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2009年9月12日 (土)

存在の深みを生きる

日本宗教学会 の学会誌 『宗教研究』 最新号 (361号, 2009年9月)

「宗教と倫理」 特集号だった

郵送されてきたものを 早速ナナメ読み

いくつかの論文に目がとまったが、 なかでもとりわけ!

  • 萩原修子 「語りえなさに耐える: 水俣病事件がもたらした倫理と宗教の回路」 (289-312頁)

が秀逸で、 思わず通読してしまった

水俣病患者のあいだで 《存在の深み》 があらわになっている――

ということを 僕もボンヤリ知っていた 

石牟礼道子さん渡辺京二さん の仕事の断片を

どこかで目にしていたからだ

しかし、 それがどのようなものか、 具体的にはフォローしていなかった

ただの ボンヤリ知識 にすぎなかった

今回の萩原さんの論文で、 その一端に触れることができ

端的に 感銘をうけた

もちろん、 萩原さんの理解とまとめが見事であるおかげだ

萩原さんはレヴィナスやバトラーなどを引いて解説をすすめるが

漁師で患者の 緒方正人さん のコトバは

それだけで十分! 存在のあの深みから発したものだ

緒方さんは 存在のあの深みを生きるひとである――

もぉ それ以上の解説はいらないかもしれない

====================

萩原論文の章立ては 次のとおり

はじめに

一 責任=応答可能性 [responsibility]

1 「チッソは私であった」

2 責任・主体・倫理

二 命、 魂

三 宗教と倫理

1 語りえなさを探る手がかり

2 「宗教」 への態度

3 「狂い」 と 「悟り」

四 個を開示する

おわりに

「おわりに」 から 引用させていただきます

本稿の直接の問題意識は、 水俣病事件が五〇年を過ぎた今、 水俣から発信される言説で命や魂、 祈り、 鎮魂という、 一種の宗教性を帯びた言葉に触れる機会が増えたことに触発されている。 倫理的困難を超克するためにそれらの宗教的言説が、 どのように用いられているのだろう。 それらの問いから、 緒方らの表現活動を考察した結果、 「宗教」 と距離をおく自覚のうちにある思想と実践がそこにはあった。 宗教的言説を用いながら、 宗教とは一線を画すあり方を、 本稿では 「語りえないもの」 という視点から読み解いて来た。 倫理的困難に直面して、 「語りないもの」 にぶつかることで、 「命」 「魂」 「死者」 などのある種宗教的言説を手がかりにするが、 それを 「語りえない」 ままで開示し続けていることが、 彼らの実践の核だろう

308頁

そして、 そういう自己の開示は常に、 個としての 「顔」 を晒し、 他者の 「顔」 に向き合うことによって、 普遍化、 一般化による倫理的暴力を回避させているのである。 多数ということを嫌う緒方が 「宗教」 という言葉によって拒絶しようとしたのは、 こうした固定化・硬直化した普遍の原理を自己と他者に強要する倫理的暴力なのではないか。 言い換えるなら、 緒方らの知る 「宗教」 はそうした倫理的暴力を有する危険性を孕んでいることの示唆であり、 その手前の硬直化を回避する境域、 「語りえなさに耐える」 境域にとどまっている倫理的熟慮の実践が緒方ら 「本願の会」 に見いだされたとえる。 これが、 倫理と宗教の関係を示す一例として本稿のまとめである

308-9頁

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