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2009年9月の記事

2009年9月30日 (水)

イスラームはなぜ敵とされたのか

<いただいた本>

  • 臼杵陽 『イスラームはなぜ敵とされたのか: 憎悪の系譜学』 (青土社, 2009年8月)

臼杵先生ご自身から いただきました

大変注目を集めている本で、 各方面で書評もありますので

すでにご存じの方も 多いでしょう

蛇足ですが、 出版社のサイトより

味方か、さもなくば敵――この論理が無数の惨劇の引き金となった

いまや 「対テロ戦争」 として世界中に拡大するにいたったイスラームへの迫害。 そして、 その根底にある排除の力学。 中東紛争以前の反ユダヤ主義から現在まで続く暴力の連鎖を、 歴史 ・ 思想 ・ 政治などあらゆる側面から徹底的に解明する画期的著作

つづいて、 序章 「新たな 「敵」 としてのイスラーム」 からも

締めの部分を 抜粋させていただきます (26-27頁)

イスラモフォビアと反ユダヤ主義の関係に関しては、 今、 グローバル・テロリズムがムスリムに対するイスラモフォビアの問題として提示される一方で、 ユダヤ人がグローバリゼーションに代表される 「国際ユダヤ資本」 という名の下でユダヤ陰謀論に簡単に結びつけられるような知的にすさんだ現状がある。 だからこそ、 そのような現状への批判を込めて、 本書は第Ⅰ部 「ヨーロッパと 『地中海』」 と第Ⅱ部 「アメリカと日本」 の二部で構成して、 二つの大きな 〈場〉 を設定する

第Ⅰ部では、 イスラームが敵とされていく 〈場〉 であるヨーロッパと 「地中海」 の近現代史を中心にすえて、 ユダヤ・キリスト教的遺産に絡めて、 その三つの一神教の相互関係の歴史的諸局面に注目して、 その歴史的・文化的・宗教的背景を紹介する

第Ⅱ部では、 より現在性を強調する観点から九・一一事件後、 中東イスラーム世界について語ることは何を意味するのかを、 ネオコンの中東政策、 とりわけイラク戦争を積極的に支援することになってしまった日米における中東イスラーム研究とそのネオ・オリエンタリズム的潮流を批判的に論じる。 さらにそのような潮流とは別の可能性をもつ、 日本独自の中東イスラーム研究のありようを模索していくことにしたい

本書の特徴は、 反セミティズム=反ユダヤ主義と

イスラーム嫌悪 (イスラモフォビア) を関連づけて論じる点です

ヨーロッパ地域研究では常々注目されてきたところですが

こうした形で 日本の一般読者層にもその歪みが知られるのは

世界の 《健全化》 には資するところ大でしょう!

もちろん 《問題解決》 には まだまだ先が長いでしょうが…

言うまでもなく、 大変信頼できる著作です

私も、 じっくり読ませていただきます

臼杵先生> ありがとうございました (=゚ω゚)ノ o(_ _)oペコッ

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【付記】

個人的なことを 書かせていただきます――

臼杵先生は 本書を 大塚和夫先生 に捧げられている

大塚先生には 僕も小さからぬ恩義を感じています

臼杵先生は 「あとがき」 で、 大塚先生と共催された

いくつかの研究プロジェクトに言及しておいでですが

そのうちの少なくとも二つ

「宗教と民族の復興?」

「グローバル化の中の国家・民族・宗教」

臼杵・大塚両先生と 西谷修先生 で主催された

これらの研究プロジェクトには、 私も呼んでいただいた

これらの場は、 私の荒削りな研究を 真正面から

受けとめていただいた 実質 最初の機会でありました

大塚先生、 臼杵先生、 西谷先生はじめ、 皆さんとの交流が

その後に振っていただいた仕事の成果が

今の僕を 具体的にどれだけ支えていてくださることか

大塚先生のご冥福を 心よりお祈り申し上げます

GROOVE LINE

GROOVE LINE の公開生放送が 今日で終わりPiston_p

さっき聴いたら えらい盛り上がりだった

僕は 結局 一度も 《観戦》 にいけなかった・・・

J-WAVE には何かと思い出がある僕だけど

この番組にも いろいろと思い出させられることがある

ツラかった時期 いろんな事情で ちょうどこの時間帯Hideshima_p

毎日 車を運転してばかりいて

それで知ったのが この番組だった

なんだか いろいろ 思い出すなぁ・・・

番組はまだつづくそうですね 嬉しいことです

スタッフの皆さん がんばってください 応援してます

ポランスキー 「テス」

<気になった記事>

有名監督わいせつ容疑で逮捕

もう 皆さんご存知であろう

ロマン・ポランスキー監督の話である

冤罪であるのかどうかは知らない

彼が 真のロリコンであることは、 疑いない

映画は くやしいけど、 よい!

  • 「テス」 (1979年)

は たしかに忘れられない映画だった

グリィッとくる 情念の映画だった

この作品評としては 竹島ルイさん の評が抜群 だと思う

僕が言い添えることは ありません (=゚ω゚)ノ o(_ _)oペコッ

2009年9月29日 (火)

切断とコミュニケーション

こちらのエントリ まで紹介してきた シンポの記録

  • 浅田彰・東浩紀・磯崎新・宇野常寛・濱野智史・宮台真司 「共同討議 アーキテクチャと思考の場所」 『思想地図』 vol. 3 [特集: アーキテクチャ], NHKブックス別巻, 日本放送出版協会, 2009年5月, 12-75頁)

もうひとつ、 メモしておきたい部分があった

東浩紀さん の発言である (70頁)

確かに人間自体がフィジカルな存在なので、 あらゆる表現において、 メタフィジカルな構想をフィジカルに落としていく局面は絶対に必要になる。 それはそうなのですが、 ただ、 IT化の進行によって、 かなり落とさなくてよくなったジャンルと、 それでも落とさざるをえないジャンルというものがあるだろう。 たとえば、 文章を書くことや音楽を作ることは、 無限のデータストレージさえあれば、 切断を無限に先延ばしできるようになってしまった。 しかし、 建築や演劇のように、 現実の空間や身体を使うような芸術は、 フィジカルに 「落とす」 問題が残り続ける。 ただ、 それはグラデーションの問題で、 全体的にはメタフィジカルに寄ってきたのかなという感触はあります

僕の個人的な話に ひきつけさせていただけば

本や論文を書くことは まさに 「切断」 なのだが

その必要性や有効性、 ひいては意義が どうも

はっきりしなくなっている

これが、 僕があれだけ言われながら 本を書けない理由だし

そのくせ こうしてシコシコと 「ブログ」 を書いている理由だ

メディアとパフォーマティヴなもの、 学問とコンスタティヴなもの

そのあたりの関係が ずいぶん流動化したというか

ほとんど無根拠化した、 と思う

僕にとっての学問とは、 ヒトとつながる場である

お世辞にも高尚ではない青春時代を送ってきた僕が

頭の中をめぐる とんでもなく コムズカシイ事柄を

大学の場で 全面展開してみたら、 聞いてもらえた

あまつさえ 褒められた

これが 僕にとっての 「学問」 の原始であり、 すべてだ

だから コミュニケーションとリンクが 僕の求めるものである

今、 そのためには メディアとコトバを 自分で見つけないといけない

そういう直感がどうやら僕にはあって

それでいろんな模索を ギリギリとやってきた――

と、 今になれば 思うのだ

ayumi hamasaki concert tour 2000

浜崎あゆみ は、 相当すごいアーティストだってことを

僕はときどき、 自称 「歌好き」 の方に説明せねばならず

とっても歯がゆい思いをするのだ

最近の歌は まぁどうかと思うときがあるのだが

やはり 人気絶頂のあのときの あの歌はすさまじかった

何だったか、 大晦日のテレビ番組で 流行歌手たちが

入れ替わり立ち替わり ヒット曲を披露するというのがあった

僕は 何の気なしに それを見ていたのだが

聞き流していた 彼女のパフォーマンスに たまげた

Boys & Girls を歌っていたと記憶するが、 ともあれ

何としっかりとした歌手ではないか!

その思いを さらに強くしたのが、 下のDVDを観たとき

これは もぉ 何回も観なおしたものだ

これは 大傑作のDVDだと思う

浜崎あゆみから僕が学んだのは 「女の子のパンク」 ということだ

パンクを女の子がやったら、 まさにこれになる!

これは、 女の子にしかできない パンク だ!

これを悟ったとき、僕の女性観は 決定的に変化した と思う

大げさではなく、 僕にとっては とても大きな転機だった

YouYube に 一部がアップされている

とりあえず、 二つを埋め込みにしておきます が!

