定説になっているのではないかと思います。そして、さらに先へ・・・。

 私にとって重要と感じられたのは、齋藤先生も重要とおっしゃられている、場に相応しいテーマを語るために、言説によって公共的領域と私的領域が固定化されずに分離されるということです。

 『近代の「公共性」の定義にとって決定的な意味を持ったのは、宗教や信仰をめぐる事柄を「私事化する」(privatize)ことによって、それらを公共的な争点から除き去ることであった。』
 (p12)

 公共性から宗教が排除される意味と、だれがそれを望んだのか。そして、いったいどこで宗教が「私事化」しているのか。(「私事化」していないのか)
 もっと深く考えたいと思いました。

 それと、もう一つ気になっていて先生にお聞きしていことがあります。
 
 本当に愚問なのですが、ヨーロッパの人々がインドに入って、不可触民を目にしたときに、いったいどのように映ったかです。
 哀れで施しようのない絶望を持った人たち。生きる目的さえ奪われた人たち。そして、救われるべき人たち。
 でも、そんな風に見ていないような気もするのです。
 必要悪?

 『そして『ユートピア』はいくつもの疑問を我々に投げかける。暴力によってフォーマルな経済から排除された者たちが、なぜあえて市場への参入をチャレンジしなければならないのか。理不尽な排除に対する抵抗が認められないのはなぜか。体力のある浮浪者は生きるために泥棒になり、力なき浮浪者は貧乏により「意気阻喪」するほかないのではないか。また、かりに兵士が戦争によって「不具廃残」となったことの責任を国家が取るべきであるというのであれば、浮浪への責任も同様に国家にあるとはいえないだろうか。浮浪者は零落することで国家繁栄へと献身しているのではないだろうか。』
 (結城剛志 『もっと自由で、もっと平等な』 現代思想8月号 p225) 
 

yokosawa さん>

まさに、 おっしゃっておられることに賛成いたします

ご指摘のような困難が厳然としているにもかかわらず、 めげずくじけず
前向きにがんばっていこうとする、 藤垣先生も STS業界も
本当にすごいなぁ、、、 と思うのです

=====

宗教の私事化=公共領域の脱宗教化――
これについてもっと精確に言いますと
公共領域の形成から 超越的=集合的=非理性的なものがはじき出され
それが 「宗教」などの範疇でくくられていった――
つまり、 宗教が公共性から排除されたのではなく
公共性から排除されたものものに与えられた一つの名称が 「宗教」――
ということかと思います

=====

ヨーロッパ人とインド亜大陸在地社会=文化との出会いも
非常に長い時間がかかって進行しますから
どの時期の、 どの場所について言うかで かなり変わってきます

最初、 ポルトガルが来たときは
ポルトガル自身、 農奴制、 ひいては奴隷制も肯定していたわけですから
身分制=封建制が どうしようもなく問題化することはなかった

やはり、 ヨーロッパ自身が民主革命を経るなかで
人権とか 自由・平等・博愛の理想とか
それとの キリスト教倫理のすりあわせとか
そういう作業が18世紀におこなわれていくわけで
そのなかで 徐々に 「古代的なもの」 へのコンプレックスと
「中世的なもの」 への嫌悪 (もちろん、スケープゴート)が出来上がる

イギリスが奴隷制を廃止したことは、 その変化のひとつの達成です

ヨーロッパが奴隷制や農奴制、 封建制を脱していくにしたがい
不可触民の問題、 カーストの問題が いかにもインド的な
インドに固有な、 ヒンドゥーに固有なものとして
問題化されるようになっていきました
これも、 やっと19世紀に入ってのことです

しかし、 そのときには 人種主義がイギリスで (!)
十分発達していくわけですから
(ご参考までに、ドイツはイギリスから人種主義を学びました)
まぁなんと言うか、、、 ダブル・スタンダードですね

とりあえずのお返事でした

追記:

結城剛志さん、 コトバに力がありますねぇ・・・! すばらしいっ!

