近代精神
こちらのエントリ でも引用したように
「近代性とはなにか」 という記事 で次のように書いた
近代性とは 「人間主義、 個人主義、 合理主義」 に支えられた観念と制度の体系である、 と
- 神から人間へ (人間主義)
- 集団から個人へ (個人主義)
- 感性から理性へ (合理主義)
こうした三種の価値観シフト (認識論的には、 人間、 個人、 理性の概念化と定位) が、 近代性をもっともよく特徴づけるのではないか
逆から言えば、 神なき個々人の理性中心主義 こそが 近代性の極致ではないか
これについて 「近代性とはなにか」 という記事 では さらに
ちなみに、 上の三つのシフトはちょうどその順番で
西欧に起こったのではないか、 と見通しをつけていたのですが
西欧の哲学史・心性史を実際にたどってみると
そこまできれいには 流れていかないみたいですね
という注釈を入れたのだが、 意外とそうでもなさそうだ、、、 というお話
====================
いろいろ勉強していくなかで
自分とまったく同じことを考えていらっしゃる先生を見つけた
現代に生きるわれわれが近代精神という言葉でふつうに思い浮かべるものは、 おそらく次の三つの指標であろう。 第一は、 十字軍遠征をその象徴とする中世盛期の神中心主義に対する人間中心主義であり、 ルネサンスの文化運動の中心原理となったものである。 第二は人格の自立への志向に裏付けられた個人主義の精神であって、 もちろんこれは、 おのれの属する大小の組織や権威からの独立を主張する。 そして最後にあげられるべきものは、 新しい思考法としての科学的合理主義である。 これら三つの指標が精神の内部において明白に結びついているとき、 われわれはこれを近代精神と認めることができよう
鎌井敏和 「ケンブリッジ・プラトン学派とその周辺」 鎌井敏和・泉谷周三郎・寺中平治 (編著) 『イギリス思想の流れ: 宗教・哲学・科学を中心として』 (北樹出版, 1998年, 25-48頁) 25頁
おこがましい話だが、 鎌井敏和先生 と自分の主張が
あまりにも同じ内容、 同じ言葉づかいなので 大変ビックリした
ただし、 僕のエントリは2006年、 同上書発行は1998年!
そして 鎌井先生は次のようにつづける
この一節が、 本エントリの要諦である
この三つの指標は、 時と所に応じて、 強弱・濃淡の差はあったが、 ルネサンス期以来、 ほぼいま述べた順序に従って徐々に歴史のなかに立ち現われ、 近代史の展開を彩ることになった
同
「近代性とはなにか」 という記事 を書いていた当時
フランス思想史を中心に追っていたせいかもしれないが
西欧近代における 《人間 ⇒ 個人 ⇒ 理性》 という歴史的変遷 は
僕には やはりよく見えていなかった
しかし、 当初の直感は当たっていたのかもしれないなぁ、、、 と
鎌井論文で 意を強くした次第
あらためて・・・
近代とは何か―― 人間主義、 個人主義、 合理主義が、 ほぼその順に積み重なるようにして、 あらたな精神を形成してきた時代である
近代性とは何か―― 人間主義、 個人主義、 合理主義が、 複雑に相互干渉しながら、 ひとつのまとまった精神をつくりあげている状態のことである
【メモ】
ただし、 「近代性とはなにか」 という記事 の最後に書いた
「主権・国民・世俗性」 と 「人間・個人・理性」 、、、
この二組の問題系を 僕はまだ上手に接合できないでいる
との課題は、 やはりまだ残る
この課題への取り組みとして、 資本主義論をやっているのだが
たとえば、 こちらのエントリ ご参照
まだまとめ上げるまでにはいたっていないのです
一部で好評を博している論点でもあり
なんとか頑張って、 よい感じにまとめあげたいと思っております
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