やはりこれは 全編を通してみるべき 《作品》 だと思うなぁ

2009年9月28日 (月)

ゼロ年代の思想

<読んだ本>

  • 佐々木敦 『ニッポンの思想』 (講談社現代新書, 講談社, 2009年7月)

もともと 《中沢新一論》 の参考書として入手したが

想像以上に いろいろ面白かった

あっという間に読み終わってしまった

カギ括弧がやたらと多いのは

佐々木さんの 「読者=受け手」 としての自意識の発露だろう

僕は自分が 「書き手=送り手」 というよりも、 まずひとりの 「読者=受けて」 であるということに、 ある種の確信めいた強い自負の意識を抱いており、 その意味において生じる責任は引き受ける覚悟があるし、 これまでもそうしてきた

「あとがき」 341頁

本文中から ご紹介したい文章はたくさんあるのですが

ここでは 終章から一節だけ、 引用しておきます

本書の結論 といっていい部分です

「ゼロ年代の思想」 は、 たとえば 「八〇年代」 の 「おたく」 がそうであったように、 趣味判断の特殊性 (センス) や、 蓄積した 「知識」 や 「情報」 の多寡を競いはしません。 「センスが良い」 とか 「他人が知らないことを知っている」 とか 「知っていること」 の 「早さ」 や 「速さ」 は、 そこではむしろ侮蔑の対象となります。 なぜなら、 それだと 「ルール」 が共有できないからです。 したがって 「ゼロ年代の思想」 は、 プレイヤーたちによってあまねく 「共有」 されたフィールド (おもに 「オタク系カルチャー/サブカルチャー」) と、 どんな人にとってもほぼ共通する問題系 (「社会」 や 「ネット」 や 「公共性」 など) を相手どることになります

335-6頁

また、 その 「勝敗」 の結果は、 出来れば 「ゼロアカ」 のように明確に経済的な、 それが無理でも何らかのレベルで 「社会的」 な 「成功」 を賭け金にしている必要があります。 確かにそこには、 小泉政権下で醸成された 「勝ち組/負け組」 なる悪しき二項対立が作用していることも事実です。 しかし 「現状」 がそうなのだから、 「思想」 はそれに対抗するのでも無視するのでもなく、 同じ図式に敢て乗っていかなくてはならない。 そうでなければ、 それは本当に端何る時間潰しの遊びになってしまう。 「ゼロ年代の思想」 という 「ゲーム」 は、 もう 「遊戯」 ではありえず、 それがどういう意味であれ、 真剣な 「競技」 であらねばならないのです。 でなくて、 どうしてひとは、 今更わざわざ 「思想」 をしようなんて思うというのでしょうか?

336頁: 原文の傍点は 太字にあらためた

ストロベリー・チップス

<ただ好きな歌を紹介するだけのコーナー>

やはり ハルカリでは いまだにこれが!

2009年9月27日 (日)

ノルウェーの右派政党

国王をいだく王国であり、かつ国教をもつ国民国家

しかも国民的と呼びうるリベラル文化をもつ国――

そういった場所での 総選挙の話です

http://www.asahi.com/international/update/0915/TKY200909150264.html

ノルウェー総選挙、中道左派が連立政権維持

2009年9月15日18時48分

【ロンドン=土佐茂生】 任期満了に伴うノルウェー総選挙 (定数169) は14日に投票があり、 15日未明までに99.9%の開票が終わった。 開票速報によると、 労働党を軸にした中道左派連立与党の獲得議席が過半数を超えた。 金融危機を手堅く乗りきったことが評価されたとみられ、 ストルテンベルグ首相は勝利を宣言し、 3党による現在の連立政権の枠組みを継続する意向を明らかにした。

 開票速報によると、 労働党と左派社会党、 中央党の与党3党の獲得議席は86で、 わずかながら過半数を超えた。 前回05年の総選挙では、 3党の議席は計87だった。

 一方、 野党側では、 大幅減税や移民の受け入れ制限などを訴えた右翼の進歩党が前回の38議席から41議席にのばした。 保守党も30議席と前回より7議席増やしたが、 他党が落ち込んだため野党全体では83議席にとどまった。

僕が注目したのは 「進歩党」 (Progress Party: 英語) です

移民問題は当然 労働市場の閉鎖をもとめるわけですが

同時に、 文化/宗教のあらたな活性化をもたらします

これは、物理法則並みに確定的な 歴史の流れです

日本も 他人事ではありません

それらの問題が生じることが明々白々であったにしても

移民受け入れ (同時に、 日本人の海外労働) を避けてはならない

僕は そう考えています

【メモ】

  • 「ノルウェー総選挙 進歩党」 で Google! →
  • 「Norway general election Progress Party」 で Google! →

コチェック @ アンダーグラウンド

<ただ好きな音楽を紹介するだけのコーナー>

短いのがとても残念なクリップ

  • 「アンダーグラウンド」 (エミール・クストリッツァ, 1995年)

は マイ・ベスト映画50 に入ります

すごいもの観たなぁ、 って思わされる作品です

音楽が めちゃめちゃ 効いてる映画 でもありますね!

2009年9月26日 (土)

宗教社会学と宗教現象学

前便 にひきつづき、 シンポ記録

  • 浅田彰・東浩紀・磯崎新・宇野常寛・濱野智史・宮台真司 「共同討議 アーキテクチャと思考の場所」 『思想地図』 vol. 3 [特集: アーキテクチャ], NHKブックス別巻, 日本放送出版協会, 2009年5月, 12-75頁)

より、 部分的抜粋メモ です

やはり、 宮台真司先生 の発言より (57頁)

じつは同種のことを一五年前の 『終わりなき日常を生きろ』 (ちくま文庫) で宗教を論じた際に、 このように書いています。 宗教者は、 宗教は社会よりも大きく、 宗教学は社会学よりも大きいと考えます。 しかし社会学からすれば、 そうした思考自体が社会システムの 「内部イメージ」 です。 だから社会学者にとっては社会は宗教よりも大きく、 社会学は宗教学よりも大きいのです。 同じことで 「全体性」 という概念も、 所詮は社会システムの 「内部イメージ」 にすぎません

そうしたことを考えると、 宇野さんがおっしゃった 「全体性を論じることに意味はないんだ」 「いや意味があるんだ」 という議論自体にはあまり意味がないわけです。 全体性もどのみち社会システムの 「内部イメージ」 にすぎない以上 ――そして何よりも僕のこうした物言い自体も社会システムの 「内部イメージ」 のなせるワザである以上―― 全体性をめぐって政治的せめぎあいが起こりうるし、 現に起こっているというだけの話なんですね

これは、 相対主義的世界観に対して、 社会の全体性なるものを

どのように担保し確保するか、 という おなじみの課題に対する

宮台先生の応答だ

で、、、 ちょっと全然違う文脈に話をもっていきたいと思う

念のため言っておくが、 宗教学者は 宮台先生の発言を

「バカにされたぜ」 みたいなノリでとってはいけない。 得策じゃない

むしろ、 論争にのっかるにしろ のっからないにしろ

宗教現象学と宗教社会学のあの論争へと しっかり接続すべきだ

こちらのシンポ 終了後の懇話会にて、 山中弘先生 より

コンドー君の話は、 宗教現象学なのか宗教社会学なのか

なんだか詰めきれていないよ! という指摘をうけた

まったくその通りであって、 宗教学を宗教学として

原理的にささえるものを、 僕自身まだ 明らかにできていない

宗教現象学と宗教社会学の折衷的統合まではできているが

やっぱりまだまだ詰めきれていないのだ!

三沢前社長 vs. 田上現社長

やっと 三沢選手の試合を観る気持ちになってきた

まずは 三沢 vs. 田上の GHC戦からMisawa_vs_taue_noah_puro

もうすぐ 削除されてしまうだろうから

マグノリア

昨晩 深夜、 スター・チャンネル プラスで

  • 「マグノリア」 (ポール・トーマス・アンダーソン, 1999年)

が放映されていた

日本語吹き替え版だったので、 観る気は起こらなかったが

とにかく 僕はこの映画が好きだ! と書いておきたくなった

一部で評判が悪いとも聞いていたが

アマゾンのレビューは 大変高いので 安心した

僕だけでは ないわけだ、 あれにやられているのは

「マグノリア」は交響曲だと思う。 3時間の堂々たる交響曲

これほど 音楽的な映画を 僕はほかに知らない

(「トレインスポッティング」 だって かなわない!)

挿入歌、 主題歌がすばらしい、 というのではない

映画そのものが まったく音楽的、 交響曲的だ、 と言いたいのです

アンダーソン監督は ずっと十分には評価されていない、 と思う

「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」 でも、 結局 主演男優賞だけだったし

あの独自の趣味思考のせいなんだろう…

僕としては、 「マグノリア」 のほうが 「ゼア・ウィル・ビー」 より

すんごいと思うんだが、 どうなんだろう…

(そういえば、 「ゼア・ウィル・ビー」 も 音楽がすごかった)

閑話休題

映画関連のシンポに出させていただくことになったので

「マイ・ベスト映画50」 をリストアップしてみたのだが

これがもぉ 恥ずかしくなるぐらい、 フツーの映画リストになった

そんななかで、 「マグノリア」 は

ちょっとは 文化人っぽい色 を出すことができる、 貴重な一本だ (笑)

画面の前から動かず、 じっくりと最後まで見入ってほしい

途中でメールをやったり、 トイレに行ったりせず

だって、 交響曲ってそういうものでしょ sign02

2009年9月25日 (金)

合理/非合理の二律背反

こちらのエントリ まで紹介してきた

『思想地図 vol.3 アーキテクチャ』

巻頭のシンポ記録も いろんな意味で面白い

  • 浅田彰・東浩紀・磯崎新・宇野常寛・濱野智史・宮台真司 「共同討議 アーキテクチャと思考の場所」 『思想地図』 vol. 3 [特集: アーキテクチャ], NHKブックス別巻, 日本放送出版協会, 2009年5月, 12-75頁)

ここでは、 ちょいと断片的なメモ書きをば

宮台真司先生 の発言から (50-51頁)

湯浅誠さんが陣頭に立った年越し派遣村の狙いは、 厚労省の横に陣取ることで、 派遣規制や解雇規制をさせることでした。 しかし社会科学をやっている人間がみんな知るように、 資本移動の自由があるなかで雇用リスクが上がれば、 国内労働市場は必ず縮小します。 雇用リスクの高いところで企業は人を雇わないので、 解雇規制を要求すると、 必ず自分の首を絞めることになるわけです

でも官僚や政治家や学者がそういう正論を言っても、 世間から共感を得られません。 ベックが考えていないことでしたが、 「どうせ正論が通らないなら、 中央政府はもはや責任を取れないから、 市民の共同体的自己決定にまかせよう」 という面が 「市民政治」 にはあるのです。 「高度技術社会でリスクの合理的算定が難しくなった」 こと以外に、 「リスクの合理的算定が可能な問題についても合理的決定がアンポピュラーになんるので、 市民が勝手に不合理な決定をしろ」 ということ。 「共同体単位で愚行権を行使しろ」 と投げ出してしまうわけです

これは、 シニカルな批判 (冷笑的な文句) ではなく

宮台先生らしく プラグマティックな目標達成のための現状認識

ということだろう

政治的課題の二律背反 は いつも合理的なものではなく

合理/非合理の背反であることもある、 その好例だ

それも抱えこんで道を切り開くのは、 官僚というよりも

まずは 政治家の課題であるはずだ

【メモ】  派遣禁止でも正社員増えず!?

