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2009年9月15日 (火)

宗教概念にまつわる言説空間

前便 に書いたとおり、 宗教学会で発表をしてきました

宗教概念にまつわる言説空間 ―― 現代日本の場合

というのが 発表題目です

会場でお配りした資料の増補改訂版を公開いたします

 こちらからどうぞ

「増補改定版」 ということですが、 口頭でお伝えしたこと

発表しながら 「こりゃ直したほうがいいな」 と思ったこと

書き忘れていたこと、 書ききれなかったこと などを補ったものです

大意はいっさい変えていませんので、 あしからず m(_ _)m

===================

とくに学生さんたちに読んでいただきたいです

皆さんとの授業内外の対話が 今回の発表を作ってくれました

(学会での評判は上々でしたよ 笑)

心よりの感謝をこめて、 ささやかな報告をさせていただきます

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コメント

 宗教学を現代社会の学問として確立する一つの試みとして、とてもよい実験だと思います。また、人の生き方に深い関わりを持ちながら説明のつかない何かを、人の生活を豊かにする手立てとして探すための学問ならば、宗教学を基礎とした《生活学》とか《人間学》とかいうものなのかもしれないなぁと思いました。

 私として、気になったのは2点。
まず、図は何だかちっともわかりません。外国語が外枠にあるのはなぜ?
それと、ことばの問題は個人的にこだわりをもってしまいます。

 私の中では《宗教》と《世俗》が《religion》と《secular》の対にどうしても重なりません。もちろん宗教学上はそうなのです・・と言われればそうですが、対社会的に考えるときそれは通用しないでしょう。
 《religion》という語の翻訳として作られた《宗教》に対して、《世俗》はもともと一般的に使用されていた語彙であり、《secular》というよりは(play down)や(worldly)や(common)などの意味を持ちます。

  「これまでの説明によって、今の日本語は、その音声構造にきびしい制限があること、および基本語彙の意味が概して抽象的であるという二つの理由から、具体的で効率の良い伝達を行うためには、どうしても漢字という視覚に訴える文字記号のもつ、高度な弁別性に依存せざるを得ないことが理解されたと思う。
 その結果として、日本語では、原則として表音性の原理のみで成立している文字体系をもつ欧米の諸言語には存在しない、いくつかの際立った特徴が見られることになった。
 その第一は、日本語では或る音声形態(つまり単語)が、どのような漢字で表記されているかの知識がない場合には、しばしば発話が理解できなかったり、全く別の語と取り違えてしまうといった、都合の悪い事態が起きるということである。
 もちろんここでいう漢字の知識とは、一点一画までも正確に記憶していなければ困るというほどの厳密なものではない。ある表現を耳で聞いたときに、その表記に用いられている漢字の大体の輪郭というか、およそのイメージが浮かばなくては駄目だということである。
 別の言い方をすれば、現在の日本語は、文字表記を考えに入れない音声だけでは、もはや一人立ち出来ないタイプの言語になっているのである。
 私がいろいろなところでたびたび指摘してきた、日本語は音声と映像という二つの異質な伝達刺戟を必要とするテレビ型の言語であり、これに比べると西欧の諸言語は音声にほとんどすべての必要な情報を託すラジオ型の言語だということは、この事実を比喩的に表現したものである。」
( 鈴木孝夫著 岩波新書『日本語と外国語』pp194~195)


 私には、もともと《宗教》という漢字、特に《宗》から浮かぶビジョンはあまりありません。普通のひとはそうだと思います。だから特定宗教や宗教団体と強く結ぶのではないでしょうか。
 一方、《世俗》という漢字から浮かぶビジョンは膨らみます。《世》も《俗》も身近な語だからでしょう。しかし、だからこそ偏って理解されるし、他の意味を受け入れにくくなります。《宗教》の対語だと言われてすんなり理解するのは難しいように思います。
 私は《宗教》の反対がどうして《非宗教》とかではなく、《世俗》になったのかなぁと単純に考えてしまいます。やっぱり神とは程遠いイメージだからか。それとも人間の生活と近づけたかったからか。

