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2009年10月 8日 (木)

歴史がもたらすもの

前便 にひきつづき

  • 野矢茂樹 『他者の声 実在の声』 (産業図書, 2005年7月)

より 書きぬきメモです

これで 一応の打ち止めとなります

私が理解しうるのは、 ただ私より貧弱な存在論だけでしかない。 それゆえ、 私がここで 「過去それ自体」 と呼びたいものは、 いまの私には理解できない過去世界である。 あるいは、 有意味に思考することのできない過去世界である。 だが、 他方、 もしまったく理解できず、 有意味に思考することができないのであれば、 そのようなものにわざわざ 「過去それ自体」 などという名前を与えて取り上げようとするポイントも失われてしまうだろう。 われわれはそれを理解しようとする。 そしてときに、新たな理解が得られもする。 その運動があるからこそ、 われわれは、 現在から振り返り見られた世界をはみ出るものを、 過去それ自体に期待する。 そしてわれわれは、 たしかに過去の底に、 そうしたわれわれの理解の運動を引き起こす力を感じるのである。 過去それ自体は、 それゆえ、 思考や理解によって捉えられるのではない。 思考や理解の運動において、 その運動を促す力として、 示されるのである。 私はこの力を 「謎」 と呼びたい

323頁

「過去それ自体」 とは 《他者》 すなわち 「謎」 である

それが 結局大事なんだ、 と野矢先生はいつもおっしゃる

そうだと思う!

自分の研究や人生が 《謎=他者=驚き=変化》 を保つこと

これがやっぱり なんだかんだ言っても 大事なことなんだなぁ

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03A 思索」カテゴリの記事

コメント

 『アスベストというと、なぜこのように危険な材料を使い続けたのか、という疑問を持たれる方も多いかもしれないが、1970年代の実態は、労働者の「将来の健康被害」と「現在の雇用」というトレードオフの問題であった。この時点でも、すでにアスベストが健康被害を発生させるということ、すなわち、もしも多量のアスベストを吸入すれば、20年程度経過した後に、中皮腫と呼ばれるある種の肺がんを発生する可能性があるということは知られていた。

 一方で、アスベストを補強用に使用したスレート板は、安価な建築材料として経済発展にとっては必須のものであった。もしもアスベストの使用を全面的に禁止すれば、アスベスト関連産業は消滅し、当然のことながら、従業員は失職する。

 当時の日本人の平均余命は、現在ほど長くはなかった。男性だと70歳にもなっていなかった。定年も55歳が平均的なものだった。もしも40歳でアスベストを摂取した労働者が中皮腫を発症するとしても、平均的には60歳の頃である。40歳のいま失職すると、すぐに家族の生活が困るが、万一、60歳で中皮腫になったとして、どのような状況になるかは予測しにくい。治療法だってできているかもしれない。このように考えることも自然なことであった。

 すなわち、現在と未来のトレードオフ。これが、1970年代のアスベスト問題の実態である。ただし、そのトレードオフは、アスベスト産業に従事している同一の個人の現在と未来に関わることであった。

     - 中略 ―

 この点についても、様々な議論がある。気候変動は将来の経済に大きな被害をもたらすから、現時点から削減のための投資をする方が安価であるという意見が正統的だとは思うが、その反対に、今後の大幅な技術革新が未来世代を救うから、現時点での対策に、多額の投資をすべきでない、という意見もある。50年前の生活を思い起こせば、説得力が無い訳ではない。

 しかし、この後者の意見は、最初に例示したアスベストのケースで言えば、中皮腫を発症する20年後にはがんの治療技術は格段に進歩するだろうから、しばらくはこのまま行くべきだ、という1970年代の産業優先の主張に類似する考え方でもある。

 環境・エネルギー技術を一応の専門とする筆者からみて、この意見に全面的に同意できるほどの、技術革新の新しい種があるとは思えないのが悲しいところである。

 とすれば、解決には、現世代がある種の「悟り」に到達することが必要なのか? そして、未来のリスクを優先すべきなのか。昨年あれほど非難された金融界の強欲が復活しつつある現状を見ると、現代人が「悟り」に至ることは難しいようにも思える。

 しかし、ある程度の悟りは必要なのだろう。もしそうならば、そもそも人類の持続可能性とは何か。すなわち、個人の生命が有限であることは事実であるが、その有限な寿命をより長くすることと、人類の持続可能性を高めるということは、どのような整合性をもつべきなのか、といった哲学的な議論を巻き起こすことが必須のように思える。

 そのような議論を行うことは、これまでは全く無理だったと思うが、国によっては、多少準備ができてきたようにも思える。
 その国とは日本である。世界でもっとも寿命の長い日本人が、今後、さらなる長寿命をどの程度目指すべきなのか、という問題意識も若干共有されるようになった。また最近になって、肉体的・物理的な寿命と、大脳の能力を含めた健康寿命は違うのではないか、という意見も聞くようになった。このような議論ができる下地はできたように思える。この点、日本は世界の最先端を歩む国である。