付言すれば、 非合理はもちろん、 宗教学の研究対象である!

つまり、 愚行権や愚衆政治とよばれるものは!

「《世俗》 の宗教学」 とは、 たとえば こういうテーマを追究する

2009年9月24日 (木)

ゼロ成長時代のモデル

2009年9月18日付 朝日新聞 朝刊、 オピニオン面

新内閣への注文 09政権交代

水野和夫さん (三菱UFJ証券 チーフエコノミスト) の稿

ゼロ成長時代のモデル築け

非常に! 面白かった

残念ながら ネット上では読めないようなので

やや長めの引用で 内容を紹介したいと思う

【宣伝】  朝日新聞、 その他の購読申し込みは こちら から 

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冒頭の二段落で、 水野さんはズバリ! こう述べる

ゼロ成長のもとでも豊かに暮らせるというモデルを、 ひるまずに築いてほしい。 選挙を通じて民主党が示してきた政策の中にも、 新たなモデルづくりの芽はある

パイを大きくすればなんとかなった時代は石油危機で終わったのに、 自民党はゼロ成長時代への転換を図ることなく成長にこだわり、 インフレとバブルでつじつまを合わせてきた。 それは結果として、 せっかく築いた一億総中流社会を崩し、 入れ替え戦のない1部と2部のリーグに社会は分断されてしまった

さらにこう述べられる

子ども手当とか高校までの教育費の事実上無料化といった民主党の政策は一見バラマキのようだが、 本来は分断された社会を元に戻す努力の表れだ。 ところが自民党から成長戦略がないと批判されると、 一連の政策は内需振興に結びつくなどとつくろってしまう。 相変わらず成長戦略などと言っている自民党も自民党だが、 ひるんでしまう民主党もどうか

景気対策が内需拡大につながらないうえ

労働時間の増大をもたらすだけだ、 との指摘をおこなった後

人口の減少で内需の伸びは期待できない。 外需もモノの輸出に頼っているかぎり資源高騰で引き合わない。 そういう経済構造の転換を知ってか知らずか民主党が打ち出した再分配の政策は、 時代の流れに沿っている

と述べられる

水野さんが進言するのは

  • アジア重視の姿勢
  • 20世紀モデルからの脱却

の二つだ。 第一の点については、 世界経済史のなかで

今やアジアが 「最終ユーザー」 になり

「ユーラシアの時代」 というのが反転不可能な潮流なわけで

それに棹差すという点で、 民主党の政策を高評価する

経済構造の歴史的変化にかんがみ、 さらに水野さんは

  • サービスや知的所有権に関する分野での輸出へのシフト
  • 脱石油 (経済界からの反対にもかかわらず、 断行すべし)

も推奨する

最終段落で、 あらためて次のように述べ、 本稿は閉じる

70年代以降の遠回りで失った分を取り戻すには10年でも足りない。 新内閣は少しずつ独自性を発揮していけばいいが、 成長戦略がないと批判されても、 むしろそれを持たないほうが21世紀の潮流にマッチしていると考え、 成長志向の名残を一掃してほしい

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本ブログで私は以前から、 「成長」 という語を無批判に使ってきた

たとえば、 「経済全体の成長戦略 1」 「同 2」 とか

「公正の実現こそ成長戦略」 とかのエントリがそれだ

しかし、 水野さんのエッセイを読んで気づくのは

「成長」 という言葉を批判できないからには

僕もまだまだ不徹底だった (ここが所詮 素人仕事) ということだ

水野さんの一見ラディカルに見えるが、 実に希望的な論に

身を正される思いがしました

【メモ】 「"ゼロ成長時代のモデル"」 で Google! →

2009年9月23日 (水)

カルト、不可知論、あいまいな生

前便 よりつづく

【シンポ】 映画の中の宗教文化 追加情報 です

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当日、 最後の 「全体討論」 で いろいろ発言させていただきました

なかでも、 櫻井義秀先生 の質問に対しての私の応答が

具体的な映画作品にかかわっていたので

その点をば 記録させていただきます

 カルト問題、 霊感商法問題などを背景に、 世の中の宗教的なことを、 その肯定的な側面を含めて、 学生さんたちに教えるというのには、 やはり危険な面もあるのではないか。 カルトにはまったり、 非合理的な世界観を強固にしてしまったり、 そういうことを導いていってしまうこともあるんじゃないか。 登壇者らは、 その点、 どんな工夫をしているか

僕は、 三つのことを学生さんたちにお伝えするんだ、 と応じました

  1. 「カルト」 という概念 をしっかり伝える。 何らかの状態に立ったとき、 彼女たちが 「これは 「カルト」 っぽくなかろうか」 と自問できるようにするため
  2. 「不可知論」 という立場 をしっかり教える。 科学だろうとなんだろうと、 わからないことはわからないでよい、 という立場。 あの世があるかどうか、 霊魂は実在するかどうか、 神は存在するのかどうか、 こうした問いは、 考えてみてもわからないことだ、 と ブッダの昔から言われてきた
  3. 「人間的生のあいまいさ」 を率直に見つめる態度をうながす。 《宗教》 か 《世俗》 か、 科学的か非科学的か、 そういったことは大事だけど、 実人生はそんな問いではできていない。 そのあいまいさをそのまま受けとめ、 上手にわたりあっていくという行き方を推奨する

で、 2 と 3 は互いに相当深く関連するわけですが

その事情をよく説明する映画として

  • 「エミリー・ローズ」 (スコット・デリクソン, 2005年)

をあげました。 ただし、 神父さんが車にはねられるシーン!

あれさえなければ、 完璧だった、 と

あれは まったく不要なシーンであって、 非常に残念!

一方、 1については

授業で 映画に引きつけて話をしたことがありませんから

壇上ではすぐに思いつきませんでした

  • 「ある朝スウプは」 (高橋泉,2003年)

が、 日本のカルト問題ということでは思い浮かぶ。 いい映画だ

しかし、 あれではちょっと、 足りないところがある

カルトの 《危険性》 を伝える映画ではないから、 と発言しました

発言の後、 壇上でいろいろ考えていたら

別の映画がいいんではないか、 と思い立ちました

時間がなくて、 マイクを通しては発言できず、 シンポ終了後

櫻井先生 (と、 お隣にいらした 西村明さん) にだけ

口頭でお伝えし、 意見交換をしました。 その映画とは

  • 「悪い男」 (キム・ギドク,2002年)

キム・ギドク監督ですから、 そりゃもぉ 「エログロ」 満載

それが 女子大の授業で紹介するのを躊躇させるのですが

とらえられて抜け出せない、 不幸なのにそれに耐えてしまう

そして、 最後は…

という、 まさにカルト的なものの現場を、 学生さんたちには

わかってもらえるかもしれない、 と申し上げました

櫻井先生> ありがとうございました (=゚ω゚)ノ o(_ _)oペコッ

野牛戦士 vs. 圧殺獣

Bison_2バイソン vs. バーナード Giant_bernard

観たいなぁ

相当いい試合になると思うけど

ムリだろうなぁ

どこをどうしたら

これが実現するのかなぁ

2009年9月22日 (火)

映画を教材にして比較宗教の理論的課題を明らかにする

こちらのエントリ まで 複数回 宣伝してまいりました

シンポ 映画の中の宗教文化

無事 終了いたしました

長丁場でしたが、 中身のある しっかりとした会議でした

疲れましたが、 出席させていただいて ホントによかったです

主催運営の方々> 本当にごくろうさまでした。 お声をかけていただき、ありがとうございました

私の発表は とりあえず好評だった、 と言ってよろしいかなと

当日配布した読み上げ原稿 増補改訂版を公開いたします

good こちらからどうぞ

例によって、 言い添えたことや、 言い足りなかったことを書き加え

余分な段落を脚注に落としこんだりしておりますが

大意は一切変えておりません。 あしからず m(_ _)m

2009年9月21日 (月)

社会工学と人間工学

「アーキテクチャ」 という語は 僕にとっては とても便利だ

こちらのエントリ のコメント欄で述べたように

人間の生理学的=解剖学的構造から 個人の創作と歴史の堆積――
この三者が まったく 《合理的に》 連続しているという視点

僕はこれまで 「欲望の政治学」 というコトバを使ってきたのだが

一単語ではないし、 構造性を端的にあらわさないし、、、 等などで

どうも使いづらかった

「アーキテクチャ」 はとても便利なコトバだ、 というのはこの意味でだ

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僕の関心は

宗教=世俗的近代性のアーキテクチャ

の解明なのだが、 これは大目標であって

その手前に明らかにすべきことが いくつも いくつもある

その手前の水準にある問題系としては、 たとえば

社会工学 とか、 人間工学 とかいう概念がある

まずは入り口として

  • 藤村龍至 「グーグル的建築家像をめざして: 「批判的工学主義」 の可能性」 『思想地図』 vol. 3 [特集: アーキテクチャ], NHKブックス別巻, 日本放送出版協会, 2009年5月, 77-109頁)

における それぞれの概念の定義を記録しておきたい (79頁)

社会工学 = 「法規、 慣習、 市場などの社会に関わるデータベースに基づく計画の手法」

人間工学 = 「人のふるまいに関わる物理的条件をコントロールする計画の手法」

後者についてはさらに

人間の認知特性をもとに様々な機械の操作性や人の動作環境を向上させる研究のフレーム

という定義も添えられている

2009年9月20日 (日)

経済に関する基本認識

民主党新政権に対し、 僕がまず期待するのは

  • 政 ・官 (・財 [農を含む]) 関係の再構築
  • 経済政策の戦略的な組みなおし

の二つだ

医療、 福祉、 教育、 雇用、、、 問題は山積だが

国家歳入の分配だけに気を配っていたら、 何も変わらない

明々白々 ジリ貧だ!