 丁寧なコメントありがとうございます。

 近代の<宗教=ゴミ箱=排除>論は先生から(耳にタコができるくらい)お聞きしておりますし、それが宗教学の立場としてのスタンダードなのかと思っています。しかし、私としては別の視点から見てみたいと思っています。

 文化的な生き物である人にとって、文化たる宗教から離れて生まれることも、離れて育つこともできません。
 政治的な境界線から宗教団体を排除することはできるでしょう。宗教的な圧力に対して抵抗することも可能であるし、その正当性も認められるでしょう。
 しかしながら、人が文化としての宗教性抜きで物事を考えることが可能なのでしょうか?(私が育った環境であるのに)

 私は人は環境の中で思考するのだから、文化の中の宗教性を排除した個人は存在しないと考えます。ゴミ箱として存在するとしたら、私の外ではなく、私の内で育ち、私の内での処理能力を発揮するものであろうと思います。
 ですから、宗教性を公共性が否定したとしたら、その公共性は人の心の外にあるものであろうと思います。人の心の外で公共性が育ち、政治が確立し、資本主義が発達していった。

 また、ここで私が考えたいのはコモンセンスについてです。コモンセンスを作っていったのは誰であろう。かつては宗教が、そして支配者たちが統一しようとしたコモンセンス。今統一化しようとしているのは何であろう。
 文化の多様化したグローバル世界のコモンセンスとは、いったい何によって定義されているのか。
 そしてそのコモンセンスによって規定された公共性を重視した世界において、人は幸福に生きていけるのか。

 ちょっと話が大きくなりましたが、私が公共性より大切な何かを求めるところはここにあると思います。


 不可触民についてのコメントもありがとうございます。ヨーロッパ側の変化とそれに伴う見方の変化がよくわかりました。

 私は人間には(フレーム理論でいうところの)フレームがないので、自己の確立のためには他者との比較は不可欠で、その上で十分に確立するために自己の有利が重要であると感じています。つまり、格差は人の存在にとって必要条件であると。
 したがって、私の中でひとの平等とは絶対的な自由競争と競争できうる知識のための教育を等しく受ける権利です。
 そして、資本主義社会では解決できない問題だということは、よーくわかってきた気がします。

yokosawa さん>

非常に、本質的な問題になってまいりました
こういう議論ができるのは、なんとも嬉しいかぎりです(ホントに!)


老婆心ながら、《宗教=ゴミ箱=排除》論において
僕の強調点は、宗教という「範疇」「名称」というところにある――
この点は、ご理解いただいておりますですよね

ここがズレてしまいますと、もぉ 話し合いになりませんため
(yokosawaさんと 僕の立場は、あまり変わらないと思いますが)
まことに僭越ながら、再度 確認させていただきたいのです


人間の存在の基本要件として たしかに “何か” がありますね
それは、「宗教」(というコトバ、範疇で呼ばれるもの) と深い深い
リンクがある “何か” です

しかし、おそらく それは宗教そのものではない
宗教というコトバでくくると、のがれていってしまう、 もっと微妙な
名づけられていない “何か” であるように直観しています

(安藤礼二さんに それを何と呼びますか、 と聞きましたが)
(まったく誠実な氏は、  名づけられません、 とおっしゃていました)
(同感です)
(スピリチュアリティ論者のなかには、そこを志向する人もいますね)
(それはすごく大切な志向性だと、いつも思っています、嫌味でなく)
(でも、大概は ちょっと舌足らずで、役不足です)
(そこがいつも残念に思うのです)