 先生の「宗教概念にまつわる言説空間」から、今まで文句は言ってもきちんと考えていなかった《宗教》と《世俗》という語について考えてみました。まずはきちんと自分の中で整理したかったので。


  最後に私の一番最近の読本から
 「かつて私たちが身につけた知覚と認識の水路はしっかりと私たちの内部に残っている。しかしこのような水路は、ほんとうに生存上有利で、ほんとうに安心を与え、世界に対する、ほんとうの理解をもたらしただろうか。ヒトの眼が切り取った「部分」は人工的なものであり、ヒトの認識が見出した「関係」の多くは妄想でしかない。
 私たちは見ようと思うものしか見ることができない。そして見たと思っていることも、ある意味ですべてが空目なのである。
 世界は分けないことにはわからない。しかし分けてもほんとうにわかったことにはならない。パワーズ・オブ・テンの彼方で、ミクロな解像度を保つことは意味がない。パワーズ・オブ・テンの此岸で、マクロな鳥瞰を行うことも不可能である。つまり、私たちは世界の全体を一挙にみることはできない。しかし、大切なのはそのことに自省的であるということである。なぜなら、おそらくあてどなき解像と鳥瞰のその繰り返しが、世界に対するということだから。」
(福岡伸一 『世界は分けてもわからない』pp163~164)

yokosawa さん>

コメント ありがとうございます

「世俗」という語の語感は 宗教学専門用語の「世俗」とはまったく異なる――
これは まさに 僕の発表の中心的主張でした

後者の「世俗」は、単純に secular の訳語です
T・アサドあたりが religion と secular の対を見いだしまして、それが
日本に直輸入されたわけです
したがって、日常語の「世俗」とは 直接的な関連は皆無です

こうした事情が yokosawa さんの違和感そのものなんだと思います
「セキュラー」とカタカナ表記しちゃったほうがいいかもしれませんね

ここで注記したいのは ふたつです
注7や、「おわりに」の②に書いたことの 焼きなおしです

(1)
「世俗」(secular)は、目下学者の観念として取り出されただけですが
日本語の言説空間にはたらく 《不在の》 重心であることは
今後 ますます明らかになっていくと思います

その際、「近代(性)」という語あたりの解明から
道が開けてくるという当たりをつけていますが、、、はたして、、、

ちなみに、来年の宗教学会では、まさにこれをテーマにしようかなと
「世俗概念と近代概念にまつわる言説空間――現代日本の場合」
みたいなタイトルです

(2)
英語圏の日常語でも secular は 宗教学者が使うような意味になってません
secular 自体は日常語ですけど、意味と価値が ぜんぜん違う

注7に書きましたが、では the secular と宗教学者が呼ぶものが
概念化不可能かというと、おそらくそんなことはない

この辺りの研究は、まだまだ未発達です

こういう二重の困難が、まだこの概念にはあります!
しかし、これは今後ますます重要になっていく概念だろう、、、と
僕なんかは考えているわけですが、はたして どうでしょうか

  レスポンスありがとうございます。

 私も英語圏の《religion》と《secular》についてはOxfordとLongmanの英英辞典で調べてから、日本語の問題と決めつけていましたので、先生のお話は目から鱗です。できればどういった使われ方をしているのか教えてください。

 言語の問題は、これだけ取り出してもおもしろいですね。学者用語と常用語の違いが大きい時、それはどのように淘汰されていくんでしょうか。フランスのような言語統制の厳しい国はそうないので、これからはあちこちで見られる現象になるのかもしれません。
 あくまで使い分けされるようでは、今後(文系)学問はますます一般から遠ざかっていくのでしょう。もっとも文字の影響力が及ぼす範囲がこれだけ多様化すると、一般化自体が厳しくなるのかも・・・と少し不安になりました。
 あまりに速いスタンスで言語が生き死にすることは、文化にとってどのような影響を及ぼすのでしょうか。使い捨て文化なんてことにならないといいなぁと思います。