上の二つを優先することで、 未来が見えてくるのではないか

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そんな思いから、 まずは 課題#2について

基本的な認識を 確認しておきたい

(ホントは #1と 完全リンクしているのだが、 当面は分けて)

■  基軸通貨としての米ドルの地位は 簡単にはゆるがない。 米ドルの信頼失墜は、 少なくとも当面、 日本の国益にまったく反する

■  内需拡大策では 景気回復はのぞめない。 第一に、 日本は圧倒的な内需の国である。 輸出依存率はきわめて低い。 第二に、 国内市場はロングテール化し、 急激に規模を縮小させている

■  市場介入政策は 市場メカニズムを壊す

これは、 経済の客観的な構造=力学であるから

そこをはずすと、 全体がくずれていってしまうだろう・・・

新政権の評価をくだすなら、 まずは

経済全体の戦略 について くだしたいものだ、 と思う

そのためには、 僕らの側の 「経済リテラシー」 が必要だ!

【参考】  「ぐっちーさんの ここだけの話 政府も政府だけど トホホな民主党」 AERA 2009.8.31 号, 60頁

2009年9月19日 (土)

アーキテクチャと自然

一般的なアーキテクチャ論なんてものが、 はたして

有意味なのか、 そもそも可能なのか、 ちょっと僕にはわからない

しかし、 僕のアーキテクチャ論は

《宗教=世俗的近代のアーキテクチャ》 という個別具体的な対象をもっていて

その限りではこう断言できる

  1. アーキテクチャは、 権力による単純な創作物ではない
  2. アーキテクチャの効果は、 単純な洗脳と操作ではない

偶然性の滲入とか、 計画立案や施行竣工の不備とかのことではない

そうではなく、 アーキテクチャの成立要件が所与なのである

たとえば人間工学が、 人間の解剖学的、 心理学的、 社会学的な 「自然」 を

基礎的データにするということだ

「社会学的な自然」 とは語義矛盾だが、 要するに

法規、 規範、 習慣、 技術、 物理インフラなどのこと

「環境」 という自然主義的用語で それらは一括される

権力は 「自然」 に根ざすとき、 最大の効力を発揮するだろう

短期的には、 権力はいろいろなことができる。 しかし

僕の考えるアーキテクチャは、 かなり長期的な歴史的構成体だから

それを成り立たせる力学は、 より低い抵抗のものへと遷移する

たとえば、 命令と服従の力学ではなく、 快不快原理が優越していく

権力が資本制に吸引されてやまないのは、 そのせいだ

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これが僕のアーキテクチャ論の大事な点なのだが

それを 同じく議論の出発点にしているのが、 鈴木謙介さん だ

  • 鈴木謙介 「設計される意欲: 自発性を引き出すアーキテクチャ」 『思想地図』 vol. 3 [特集: アーキテクチャ], NHKブックス別巻, 日本放送出版協会, 2009年5月, 110-35頁)

端的に 次のように言われる

アーキテクチャによって促される人々の自発的行為は、 設計者による人々の潜在意識への 「洗脳」 などではなく、 設計者と利用者の間の相互作用と、 両者を取り巻く多くの変数 …… との相関から生み出された結果とみなすべきなのである

113頁

この理解は 次のような定義をみちびく

アーキテクチャとは、 情報技術などを用いた環境の設計によって、 人々に一定の幅での自己決定を促すことを目指す 「仕組み」 だと定義できる。 この場合の 「環境」 とは、 物理的な空間の布置や、 ある場所を運用するための制度などである

112頁

アーキテクチャとは、 制御しようとする環境の内にある人々の動きを事前に予測しながら、 人々が自由に選択することと、 そのシステムにとって望ましい状態を維持することを両立させるための、 絶え間ないプロセスである

114頁

【シンポ】 映画の中の宗教文化 4

これまで3度にわたりお知らせしてきましたシンポジウム

映画の中の宗教文化

いよいよ 明日 (9月20日) の開催となりました

前便では 私の発表の要旨を掲載しましたが

なんだか小難しいコトバばかりですよね

明日は、 もっともっと簡明なコトバで語ろうと思っています

私の授業を受けてくださった方はよくご存知のように

僕の話し言葉は、 書き言葉と まったく! 完全に! 違います (笑)

読み上げ原稿の冒頭部分をば ちょっとご紹介して

皆さんのご参考に供したいと思います

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090920 国際研究フォーラム「映画の中の宗教文化」

映画を教材にして比較宗教の理論的課題を明らかにする

ひとつの試みの報告

近藤光博

1. はじめに

今日の私のテーマは、 現代の宗教学が直面している 《理論的な困難》 について、 です。 それはとても深刻な 《困難》 でありますから、 意識ある宗教学者なら、 それを見て見ぬふりなど到底できません。

大学の授業で私は、 この 《理論的な困難》 について、 《その乗り越え》 について、そして、そのようにして見えてくる 《宗教学の刷新》 について、 学生さんたちに一生懸命、 語って聞かせます。

しかし、 私のこうした問題意識と熱意は、 最初、 学生さんたちにはなかなか理解してもらえません。 よくて抽象的、 ふつうで空想的かつ空疎、 わるければ妄想的で偏執狂的な、 学者バカのこだわりにすぎない、 というのが、 授業開始時、 彼女たちがもつ第一印象のようです。

宗教を宗教として論じることに、 一体なんの問題があるのか。 そんなことを考えるくらいなら、 オウム真理教やイスラーム過激主義のような集団についてちゃんと研究して、 社会の安寧と子供の将来のため、 ひとつ立派な政策提言をしてくれよ――

あるいは、 宗教の真髄を、 現代人にもわかるかたちで取り出すことで、 混迷する国家社会と地球社会の道程を照らすともし火を与えてくれよ――

こうした訴えの 《中身》 はもちろん完全に正当です。 私自身、 専門とするインド研究を通じて、 そうした取り組みをしてきました。

しかしそのことと、 宗教学を理論的に考えなおすという課題とは、 別問題です。 否、 もっと強い言い方をすべきです。 《宗教学の理論的再検討》 は、 やれるならやるべきものでも、 やったほうがよいものでもありません。 それは、 いま宗教について考えるために必要不可欠なもの、 なのです。

家族の絆の流動化、 教育制度の疲弊、 環境/エネルギー問題、 金融危機、 少子高齢化、 官僚機構の腐敗、 医学技術による生命操作、 BRICSの台頭 ―― これらはいずれも、 私たちの日常生活に直接かかわる構造的な課題です。 そして、 それらと 《宗教学の理論的再検討》 という課題とは完全に通底している、 というのが私の主張です。 思想をとおして現代世界を読み解くと、 そういうことが明々白々に見えてきます。

だからこそ、 宗教学は、 おのれを底の底まで棚卸ししてしまわねばなりません。 そうしなければ、 宗教学は、 単に不要な学問分野になりさがってしまうでしょう。

こうしたことを言うのは、 自分の専門分野の死守という利己的な関心からではありません。 宗教学を失ってしまうのは、 人類にとって大きな痛手となる、 と考えているのです。 というのも、 もろもろの宗教団体の壁、 国家の壁、 言語の壁などなどを越えて流れつづける、 宗教についての徹底した思考をつむぎあげてくるのに、 宗教学は非常に大きな役割を果たしてきたからです。 また、 宗教の問題は、 解決済みであるどころか、 今あらためて重要性を増しているからです。

*       *       *

それでは本題に入ります。 大学教員である私は、 以上のような大きな問題の在り方を、 何とか学生さんに伝えたいと願い、 授業でいろいろな工夫をしています。 映画を教材に用いるのも、そのひとつです。

<つづく>

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2009年9月18日 (金)

公正の実現こそ成長戦略

前便 につづき

2009年9月9日付 朝日新聞 朝刊、 オピニオン面

若手政治学者の目: 09 政権交代

最後に紹介するのは

三浦まり先生 (上智大准教授、 現代日本政治・福祉国家論) の稿

公正の実現こそ成長戦略

最後の一段落を抜粋させていただきます

民主党が貧困問題や雇用格差の問題に真剣に取り組めば、 それは経済界の短期的な利害とは反することになる。 しかし人を育てず粗末に扱うようでは、 結局のところ社会はすさみ疲弊するだけだ。 人間の尊厳を大切にする社会へと日本を創りなおすことこそ、 中長期的な成長戦略でもあるという姿勢を新政権が貫けるか、 有権者は注目していくことになる

引用者付記: 「有権者」 というよりは、 「国民」 かな、 と思う

これはまったく正論だが、 もうちょっと事態は複雑だ

複雑というより、 二律背反 なのだ

別項 「今の日本に必要な政治」 ご参照ください

三浦先生も そんなことは 先刻承知でいらっしゃろう

文字数制限から 結論を強調的に述べられているのだろう

ともあれ、 このあたりの議論をしっかりして

その経緯と結論が 国民に開示されること――

新政権には それを期待したい

2009年9月17日 (木)

大臣の働きを注視せよ

前便 につづき

2009年9月9日付 朝日新聞 朝刊、 オピニオン面

若手政治学者の目: 09 政権交代

豊永郁子先生 (早稲田大学教授、 政治学・比較政治) の稿

大臣の働きを注視せよ

より (ルビは省略)

現在、 民主党の官邸機能強化、 国家戦略局設置の構想が注目を集めているが、 今後の政治報道には、 あえてこれまで以上に各大臣を主役とした報道を求めたい

政策のチェックはもとより、 政治家の淘汰のためにも、 メディアは首相身辺の報道に偏ることなく、 大臣クラスの活動をしっかり報道しなければならない。 そうなれば、 いつの間にか悪法が成立しているという事態も、 資質を欠いた首相が出てくることも、 避けられるはずだ

蛇足だが、 マスコミへの圧力は視聴者しか与えられない

メディア・リテラシーとかなんとかあるが、 要するに

マスコミに流されないよう ちゃんとしよう!