で、 何が言いたいかといいますと、、、
公共性は 「宗教」 (という範疇/コトバでくくられるもの) にこだわらずともよい
僕は そんな風に思うということです


以上のように用語を整理してきますと
いわゆる 「宗教」 (という範疇/コトバでくくられるもの) がない公共性――
それも まったく不可能だとは思わないのです

“何か” はおそらく、不可欠なのですが
それを 「宗教」 と呼ぶ必要はおそらく、 ないだろうということです

まぁ yokosawa さんと同じようなことを考えているのでしょう、きっと僕も

=====

平等についても同感です

資本主義は、まったく平等なシステム=イデオロギーではありませんよね
「機会平等」 なんて言うけど、まやかしです

機会すら平等に与えられていないじゃないか、なんてことも言えますが
それよりも何よりも
勝てないとわかっている競争の機会をあたえられて どうせいっちゅうの?!
僕には、そっちが気になります

したがって、競争は、平等とは何の関係もないことのように思われます
それは、勝者になるべき者が、おのれの勝利の過程と結果を正当化するもの
にすぎないのではないでしょうか
弱者にいくらかのおこぼれをあたえるだけの・・・

もちろんそれでも、競争すらできない場所よりはよっぽどよいでしょう
弱者が勝てる場合も 皆無ではないからです

弱者と敗者が競争にいつでも参加できる、参加しなおせる――
参加するための条件を 比較的容易に入手できる――
もちろん、参加したくなければ参加しなくてもよい――
参加しなくても尊厳ある人生をおくれる――

そういったことをシステムとしても コモンセンスとしても
確かなものにしていくしか、 もはや行く道はないのでしょう

喫緊の課題です
システムとしては 何とか設計もできましょう
問題は、 yokosawa さんもおっしゃるとおり、 コモンセンスです

世界観=価値観=人生観=常識=定見=法・・・
この辺りの領域ですね

ここがなかなか変わらない

=====

すっかり長くなりました

とりあえず こんなもんにしときます

  誠実なコメントをありがとうございます。

 私が宗教(という言葉で現代言い表されているもの)と宗教(の生みの親である何か)を混同して使用している点を指摘された点は、「ばーれーたーかー」っていう感じですが、まさにそれこそが私の目指すところなのです。

 ここでは宗教の生まれた場所を仮に<マザー>と名付けます。

 人間の根本において<マザー>が大切であるということ、私たちの奥底にあって私たちの精神を支えるもの(むしろ感情を作り上げるもの?)であることは、じつは誰にとっても自明なことであり、その存在を否定するものはいない。ところが、<マザー>はつかみどころのない生き物であり、限定することは大変困難である。
 しかし、<マザー>が利用できれば人にとってこの上ない利益(不利益)をもたらす。

 人の世では名のないものに価値は生まれない。

 <マザー>から引っ張り出したものに名をつけ利用し、生きやすい生活を築こう(この世は人が一人で生きていくには、あまりに非情すぎるから)

 人間の欲望から、宗教だけでなく<マザー>から様々なものが引き出され、名をつけられ、利用されてきた。

 宗教以外のものについて、たとえば芸術についての意見は先生と私は違っていますね。自由や平等や正義といった言葉も<マザー>から生まれたものとは違うというのが私の考えです。(直接生まれたという意味で)
 <マザー>の定義はこういった方法を取る(○×方式)が安全な気がします。本物にはとうてい手が届かないとしても、説明しようとする試みは命取りでしょう(笑)

 さて、このたびなぜ私が宗教という言葉をあえて先生に否定される形で使用したのか。それは私が<マザー>を利用したいと考えたからです。
 今の世の中は、そのくらいのことをやってのけなければいけないほど、思想や精神の上では危機的な状況ではないかということへの、私なりの警告です。

 私たちは子どもたちに世界を残さなければなりません。そしてそれはけして弱者をまたいで平気な顔をしていく人を育てる世であってはなりません。(たとえそれが自国のためであっても)
 でも、どうしてそうしてはいけないかという点で、私たちにとって基本となるべき神は死に、同時に道徳も手放したので、説明はつかないのです。人権という語は、裏付けがなければ便宜的に使用されるだけのものになるでしょう。(今も!)
 資本主義はそれだけのことをやってのけました。