  追伸
 “Our new missile defence architecture in Europe will provide stronger,smarter and swifter defences of American forces and America's allies,”Obama said in an announcement from the White House.
 (Posted 17.09.2009 17:32:53 UTC)

 ミサイル防衛システムがなぜアーキテクチャなのか。すごくびっくりしましたが、答えは簡単でした。

 《Department of Defence Architecture Formewoek》

 私たちが今日のコンピューター・ネットワークを容易に使用できるのは、こいつのお陰ですね。
 でも、私にはますますアーキテクチャ疑惑が広がるのです(笑)
 

yokosawa さん>

アーキテクチャは 秩序のことですから、権力構造にそのものですね
ただし、防衛システムのような 特定創作者による創作物ではありません
(たとえ、そのように呼ばれていたとしても)
「長いものには巻かれろ」とか、「常識」とか、そういう被支配者の側の
《主体的な》 関与のたまものでもありますね

=====

secular の現地での言説的布置について――

僕も、イギリス地域研究者、アメリカ地域研究者ではないですから
(イギリスや、アメリカの生活に 没入したことがない ということです)
あまり 責任をもったことが言えません
思いついたことを テキトーに書いてみますね(笑)

欧米では、secular という語は
日本よりはよっぽど 宗教学専門用語「セキュラー」に
近い語感・意味内容・価値を もっていると思います

ヨーロッパ文明は 根源的に二分法的であって
何でもかんでも対概念にもっていくところがあるからです

が・・・  やはり ちょっと違うように思います
その微妙なところがある

語源的に、secular は キリスト教会ではないもの、という語感がまず強い
教会職に対する、一般信徒とか
教会財産に対する、国家財産/中間団体財産とか、です
日本人には ちょっと分からない感覚です(笑)

ここで 教会は religion (religious) とすごく近い観念ですから
religion と secular の対語関係は たしかに成り立つ

次に、ホッブズ以来の政教分離の原則が しばしば secular と呼ばれる
これは、政治思想、政治制度の文脈ですね
secular state は religious state ではない、ということです
キリスト教を国境とする国家と、啓蒙主義的な人権思想にもとづく国家――
この違いがあるわけです

ここでもやはり、例の対語関係が ちゃんと成り立つわけです

ただし、ここでの religion が、欧米の宗教学者が言う意味での religion
ではない! という点が 要注意です
日常語としての religion が担うイメージは
端的に キリスト教会のことです。 こうして
教会批判、教会の権威と権力からの脱却の歴史の記憶――
これこそが、日常語 secular の第一義 (のはず) です!

こうして、宗教学専門用語の religion が 日常語からズレているのに応じて
同じく専門用語としての secular もまた、ズレている――
そんな風に 思います

=====

まずは ここまでにしておきますね

ぜひ、さらなるレスポンスをお聞かせくださいませ

  ありがとうございました。
 なるほど、一般的な《religion=キリスト教》というのは理解できます。
 そうなると、Oxfordの(少数)例にあった
 For him, football is an absolute religion.
 みたいな表現はキリスト教信者固有の使用法ということになるのでしょうか。

 ひょっとしたら、日本で使用される「それってほとんど宗教」は割と否定的(後進的)なのに対し、英語圏では肯定的(前進的)な意味で使用されるのか、などと考えていました。
 これは、日本人は宗教に対して否定的な意識を持ち、英語圏ではreligionに肯定的な意識を持っているということの表れなのだろうと思っていました。

 それはもちろん歴史的に宗教という語に対して日本人が持ってきた意識の変化がそうさせたのでしょう。religionが肯定的に入ってきたのに、宗教が否定的になるのは入ってきてからの変化によるものと考えやすい。

 もともと一般の日本人にとって、宗教は生活(共同体)に組み込まれて、その中で生きている存在だったのだから、特別に分けられる必要もなかったし、それが政治的な思想に反映されようと、誰も不審に思わなかったはずです。
 宗教として分断された後、天皇とつながって戦争に利用されるまで、あちらこちらにたくさんの宗教的価値観として様々な種類の宗教が点在することで、私たちは自らのアイデンティティの確立を保っていたのですから。
 