マスコミにちゃんとしてもらうよう こっちもちゃんとしよう!

ということだ

2009年9月16日 (水)

消費者民主主義に陥るな

こちらのエントリ にて紹介した

2009年9月9日付 朝日新聞 朝刊、 オピニオン面

若手政治学者の目: 09 政権交代

僕の目を引いたのは、 なぜだか 全員女性のもの

いずれも、 政党や政治家への助言というよりも

国民に対し あらたな自覚と行動をもとめるものだ

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まずは、 谷口尚子先生 (東洋大准教授、 政治行動分析) のコラム

消費者民主主義に陥るな

より

世界が不況で覆われる中、 日本の景気だけが回復するはずはない。 雇用、 福祉、 少子化といった根本的課題が政権交代によって霧散するわけでもない。 自民党が作った 「依存の民主主義」 から、 ばらまきに慣れて権利者意識だけが高まった 「消費者民主主義」 に移行しはしないか。 政権が行き詰まった時、 熱意と創意工夫をもって国民の協力を引き出せるかどうかが、 民主党の勝負どころだ

国民も、 期待しすぎず、 落胆しすぎず、 辛抱強く政党を育てていく必要がある

まさに その通りでありましょう!

このような議会政治の流れが出来たからには

日本にも、 「ハネムーン期間」 のような 新しい政治文化が

できあがっていくことになるでしょう

2009年9月15日 (火)

宗教概念にまつわる言説空間

前便 に書いたとおり、 宗教学会で発表をしてきました

宗教概念にまつわる言説空間 ―― 現代日本の場合

というのが 発表題目です

会場でお配りした資料の増補改訂版を公開いたします

good こちらからどうぞ

「増補改定版」 ということですが、 口頭でお伝えしたこと

発表しながら 「こりゃ直したほうがいいな」 と思ったこと

書き忘れていたこと、 書ききれなかったこと などを補ったものです

大意はいっさい変えていませんので、 あしからず m(_ _)m

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とくに学生さんたちに読んでいただきたいです

皆さんとの授業内外の対話が 今回の発表を作ってくれました

(学会での評判は上々でしたよ 笑)

心よりの感謝をこめて、 ささやかな報告をさせていただきます

2009年9月14日 (月)

現代唯名論の構築

<いただいた本>

  • 中山康雄 『現代唯名論の構築: 歴史の哲学への応用』 (春秋社, 2009年7月)

丹治信春先生 監修の シリーズ 〈現代哲学への招待〉 中の一冊

出版社のサイト より

中世の普遍論争も踏まえ、 存在、 主体、 意味、 心といった近現代の哲学のテーマを総ざらい、 メレオロジーなど最新の手法も駆使して 「唯名論」 というひとつの立場から再構築し、 さらに物語と歴史という新たな地平に乗り出していく壮大な思考実験。 近現代哲学の主要テーマとその論理的背景が簡潔に整理されて提示されるので、 西洋哲学とは何かをざっと知りたい人にもオススメでき、 同時に、 その斬新な視点からの分析は、 哲学の本質を追究したいディープな哲学ファンも唸らせる傑作

ここ数年ずっと 宗教学の基礎論を考えつづけているので

分析哲学に行きつくのは、 僕にとって必然でした

今回の学会発表 にも それは如実にあらわれていたなぁ、 と

で、 今日 この本を受け取ったわけです

シンクロニシティですね (゚▽゚*)

「まえがき」 より抜粋させていただきます

私が哲学的考察において根本的と考えるのは、 世界と言語と思考との関係を明らかにすることである。 この関係を解明するのが、 第Ⅰ部の最大の課題と言ってもよい。 簡単に言うと、 ここには、 世界と言語と思考という三つの出発点がある。 世界を出発点にとると、 世界自体があらかじめ構造化されていることを前提にする立場である形而上学的実在論に行き着く。 そして、 思考を出発点にとれば、 観念のみが実在すると主張する観念論となるだろう。 また、 言語を出発点にとると、 言語使用による世界解釈が認識の基盤であると考える唯名論になる。 そして私がとるのが、 この最後の唯名論の立場である

ii 頁

第Ⅱ部は、 第Ⅰ部で構築された唯名論の立場を歴史叙述の問題に適用する三つの章から成っている

v 頁

第Ⅰ部で展開した唯名論的考察は、 さまざまな現象の説明にも適用できるような確固とした足場を提供してくれる。 第Ⅱ部での議論は、 このような唯名論的世界観の適用例のひとつであり、 歴史叙述という語りに唯名論的世界論を適用することにより新しく見えてくるものを描こうとしたものである

vi 頁

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謝辞:
 わざわざお送りいただいた鈴木さん>
 どうもありがとうございました。 大変興味のある分野です!

宗教学会に参加

日本宗教学会の年次大会 に参加してきました

「旧交をあたためる」 とはよく言ったもの

久々の参加でしたが、 懐かしい面々にお会いして 嬉しかったです

まったく社交的でない、 つまり自分好き勝手なのは 僕の明らかな短所です

ご迷惑やご心配をかけることも多いので

もうちょっと積極的に ああいった場に出て行くべきだなぁ、 と反省です

昨日(13日) には個人発表もさせていただきました

現代日本のことをやったのですが、 おおむね好評でありました

一部には、 過分なるお褒めのコトバもいただきました

配布資料の増補改訂版 を、 近日中にアップいたします

ご興味のある方は そちらもご覧くださいませ

発表を通じては、 新しい先生方との交流もいただくことができました

単なる 「お祭り」 以上の意義を見いだした学会でした

皆さまへの御礼を申し上げます (=゚ω゚)ノ o(_ _)oペコッ

2009年9月13日 (日)

【シンポ】 映画の中の宗教文化 3

こちらのエントリ にて 当日プログラムを紹介したシンポジウム

映画の中の宗教文化

いよいよ 1週間後 (9月20日) に迫りました

以下に、 僕の発表の要旨を 掲載いたします

どうぞご覧くださいませ

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090920 「国際研究フォーラム 映画の中の宗教文化」

映画を教材にして比較宗教の理論的課題を明らかにする

ひとつの試みの報告

近藤光博

現代の宗教学は、 理論的な再建を求められている。 そのプロジェクトの基礎的な課題は宗教概念批判であるが、 それさえすませれば、 関連する諸課題が自動的に解消されるわけでもない。 なされるべきは、 複数の問題をリンクさせながら、 《宗教=世俗的近代》 のアーキテクチャ (言説=制度=欲望=物質) を透視し、その臨界についての分析的な理解と実際的な再構成のヴィジョンを築きあげることである。

このように高度に理論的な問題設定を学生に伝え、 あまつさえそれを理解してもらうためには、 多くの工夫が必要である。 私の場合、 その一つが映画を用いることである。 映画を通じて既存の《宗教文化》を伝えるというよりも、 現代の比較宗教の理論的な課題に具体的なイメージを与える ―― これが私の試みである。

本発表では、 そうした抽象的な問題として、 《神話的なものと宗教的なもの》、 《世俗的な価値観》、 《宗教紛争のアーキテクチャ》 の三つをあげる。 そして、 それぞれの解説のために私が実際に用いている映画を紹介する。

 1. 神話的なものと宗教的なもの

  • 「楢山節考」 (今村昌平)
  • 「クジラの島の少女」 (ニキ・カーロ)
  • 「バロン」 (テリー・ギリアム)

 2. 世俗的な価値観

  • 「フォーエバー・フレンズ」 (ゲイリー・マーシャル)
  • 「トイ・ストーリー」1&2 (ジョン・ラセター)

 3. 宗教紛争のアーキテクチャ

  • 「ドゥ・ザ・ライト・シング」 (スパイク・リー)
  • 「シリアナ」 (スティーヴン・ギャガン)

2009年9月12日 (土)

存在の深みを生きる

日本宗教学会 の学会誌 『宗教研究』 最新号 (361号, 2009年9月)

「宗教と倫理」 特集号だった

郵送されてきたものを 早速ナナメ読み

いくつかの論文に目がとまったが、 なかでもとりわけ!