 もしもヒトの長寿の追求にも限界があることを認めたら、人間社会における経済活動にも寿命があることを認める時代になるのかもしれない。すでに、企業の平均寿命は、ヒトの寿命よりも短くても不思議ではない状況にあると判断せざるを得ないからである。 』

 安井 至 『新たにす 新聞案内人9月21日 だから「温暖化」問題は難しい』 より

 私はこの文章を読んで戦慄を覚えました。(ぜひ全文ネットで読めるので読んでみてください)
 私たちが未来のことだと思って放置している間にも、未来は確実に決定づけられている。そしてそこには、私たちが放置したり間違いを犯したとき、他者の命に関わるような取り返しのつかない問題も多く含まれている。

 歴史を科学に基づく方法できちんと把握することは、言うまでもなく大切なことです。一方、その歴史に基づいて大胆に予測し、間違いを犯さないような未来を描く鳥瞰的な見方も大切です。
 そのどちらを欠いた場面でもひとは未来をなくすでしょう。

 私たちに必要なのは、どちらが必要なのか考えるのではなく、どのような考えが人の未来に有用なのか、考え討論することです。建設的な話し合いによるものでなければ、この話し合いは意味がない。
 そんな哲学(宗教も含む)が今求められているのです。

 そんな疑問をもって手を付けた課題なので、ほんとうに進みません。自分の無知も手伝って、理解しなければならない課題が山積みです。

 とりあえず、哲学の現状を把握するための『現代哲学の真理性〔ポスト形而上学時代の真理問題〕』(吉田謙二監修)と、現代の不毛な哲学的争議の理解のための『「人間園」の規則』(ペーター・スローターダイク 仲正昌樹訳)を『科学の解釈学』と同時に読んでいます。

 だんだん見えてきたこと、一層見えなくなってきたこと、いろいろありますが、自分としては価値のあることと思って(くらくらしながら)がんばっています。

yokosawa さん>

● 現代哲学の真理論―ポスト形而上学時代の真理問題
● 「人間園」の規則―ハイデッガーの『ヒューマニズム書簡』に対する返書

いずれも とてもイケそうですね
いい本を紹介していただきました
ぜひ 僕も読ませていただきます。 ありがとうございました

=====

世界中の良識とやる気のある知識人が
まさに yokosawa さんと同じ問題意識で いろいろやっておりますが
なかなか 抜け道がみえないでいます

僕もその一人でありたいと願い、 地道にやってきましたが
当然 僕ごときでは 抜け道の 「ぬ」 の字も見いだせません

こういうときには 焦ってはいけない
焦らず たゆまず 地道にしっかり歩みつづける
もしかしたら 道が見えるかもしれないし、 見えなくても
次世代、 次々世代に パスできるものを残す――

もぉ そんなところしかありません

ものを考えることでお金をいただいている身ですから
本当に面目ないことだとは思うのですが・・・

  たしかに先生のおっしゃる通り!私なんかが考えなくても、たくさんの優秀な先生方が考えてくださってますよね。

 私が焦った理由の一つは、このお話をなさっているのが、生産研の安井先生だからです。安井先生ご自身は存じ上げませんが、一時期生産研や物性研のかたとお話しさせていただいたことがあって(その頃はまさに彼らが世界の中心みたいな時期でした)、その時の彼らが哲学に頼るようになるなんて全く考えられなかったからです。
 彼らは技術屋さんですから、自身の技術に対する誇りと科学に対する尊敬でできていて、私なんかの想像を絶するものでした。

 そんな彼らが文系の哲学に頼ろうとしているんだ・・・。

 ほんとうに、今だって世界としのぎを削って、先端を生きようとすごい努力を続けられていらっしゃるのだろうと思います。(きっと医療研究なんかもそうですね)
 今までも何度か科学と倫理の問題について書かれたものを読んだことはありますが、ここまで一般向けに具体的に書かれるのは、現場はけっこう危機感持ってるのかなぁと。

 本当に個人的な見解で申し訳ないです。

 でも、自分が今生きていることで人類の未来がなくなっているんだなぁなんて考えると、なんだか居ても立っても居られない気持ちにさせられてしまうのです。

 そんな気持ちを先生のブログにぶつけてどうする・・・。
 まあ、近藤先生なら許してくれるかってことで(笑)

yokosawa さん>

物性研は そりゃもぉ 技術屋のメッカなわけですが
生産研は 根本的に 文理融合を目ざしているところなんだろう、 と
僕なんかは そう思ってます
その意味で、 あらためて とても 「駒場的」 なのだ、 と

安井先生には 国連大副学長をなさっていた頃
二度ほどお会いしたことがあります
宗教学関連の国際会議をやるのに、 ご協力をいただく
そのカウンターパートとして 安井先生のところに
うかがったことがあるわけです
(もちろん! 先方は 覚えておいでではないでしょうが)

当時大学院生だった僕は、 技術の世界から
宗教研究の分野にも 積極的に発言をなさろうとする姿勢に
大変 感激したものです

そこでは やはり! 大変な危機感が表明されていました
科学技術の進歩は幸せを生むだけではないこと
科学技術制度の自律性があまりに高まり
研究者や技術者の主体性が むしろ消えていること などです

それは とても切実な 「現場」 からの問題提起でした

一方、僕ら文系研究者(とくに社会科学系ならぬ 人文系)が
エンジニアや 理系理論家の先生がたに
いったい 何を言うことができるだろうか・・・
今も変わらず 自分に課している課題です

=====

yokosawa さんのように、 お金になるわけではないのに
真剣に 思想に向かい合っている方にお会いできて
僕は とてもありがたく思っています

本当に 襟を正される思いです。 本当に!!