 宗教に対して否定的な考えが広がったのは、はたして天皇と戦争と敗戦によるものでしょうか。それとも資本主義の導入によって、広くモノが手に入るようになったことで、個人主義が集団主義に勝利したことによるのでしょうか。あるいはオウム事件が決定的に?
 とにかく社会は複雑で、理由を提示することには事欠きませんが、どれも決定打としての存在感に欠ける気がします。

 それと、今現在、私たちは本当に宗教に対して否定的なのかもわかりません。今回の民主党の大勝利も、ほとんど神頼み的だと思いませんでしたか。
 私たちは見えないカミサマに願いを託しているように感じます。

 現代は一個の人間として独り立ちすることと、宗教と離れて生活することは違うと皆が気づいていて、皆が自分専用のカミサマを持っていると考えるほうがピンとくるかなと。
 そしてそれは、日本だけの傾向ではないように思います(大好きなグリーンデイのアルバム「アメリカン イデオット」を聞きながら)

 資本主義の発達と科学の進歩がもたらした孤独の中でも、自分らしく生きていくためには、何かを自分の中で育てていく必要に迫られてしまうのです。
 

yokosawa さん>

お返事が遅くなりました。失礼いたしました

 For him, football is an absolute religion.

この表現で、肯定的なことが言われているとは 必ずしも思えません
揶揄としても使われていそうです
アメリカ研究、イギリス研究のプロに聞いてみないといけませんが
僕の直感では そうです

religion はあちらでは、必ずしも肯定的ではないはずです
日本の「シューキョー」と違うのは、とにかく
キリスト教会という厳然たる《核》をもつという点でしょう
だから、religion を価値づける(肯定的/否定的)とき
キリスト教をどうとらえるか―― という問いが
一緒に出てきてしまう
それは、自分たちの文化や歴史の深層をどう価値づけるか
ということになってきますね

江戸末期から明治初期にかけて、日本に 
religion 概念が入ったとき、どうなんでしょうか、それは
西洋人にとってすら肯定的ということだったのかどうか…
ヨーロッパでは啓蒙主義の時代は百年前に過ぎ
ポスト啓蒙主義の爛熟期にあったわけですから
《religion 批判》なんてのは、行くところまで行っていました
もちろん、キリスト教に対する自負や高評価も残っていました
また、religion という新しい概念で、キリスト教に代わる
新しい理念体系をつくりだそうとする動き もありました

これらの全部を 一度に日本は輸入した、ということでしょう

この状態から、現在の状態(僕の発表が示した状態)まで
一体 どこをどう経巡ったら こうなるのか…
これは大変大事な問題ですが、まだほとんどやられてません

師匠の島薗先生からは、70年代にひとつの転機がある、と
最近教わりましたが、もちろんそれだけではないでしょう

いずれにせよ、ちゃんと調べなくてはいけない課題、そして
学者ぐらいしか手をつけないくせに、根本的に大事な課題
だと思います

取り急ぎ

 レスポンスありがとうございます。

 英英辞典といくつかの英和辞典で調べて自分勝手に判断したので、そりゃそうだよなぁと思いました。おそらくヨーロッパとアメリカでは使われ方が違っているように推測できるし、ヨーロッパの中の国々でも文化の違いによって違いが見られるかもしれません。それだけ宗教という名で括られているものが壮大で、しかも人の生活や文化に密着して変化しているということを、すごく考えさせられました。

yokosawa さん>

≪思想としての宗教論≫ とか
『日本・現代・美術』 にならって ≪日本・現代・宗教≫ とか
そういう問題系を 真剣に考えています

どういうところに落ち着くのか よくわからないのですが
少しずつ 皆さんに声をかけて、 ちゃんとトライしてみたいと思っています

そのときまで、どうぞ応援、そしてアドバイスを よろしくお願いしますね(笑)

  選択の自由を行使するものとして、先生が面白いことを続けるならば、お付き合いさせていただきます(笑)

すいません、よろしくお願いします (笑)

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