  • 萩原修子 「語りえなさに耐える: 水俣病事件がもたらした倫理と宗教の回路」 (289-312頁)

が秀逸で、 思わず通読してしまった

水俣病患者のあいだで 《存在の深み》 があらわになっている――

ということを 僕もボンヤリ知っていた 

石牟礼道子さん渡辺京二さん の仕事の断片を

どこかで目にしていたからだ

しかし、 それがどのようなものか、 具体的にはフォローしていなかった

ただの ボンヤリ知識 にすぎなかった

今回の萩原さんの論文で、 その一端に触れることができ

端的に 感銘をうけた

もちろん、 萩原さんの理解とまとめが見事であるおかげだ

萩原さんはレヴィナスやバトラーなどを引いて解説をすすめるが

漁師で患者の 緒方正人さん のコトバは

それだけで十分! 存在のあの深みから発したものだ

緒方さんは 存在のあの深みを生きるひとである――

もぉ それ以上の解説はいらないかもしれない

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萩原論文の章立ては 次のとおり

はじめに

一 責任=応答可能性 [responsibility]

1 「チッソは私であった」

2 責任・主体・倫理

二 命、 魂

三 宗教と倫理

1 語りえなさを探る手がかり

2 「宗教」 への態度

3 「狂い」 と 「悟り」

四 個を開示する

おわりに

「おわりに」 から 引用させていただきます

本稿の直接の問題意識は、 水俣病事件が五〇年を過ぎた今、 水俣から発信される言説で命や魂、 祈り、 鎮魂という、 一種の宗教性を帯びた言葉に触れる機会が増えたことに触発されている。 倫理的困難を超克するためにそれらの宗教的言説が、 どのように用いられているのだろう。 それらの問いから、 緒方らの表現活動を考察した結果、 「宗教」 と距離をおく自覚のうちにある思想と実践がそこにはあった。 宗教的言説を用いながら、 宗教とは一線を画すあり方を、 本稿では 「語りえないもの」 という視点から読み解いて来た。 倫理的困難に直面して、 「語りないもの」 にぶつかることで、 「命」 「魂」 「死者」 などのある種宗教的言説を手がかりにするが、 それを 「語りえない」 ままで開示し続けていることが、 彼らの実践の核だろう

308頁

そして、 そういう自己の開示は常に、 個としての 「顔」 を晒し、 他者の 「顔」 に向き合うことによって、 普遍化、 一般化による倫理的暴力を回避させているのである。 多数ということを嫌う緒方が 「宗教」 という言葉によって拒絶しようとしたのは、 こうした固定化・硬直化した普遍の原理を自己と他者に強要する倫理的暴力なのではないか。 言い換えるなら、 緒方らの知る 「宗教」 はそうした倫理的暴力を有する危険性を孕んでいることの示唆であり、 その手前の硬直化を回避する境域、 「語りえなさに耐える」 境域にとどまっている倫理的熟慮の実践が緒方ら 「本願の会」 に見いだされたとえる。 これが、 倫理と宗教の関係を示す一例として本稿のまとめである

308-9頁

2009年9月11日 (金)

ビジョン問われる外交

前便 で紹介した

  • 豊田祐基子 『「共犯」 の同盟史: 日米密約と自民党政権』 (岩波書店, 2009年6月)

と、 佐藤優さん による書評に関連して・・・

2009年9月9日付 朝日新聞 朝刊、 オピニオン面

若手政治学者の目: 09 政権交代

67~71年生まれの8人のコラムが掲載されていた

その中のひとつ、 宮城大蔵先生 (上智大准教授、 国際政治史)

ビジョン問われる外交

より、 一段落を抜粋させていただきます (ルビは省略)

核をめぐる密約の問題は重要だが、 それは冷戦期の遺産の払拭を怠ってきた自民党政権の不作為を官僚機構がやむなく取り繕う姿にすぎない。 新政権にとって密約の解明は入り口であり、 そのうえで日本とアジア、 そして世界代での非核と安全保障にどう取り組むのかというビジョンが問われる

まったく 同感です

国民にもとめられるのは

田中M氏 由来の あの異様な 外務省バッシング ではなく

(もぉ いい加減 やめましょう)

外務省が自ら足かせをほどく後押しをしてやることでしょう

外交を国民の手に!

これは まったく日常的な課題であると知るべきです

2009年9月10日 (木)

戦争、占領、戦後外交

<読む本>

AERA (2009.8.31 号) 78-9頁 で

日本近現代史の本が三冊 まとめて紹介されていた

  1. 豊田祐基子 『「共犯」 の同盟史: 日米密約と自民党政権』 (岩波書店, 2009年6月)
  2. 加藤陽子 『それでも、 日本人は 「戦争」 を選んだ』 (朝日出版社, 2009年7月)
  3. 半藤一和・ 竹内修司・ 保阪正康・ 松本健一 (編) 『占領下日本』 (筑摩書房, 2009年7月)

どれも読みたいと思わせられたので、 メモしておきます

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1冊目には、 佐藤優さん が書評を寄せています

豊田氏は、 丹念な公文書調査と関係者からの聞き取りを通じて、 日本政府が 「密約と言う仕掛け」 を発明することによって、 〈米側は基地の自由使用という死活的利益を守り、 自民党政権は米国と方を並べることができたという実績で "共存共栄" の関係が成立してきた〉 (8ページ) 構造を見事に解き明かす

ルビは省略。 以下同

佐藤さんの提言はこうだ

秘密情報を含め、 外交に関する情報は主権の存する日本国民に帰属するという認識を外務官僚がもたない限り、 密約を結び、 国民に嘘をつく外務省の体質は変化しない

8月30日の総選挙の結果生まれる新政権は、 外交を国民の手に取り戻すために、 外務省の膿を、 多少の痛みがともなっても切開しなくてはならない。 どこに日本外交の膿がたまっているかを、 本書によって正確に知ることができる

戦後日本の外交には 色々と特殊事情があるのはわかるが

そろそろ 刷新が必要だ

要は、 ハッキリさせていこう ってことなのだから

外交官の皆さんにも 前のめりになっていただきたい、 と切望する

【メモ】  「佐藤優 "「共犯」の同盟史"」 で Google →

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二冊目、 書評者の記名はない

加藤陽子先生 の本であるからして、 多くの解説は不要だろう

「日清、 日露から日中戦争、 太平洋戦争まで」

「その時々の為政者、 国民が 「戦争を選んだ理由」 」 は何か――

「理路整然、 筋道だった回答」 が与えられているとのこと

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三冊目も 無記名の書評である

座談会形式で 「編者」 らが語り合った本らしい

占領下の日本人が何に驚き、 何を受け入れ、 何に抵抗しようとしたのか。 そこから垣間見える 「日本人の精神性」 は間違いなく現代に相通ずるものがある

と評されている

2009年9月 9日 (水)

祭りの準備

こちらのエントリ で 「非東京」 というコトバを紹介した

ある神話的位相をもつトーキョーという場所観念は

昭和42年生まれの僕にも 多少は共有されているものだが

今の若い世代には もぉ 何のことだかピンとこないかもしれない

ということで、、、

  • 「祭りの準備」

を紹介させていただきます。 日本映画です

学生さんへ>  念のため… ATG作品ですから、 当然 《エロ》 ありです!

黒木和雄監督 初期の代表作ということで有名ですが

僕のツボは、 原作・脚本の 中島丈博さん

『真珠夫人』 や 『牡丹と薔薇』 の脚本家でもあるというところ

だったりします(笑)

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さて、、、 映画 「祭りの準備」 の話です

《青春男子の煩悶と出奔》 を描いた作品ということなら

フェリーニの 「アマルコルド」 「青春群像」 からの補助線が

諸作品の製作年からして 引けましょうが

僕としては 「アイデン&ティティ」 を思い出したりするのです

男の子クサイです、 とにかく!

男子の 《性=青》 春 ―― これは疑いなく、 本作品の主題です

しかし、 宗教学者としては

映画の舞台である あの街そのものの時空 に注目しておきたい

一言でいえば、 それは 《民俗の世界》 です

高度経済成長期 日本の片田舎に浮かびあがる民俗の世界――

アマゾンの読者レビューで vega さんが 「土俗的」 という語を使っているが

これなんかは まさにそうしたことをおっしゃっているのでしょう

学生の皆さんへ>  レビューにはいつも ネタバレが含まれます。 映画はやっぱり予備知識なしで観るのをお奨めしますから、 まずはご覧になってほしいです 

《民俗/土俗》 は、 僕が紹介したもののなかでは

「楢山節考」 (今村昌平) の世界 にも表されたものなのですが

「祭り」 は、 「楢山」 とは違って、 異界や霊威 をほとんど描きません

そのため、 それは神話的な匂いをほとんどまとっていません

二作品を対比して観てみるのも いいかもしれません

2009年9月 8日 (火)

美人時計

2009年9月3日付 朝日新聞 朝刊で

美人時計

というのを知った

記事は ネット上でも読める

美女が知らせる癒やしの時刻 サイト「美人時計」人気

2009年9月3日5時32分

美女が数分ごとに次々に現れ、笑顔で時間を知らせる。こんなインターネットサイト「美人時計」が人気だ。アクセスは月間約500万件を超える。

 都内の美術家ら若者たちが企画。日本には美女が多いのに、もてはやされるのはアキバ系などデフォルメされたものばかり。「本当の日本女性の美を伝えよう」と、街中でモデルを探した。

 登場するのは360人。24時間分の1440人を集め、1分に1人ずつ登場させるのが目標だ。男性版「イケメン時計」も企画中という。

【宣伝】  朝日新聞、 その他の購読申し込みは こちら から 

こういうのには やっぱり、 いいオッサンでも 目がいく (恥)

● 「"美人時計"」 で Google! →

総選挙09 愛知・鹿児島・千葉

<極私的メモ>

僕が生まれ育った 愛知県

15の小選挙区で 民主党が全勝した

9区での 海部元首相の落選 は、 いろんな意味で象徴的だった

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僕の故郷である 鹿児島県

全5小選挙区のうち、 自民が三つ、 民主と国新が一つずつ

都道府県別にみて、 今回の選挙で自民が過半数の議席をとったのは

  • 青森 (3:1)
  • 福井 (3:0)、 鳥取 (2:0)、 島根 (2:0)、  山口 (3:1)
  • 愛媛 (3:1)、 高知 (3:0)
  • 熊本 (3:2)、 宮崎 (2:1)、 鹿児島 (3:2)

自民の基盤は 西日本ではまだまだ強いようだ

比例代表ブロックでも それははっきり表れている

今回の総選挙での得票議席数、 全11ブロックを総計すれば

自公 : 非自公 = 76:104 である

1.3684210… の比

比例代表選挙は、 制度上 小選挙区ほどの議席数の差が生じない

(もっとも、 国民の直接的支持をみるには、 得票数が一番 なのだが)

(まとめのサイトが見つけきれなかった… すいません)

一方、 これが西日本4ブロックに北陸信越ブロックを加えたものだと

自公 : 非自公 = 37:41

1.1081081… の比 である

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僕が現在住まう 千葉県

投票率が 全国ワースト1であった

小選挙区では 全13選挙区中 自民 2: 民主 11

【シンポ】 映画の中の宗教文化 2

こちらのエントリ で紹介したシンポジウム

映画の中の宗教文化

公式サイトに 当日のプログラムが掲載されました

下記抜粋のとおり、 私はトップバッター。 10時10分からの発表です

発表題目は

映画を教材にして比較宗教の理論的課題を明らかにする―― ひとつの試みの報告

です。 素晴らしい英訳も 付していただきました

レスポンデントは 英印関係史の宗教学者 冨澤かなさん です

僕がインド研究者であることから、 冨澤さんがブックされたんでしょうが

インドの話は ほとんどまったくしないので、 申し訳ないです

必ず オモシロイ集まりになると思いますよ!

