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2009年9月19日 (土)

アーキテクチャと自然

一般的なアーキテクチャ論なんてものが、 はたして

有意味なのか、 そもそも可能なのか、 ちょっと僕にはわからない

しかし、 僕のアーキテクチャ論は

《宗教=世俗的近代のアーキテクチャ》 という個別具体的な対象をもっていて

その限りではこう断言できる

  1. アーキテクチャは、 権力による単純な創作物ではない
  2. アーキテクチャの効果は、 単純な洗脳と操作ではない

偶然性の滲入とか、 計画立案や施行竣工の不備とかのことではない

そうではなく、 アーキテクチャの成立要件が所与なのである

たとえば人間工学が、 人間の解剖学的、 心理学的、 社会学的な 「自然」 を

基礎的データにするということだ

「社会学的な自然」 とは語義矛盾だが、 要するに

法規、 規範、 習慣、 技術、 物理インフラなどのこと

「環境」 という自然主義的用語で それらは一括される

権力は 「自然」 に根ざすとき、 最大の効力を発揮するだろう

短期的には、 権力はいろいろなことができる。 しかし

僕の考えるアーキテクチャは、 かなり長期的な歴史的構成体だから

それを成り立たせる力学は、 より低い抵抗のものへと遷移する

たとえば、 命令と服従の力学ではなく、 快不快原理が優越していく

権力が資本制に吸引されてやまないのは、 そのせいだ

====================

これが僕のアーキテクチャ論の大事な点なのだが

それを 同じく議論の出発点にしているのが、 鈴木謙介さん だ

  • 鈴木謙介 「設計される意欲: 自発性を引き出すアーキテクチャ」 『思想地図』 vol. 3 [特集: アーキテクチャ], NHKブックス別巻, 日本放送出版協会, 2009年5月, 110-35頁)

端的に 次のように言われる

アーキテクチャによって促される人々の自発的行為は、 設計者による人々の潜在意識への 「洗脳」 などではなく、 設計者と利用者の間の相互作用と、 両者を取り巻く多くの変数 …… との相関から生み出された結果とみなすべきなのである

113頁

この理解は 次のような定義をみちびく

アーキテクチャとは、 情報技術などを用いた環境の設計によって、 人々に一定の幅での自己決定を促すことを目指す 「仕組み」 だと定義できる。 この場合の 「環境」 とは、 物理的な空間の布置や、 ある場所を運用するための制度などである

112頁

アーキテクチャとは、 制御しようとする環境の内にある人々の動きを事前に予測しながら、 人々が自由に選択することと、 そのシステムにとって望ましい状態を維持することを両立させるための、 絶え間ないプロセスである

114頁

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