 宗教を排除した公共性を否定し、生活のための利潤を追求するよりも大切な何かがあることを定義付けなければなりません。そのためには<マザー>を利用するしかないのかなと。

 この方法は間違っているのかもしれません。ただ、誰かに否定されて、さらなる道を目指す人が現れるなら、その方が意味のあることです。
 現在の思想的回顧主義から脱するためにも。

 

yokosawa さん>

なるほど そういった試みだったわけですね

宗教学者を集めて、 「宗教のヴィジョン」 という共同研究をやりたい
と思っています

宗教学者は、宗教にこだわりつづけるゆえに、宗教について かえって
何もいえなくなってしまうものです
こっちの見方と あっちの意見、 そちらの立場と あちらの理解――
宗教なんてものに関する見方
(この場合、 僕も「宗教」を 名称と本質の両方の意味で使っています)
《宗教論》 は どれもこれも それなりに妥当なのです

なぜそういうことになるのか?
宗教学者は 軒並み 頭が悪いのか?

もちろん そんなことはありません

そうではなくて、 問題の立て方がわるいのです
「宗教」というコトバにしがみついていると、 かえって
人間と社会と歴史についての 切り口を見失ってしまう
「宗教」とは 何でも入れることのできる 空白記号のようなものだからです

しかし一方、 《マザー》とのリンクを「宗教」は保っているようにも思われる

だからこそ、僕なんぞは宗教学をやりつづけているわけです

《マザー》への近道であるかのうな「宗教」が、 実は
それへの最大の障害になってしまう、、、 そういうことを実感しつつ

とまぁ、、、 こんな現状把握から
「宗教のヴィジョン」(田丸徳義先生のことば)を いま どう持っているのか
――ある種の規範理論といいますか、現象学、形而上学といいますか
そのようなものを 一度 皆で議論してみたいと思っているのです

なかなか実行にうつす機会がないのですが
yokosawa さんがおっしゃっていることは、 おそらく
そういった問題設定のなかで (も?) 光り輝くように思います

  お誉め頂いて恐縮しています。自分でもまだ迷っていることがたくさんありますし(その大部分は、人が利用したのか、≪マザー≫が宿ったのか)、それに、宗教に対する反感をどうやって包み込むのかは、とても難しい問題です。
 考えれば考えるほど勉強不足で恥ずかしくなります。

 「思想・文学がリアルティを失い、自らの実存を仮託するリアリティがなくなった現代では、薄められ一般人にも利用可能なものにされた、お手軽な心理学・精神医学の言葉がその欠落を埋めている・・・」

 『単行本出版時から5年経ち、社会の変化に伴って・・・筆者は「心理学化」というアイデアは過去のものになってしまっていると思っているようで、いまや個人は社会学の「個人の内面に介入しない言葉」が心理学の代替になってきている、つまり「社会の心理学化」から「社会の社会学化」になりつつあるという。」

 (斎藤環『心理学化する社会』(河出文庫)のアマゾンでのRYSKさんの読者プレビューより)

 文系学問の停滞は人にとって大変重い意味を持つのだと感じます。
もちろん<自らの実存を仮託するリアリティ>のために宗教が担う役割は思想・文学よりも大きいはずと理解しています。
 <個人の内面に介入しない言葉>では到底穴埋めできない範囲の空虚を現代人は抱えています。さらに次の何かを求めて、こころは漂流し続ける。その間に人にどのような変化が起こってしまうのか。これから起こりうる事件については考えるのも怖いです。

 

《個人の内面に介入しない言葉》 とは 実にいいコトバですね

個人の内面、、、 とはいいますが、 実はこれは
「公共性」の問題そのものでもあるのでしょう

公共性の問題は、コモンセンスであったり 価値観であったり 絆であったりと
実は 個人の内面に根拠をもっているからです

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