皆さまのご参加 お待ち申し上げます m(_ _)m

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プログラム

9月20日(日) 20 September

9:30~10:00  受付開始 Arrival, registration

〈午前の部〉

===== 10:00~10:10 挨拶および趣旨説明  井上順孝 =====
Opening Remarks by INOUE Nobutaka

===== 10:10~11:00 第1セッション =====

近藤光博  KONDO Mitsuhiro
「映画を教材にして比較宗教の理論的課題を明らかにする―― ひとつの試みの報告」
"A Tentative Report Examining Theoretical Issues of Comparative Religion Through Film Usage as Teaching Materials"

レスポンデント: 冨澤かな  TOMISAWA Kana

===== 11:10~12:00 第2セッション =====

中町信孝  NAKAMACHI Nobutaka
「アラブ歴史映画に見るイスラームとナショナリズム」
"Islam and Nationalism as Seen in Arab Historical Film"

レスポンデント: 臼杵陽 USUKI Akira

===== 12:00~13:00 〈昼食 Lunch =====

===== 13:00~13:50 第3セッション =====

Jolyon Thomas 「西洋から見た日本映画の宗教性」
"The Religiosity of Japanese Film as Seen From the West"

レスポンデント: 櫻井義秀  SAKURAI Yoshihide

===== 14:00~14:50 第4セッション  =====

Jean-Michel Butel 「アニメはどんな宗教を語ってくれるか― 『平成狸合戦ぽんぽこ』 に見る日常宗教」
"The Image of Religion in Anime: Everyday Religion in Pompoko"

レスポンデント: 西村明  NISHIMURA Akira

===== 14:50~15:10 〈休憩 Break =====

===== 15:10~16:00 第5セッション =====

Gregory Watkins 「宗教と映画を教える際の新しい傾向」
"New Trends in Teaching Religion and Film"

レスポンデント: 山中弘  YAMANAKA Hiroshi

===== 16:10~17:30 総合討議 Concluding Discussion =====
司会: 井上順孝 INOUE Nobutaka

===== 18:00~19:30 懇親会 Banquet =====

2009年9月 7日 (月)

宗教と世俗

朝日新聞 朝刊 2009年8月30日付 掲載の書評

  • P・バーガー 『現代人はキリスト教を信じられるか』 

評者は 久保文明先生

asahi.com でも読める ので、 下に全文コピペさせていただきます

書評によれば、 これは バーガーの宗教に関する 規範理論 の書である

キリスト教の世界では 「宗教の神学」 (→ Google!) という言い方もあるし

より一般的には、 「宗教のヴィジョン」 ((c) 田丸徳善先生) と読んでいいものだ

宗教学/宗教研究の行く末は ここで決まる、 と僕も考えており

だからこそ、 <連載 中沢新一論> なんかをやってきたわけです

この本が 日本の一般読者にどう読まれるかは わからない

キリスト教的な問題設定は やはりかなり馴染み薄であろう・・・ と思います

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さて、、、

この書評で僕が注目したいのは、 最終段落に含まれる二文です

日本は非キリスト教的な国であるのみならず、 世界でも際立って世俗的な国である。 しかし、 アメリカや中東諸国を含め、 宗教的な国は多い

ここには 《世俗/宗教》 の二分法が 実に明確に出ている

実は、 この用語法=理解=世界観は それほど一般的ではありません

どういうことか言うと、 本当に日本は 《世俗的》 か? ということです

日本はどの国にも負けないくらい!

《文化》 のなかに 《宗教的なもの》 がフツーに浸透している――

そう考えたほうが むしろわかりやすいのではないでしょうか?

こうした論争が生じうるのは、 各論者の見識や理解の問題というよりも

むしろ、 コトバの問題です。 概念が定まっていないのです!

日本語の 「宗教」 はふつう、 宗教団体をイメージさせますから

その対概念としての 「世俗」 が何であるのか、 実はほとんど不明確です

一方、 専門家のあいだでは、 《世俗=宗教》 の対語が定着しつつあります

ただし、 この場合の 《世俗》 の内容は まったく不明瞭のままに、 です

専門用語としての 《世俗》 が、 どのように日本語の一般的使用に定着するか

いつも注視してきたのですが

この書評は ひとつの行き方を示唆しているように思いました

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以下、 asahi.com より 全文転載

【宣伝】  朝日新聞、 その他の購読申し込みは こちら から 

続きを読む "宗教と世俗" »

2009年9月 6日 (日)

中国政府系ファンド

<気になった記事>

2009年8月27日付 朝日新聞 朝刊 1面に

新規の投資 数兆円に

中国政府系ファンド・高社長インタビュー

という記事が載った

これは とっても重要な記事だ

言うまでもなく、 世界経済=政治=社会=生活の基底が

  • 金融
  • 資源=エネルギー=エコロジー
  • 水 & 食料

であることは、 今後も一切変わらない

そしてこれまた BRICS なんて言うまでもなく、 中国の動きは決定的だ

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ということで、 記事の内容である

これはさすがに ネット上で読める ので、 ぜひご参照いただきたい

リードの段落だけ コピペさせていただきます

【北京 = 琴寄辰男、 吉岡桂子】  世界最大級の政府系ファンドである中国の 「中国投資有限責任公司 (CIC)」 の高西慶社長が、 朝日新聞の単独インタビューに応じた。 高社長は、 世界経済の底入れで 「国際市場に (金融危機による) 恐慌はなくなった」との見方を示し 「投資を積極化させる」 と明言。 09年の新規投資額は前年の48億ドルから大幅に増えて数百億ドル (数兆円) に達する、 との見通しを示した

さらに 経済面にインタビュー記録形式の関連記事がある

日本重視し一定の投資

各国が我々を歓迎する

中国政府系ファンド・高西慶社長  積極投資への転換表明

こちらも ネット上で読める

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一方、 ネット上で読めないのは 琴寄辰男さん のコラム

高まる存在感 根強い警戒感

である

いくつかの箇所を引用させていただきます

なお、 「CIC」 は 中国の政府系ファンド 「中国投資」 のことです

この2年間、 CICを取り巻く慣行は大きくゆらった。 設立当時は、 産油国を含む新興国の政府系ファンドが、 豊富な資金を背景に主要企業を買いあさるのではないかとの警戒感が強かった。 しかしサブプライム機器の表面化でで一変。中国などの政府系ファンドは、 損を抱えた欧米金融大手を指させる側に回った

高社長は 「金融危機後、 政府系ファンドへの国際社会の態度は明らかに変わった」 とする。 ただ、 危機が一服すれば同じ状況が続くとは限らない。 市場との回復を受けて積極投資に転じること自体が、 警戒心を呼び起こす恐れもある

「欧州の保護主義にとても感謝する」。 地元メディアによると、 高社長とともにCICを率いる楼継偉会長 (元財務次官) は今年4月、 こう皮肉った。 「保護主義のおかげで我々は去年、 欧州で1銭も投資せず、 損もしなかった」。 政府系ファンドへの警戒感の根強さを、 彼ら自身が感じていることを印象づけた

で、 締めの段落にこうある

高社長は日本の投資案件を積極的に検討する方針も示した。 新興国の政府系ファンドの動きを日本経済の活性化にどうつなげていくかという課題も、 再び浮上しそうだ

2009年9月 5日 (土)

いくさの空気

こちらのエントリ にて

カテゴリーは主観と客観の 《あいだ》 にあるのであり

動機は 意識と無意識の、 あるいは 個人と集団の 《あいだ》 にある

それを一言でいうなら、 「歴史」 ・・・

そうとしかいえない、 《欲望の政治学》 ・・・

220pxkurarachibana

と書いた

いわゆる 《宗教紛争》 の理解における繊細な感性の必要を説いたものだ

===================

これとの関連で、 こちらのエントリ で紹介した

知花くらら さん のインタビューから

引用しておきたいコトバがある

私のじいちゃんは、 沖縄戦の体験者です。 私は18歳まで那覇で暮らし、 よく行き来していましたが、 一度もその話をしたことはありませんでした。 子ども心に、 話したくない雰囲気を感じ取っていたからです。 ニュース番組のリポーターとして2年前、 初めて話を聞きました

慶留間島 (げるまじま) 出身のじいちゃんが、 米軍上陸を経験したのは15歳のとき。 三つ上の姉と山に逃げて、 防空壕で自決しようとしたそうです。 でもできなくて、 ヤシの葉をひも代わりに、 木に首をつって死のうとした。 「死んではいかん」。 結婚する前のばあちゃんがたまたま見つけ、 そのコトバで正気に戻ったと言います

「げるまじま」 はルビ。 その他のルビは省略

初めて聞く話に衝撃を受け、 涙がぽろぽろ出ました。 カメラが回っていないところでたずねました。 「なぜ自決まで覚悟したの」。 じいちゃんはこう言いました。 「いくさの空気だ。 そのときの時代の流れだ。 それで、 人の気は狂うんだ」

いくさの空気、、、 そのときの時代の流れ、、、

《宗教紛争》 なんていう

いかにもいい加減な概念のせいでわかなくなっているが

僕の知るかぎり、 《宗教紛争》 と呼ばれるものでも

まさに 人びとはこういうものに飲み込まれている

2009年9月 4日 (金)

1968

<読む本 & 読まないかもしれない本>

《1968年 世界革命》 について 僕はなにも知らない――

と知らされた一幕が 前期の授業中にあった

勉強してみよう、 けど何から読んだらいいかな、、、 と思ったら

はかったように出た本

  • 小熊英二 『1968』 (上下巻, 新曜社, 2009年7月)

アマゾンの読者レビューではコテンパンだが、 話題の一冊ではある

2009年8月25日付 朝日新聞 文化面にも

「1968」 発表の小熊英二氏に聞く

反乱の背景に 「現代的不幸」

というインタビュー記事が載った (記名は藤生京子さん)

asahi.com でも読める

読むかもしれない、 読まないかもしれない

このテーマでは、 まずは

  • すが秀実 『1968年』 (ちくま新書, 筑摩書房, 2006年10月)

「すが」 さんの字は 糸偏に 「圭」

  • 毎日新聞社 (編) 『1968年に日本と世界で起こったこと』 (毎日新聞社, 2009年6月)

を読むのがよかろう、 と当たりをつけているからだ

2009年9月 3日 (木)

フツーは抑圧する

こちらのエントリ で紹介した

  • 町山智浩 『キャプテン・アメリカはなぜ死んだか: 超大国の悪夢と夢』 (太田出版, 2009年1月)

255-6頁に収められているコラム

ママが2人いたっていいじゃないか

レズ夫婦を取材した子ども番組が放送禁止

その最後の部分に こう書いてある

ちょいと長めの引用になりますが、 どうぞお付き合いくださいませ

アメリカの子ども番組はいろいろな家族のあり方を見せることに意識的だ。 たとえばクリスマスでもユダヤ系の家族はハヌカ、 アフリカ系はクワンザを祝う。 主人公の友達には片親の子どもや養子、 身体障害者が必ずいる。 少数派の子どもたちにも心の居場所を残しているのだ。

 それに対して日本のアニメ、 いやTVドラマでもいい、 身体障害者や被差別部落出身者、 いや片親の子どもが 「テーマ」 ではなく 「日常」 として当たり前に登場することがあるだろうか?

 でも本当の日常では、 友達の家に遊びに行ったら七五三の写真がチョゴリだったりするような経験はあるはずだ。 NHKは 『おかあさんといっしょ』 という番組名を耳にするたびに母のない子どもがどれだけ傷ついているか考えたことはあるだろうか? 「普通」 という無意識の均一主義がいまだ日本には横溢しているのだ

256頁

町山さんの文章は、 やっぱり自分と自分の生活圏に向かうときにこそ!

力を発揮する

2009年9月 2日 (水)

宇宙に立つ花

<連載 中沢新一論> 前便は こちら

====================

前便 から、 随分と 間があいてしまった

どうやら 僕が語るべき 《中沢新一論》 は尽きたようだ

当初の構想よりは 相当多くのエントリを書くことになった

しかし、 振り返ってみれば それほどたくさんのことを論じたわけでもない

そろそろ とりあえずの締めをすべきときがきたようだ

中沢先生は自分の世界をあれほどむき出しに書かれているのだから

僕も、 僕の世界をちゃんと書き出しておくことが

中締めとしては フェアなんだと思う

====================

『精霊の王』 に次の一節がある

立花僧や山水河原者 (せんずいかわらもの) は、 さらにストレートなやり方で、 この宿神的思考を表現してみせていた。 「なにもない」 と観念されたところに、 花を生け、 石を立てることによって、 これらの職人は宿神的構造をした空間そのものを、 そこに出現させようとしていたからである。 花を生ける芸能では、 宿神は古代以来なじみの深い植物の世界を潜在空間として後に抱えながら、 出現を果たすのである。 植物の枝じたいを絶対転換のおこる媒介にしながら、 生け花の芸能は生きて振動する空間をつくりだす技に打ち込んできたわけである。

262頁

これを読んで、 名古屋での体験を思い出した

夏のある日、 真昼間 小丘を切り開いてできた住宅街を歩いていた

アスファルトにコンクリート、 ところどころに植え込みの樹

熱暑のなか、日差しをさえぎるものはなく、 出歩く人は僕だけだ

静かさで耳がチリチリして

白々とした日差しが距離感を消してしまいそうになる

僕の左手には、 二階建てほどの高さの崖があった

コンクリブロックでがっちりと固められていて、 土は見えない

その隙間から、 一本の草が スッと伸びていた

地面に対して25度ぐらいの角度で伸びだし

ゆるやかでしなやかな曲線がピンと張り出している

草の先には、 紫色の花

動かない空気のなかで、 ゆっくりとそよいでいるような気がする

僕はそのとき、 そこに宇宙のすべてを見たように思った

人間界の真理はわからないが、 宇宙の物理的な成り立ちが

そこに凝縮されてあらわれているように感じた

僕は少しだけその前に立ち止まった

少しだけ、 その花と草をながめた

====================

夜、 T師匠にその話をした。

一種の神秘体験です、 と言った僕への、 師匠の反応が意外だった――

コンドウさんはそういうところに感じ入るんですね

僕は違うんですよ。 シミなんです、 僕がそういうのを視るのは

シミから湧き出るもの、 シミを形づくったもの

そういったものに、 自分はもっていかれるんですよ――

凝縮した宇宙の全体を一瞥する眼と

一点に存在の深みを見いだす眼―― その違いですね

ということで、 二人は合点がいった

こういう眼が 僕と中沢先生をつなぐんだと思う

<つづく>

2009年9月 1日 (火)

コピペを見破るソフト

AERA (2009.8.10 号) 63頁に

コピペ見破る新ソフト発売

学生よ、 コピペるなー

という記事が載っていた

煽り文には こうある

学生の 「コピペ・レポート」 に手を焼く先生方。 朗報です。 コピペを見破るソフトが発売されます。 でもこれ、 ネット文化にも影響を与えそうです

ライターの 「編集部 山下努」 さんは、 最初の段落でこう書く

その名は 「コピペルナー」。 開発者は金沢工業大学知的財産科学研究センター長の杉光一成教授とソフト会社のANK (東京・新宿)。 12月に発売予定だ

63頁: 「杉光一成」 には 「すぎみつかずなり」、 「ANK」 には 「アンク」 のルビ

ちなみに、 山下さんの前でおこなわれた実演では

「引用の割合77.1%」 との結果が出たそうだ

昨年 (2008年) 5月に 朝日新聞で既報とのことだが、 見落としていた

この報道をうけ、 ネット上では賛否両論で盛り上がってきたそうだ

煽り文にある 「ネット文化」 への 「影響」 とは

「ネット空間」 は、もうすでにコピペで成り立っていて

オリジナルはそこで駆逐され、 埋没している――

それが 「ばれてしまう」 ことで 「混乱」 が生じるかも・・・ ということのようだ

この見解自体、 「大手出版社の雑誌編集者 (39)」 を引用して展開されている

まぁ、、、 そういうこともあるのかなぁ、、、

僕なんて、 100%オリジナル! 引用先は明記! でブログをやっているから

なんだか ちょっと遠いところの話のように感じる

====================

以上、 このソフトについては忘れたくなかったので

備忘録として 本エントリを書きました

しかし・・・

一大学教員としては、このソフトを 歓迎もしなければ、 拒絶もしません

いざとなったら使おう! と思っている程度です

なぜそうなのかといえば・・・

僕はそもそも、 コピペができるだけできない よう

授業を工夫しているからです

その工夫とは 少なくとも四つです

  1. ネットで検索しても、 情報が出てこないような内容の授業をする。 ネット情報のコピペをやるぐらいなら、 授業に出て、 ノートやメモをとって、 自分で書いたほうがかえって楽・・・ そんな授業内容をデザインする
  2. 「出席点」 は有害無益と確信しているので、 「発言点」 で成績評価をする。 出席したほうがいいや、 と思っていただいたうえで、 授業で自分の疑問を バンバンぶつけてもらう―― そのようなシステムをあらかじめ周知しておく
  3. 「持ち込み禁止」 のテストをする。 その代わり、 学期の最初に、 テスト問題を公表する。 学期をかけて、 ただその問いを考えつづける、 テストの解答を作りつづける―― そのように学生たちをうながす
  4. 自宅にてレポートを書かせるときには (ほとんどそういうことはしないが、 それが必要なときは) 引用元・参照元をとにかく書け、 と指導する。 ポイントは、 引用や参照があるレポートだからって、 減点はしない! とはっきり言うこと (そして、 実際にしない)

うまくいっているかどうかは、 わかりません

《コピペ的思考》 を100%駆逐できているとも思いません

ただ、僕の授業は とにかくどれもこれも

内容が高度だし、 積極的な参加が求められる にもかかわらず

学生による授業評価は かなり良い、 という結果が出ています

人文学の分野だから、 なのでしょうか・・・

まだまだ工夫次第で どうにでもなるように思います

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