ぜひ僕も 一緒に歩んでいきたいと思っております
おいていかれないように (笑) です

  結局自分の周囲で判断してしまって、きっと当時から(先生よりも少し前)安井先生は主張なさっていらしたのに、聴いていなかった自分が恥ずかしいです。

 私は技術屋さんの中で育ったので、日本を支えてきた彼らに敬意を払いながら、どこか文系を馬鹿にしてる感じ(特に人文系)にいらいらしても来ました。
 
 父は最終的には企業でバイオ関係の技術部門のお手伝いをしていましたが、社会がどんな反応を示しても、自分たちが間違っているとは決して感じている風ではありませんでした。
 今もきっと、研究は進んでいるのだと思います。

 ひとつ加えたいのは、そんな研究室でも初馬に鞴祭りをしたり、神棚に安全祈願のお札があったりと、なんだか宗教と一体になった感じがおもしろかった。危険と隣り合わせというのは、常に感じていることなのでしょう。今でもあるのかな?

======

 「秒速5センチメートル」は恥ずかしながら私も泣きました。

 それは、同じように早くに出会って(15歳)、離れ離れになって、それぞれ違う恋愛を拾って、女の子は自分を育ててくれた年上の人と結婚しそうになりながらも、結局結ばれた人たちをよーく知っているからです。
 男の子は、当時の手紙の束を棺桶に入れるからと隠し持ち、女の子は結局捨てられなかったたった一枚のはがきを隠し持っています。

 現実はもっともっと複雑だし、人は一番成長する時期にはきちんと成長します。
 そういう意味で☆☆☆。

yokosawa さん>

どこか文系を馬鹿にしている――

僕自身、ある先生に 初対面で 人前で 罵倒されたことがあります
農学系の技術畑の先生でした

インドをやっている宗教学の大学院生 というのが
その先生の 何か無意識的なものを 刺激したのでしょう

「そういうことだから インド研究者はだめなんだ」 とまで言われました
自分たちは 「ちゃんとしている」 のに、 というわけです

これは もぉ ビョーキです
当時大学院生だった僕が どんな関心をもっているのか
何をしようとしているのか そうしたことを一切聞かず
いきなり 「キレた」 のでした

あの先生の 「無意識的なもの」 を 僕の肩書きが 刺激したのでしょう

理系の方がたの 歴史観・人間観・社会観は もちろん
お世辞にも立派なものではありません

しかし、それには われわれ文系研究者に 責任があります
閉じたサークルで ジャルゴンで語るクセが 明らかに 僕らにあるからです

僕らは ちゃんと 自分たちの考えていることの意義と内容を
外にむかって 分かりやすく 伝えるようにしなくちゃいけません

【追記】

yokosawa さん>

帰宅して読み返してみましたら、 なんだか
おかしなコメントになっていました

理系の方がたの 歴史観・人間観・社会観は もちろん
お世辞にも立派なものではありません――
と 書きましたが、 これは間違いですね

理系の世界が制度的に蓄積してきた歴史観・人間観・社会観――
こう 書くべきでした

つまり、 文系研究者個々人についていえば 当然
まったく 「人格者」 ばかりではない、 ということ
理系研究者個々人のなかには 当然
「人格者」 がいるということです

文系の人たちは 「言うことだけは たしかに素晴らしい」 のです
ただし、 それを実践できているかどうかは 別問題です

理系研究者の人格否定が 僕の意図したこと
ではない、 この点を どうぞご理解くださいませ

すいません ヾ(_ _*)ハンセイ・・・

  私には先生のおっしゃりたいことは分かっていると思いますが、過激だなぁとは感じました(笑)

 文系学問がきちんと説明できる哲学を持つことができれば、おそらく理系学だってともに歩まなくては共倒れだということがきちんと理解されると思います。(当然ではありますが)

 「学者にとって、何よりも大切なのは言うまでもなく学問であろう。そして、学問とは、実際に命のやりとりをすることはないにしても、それに近い精神的戦闘が行われる、というのが本来のところであろう。そして、学問の偶有性の文脈には、およそ、肩書きとか、組織とか、そういう余計なものがまとわりついてはならない。
     ― 中略 ―
 何の前置きもなしに、実質的な討論に入る。そして、それ以外のことは一切考慮しない。百メートル走や、スピードスケートにおけるアスリートは、競技の最中、他のことは考えないだろう。学問も、それと同じこと。集中と没我。そこには、遊びがある。フロー状態が顕れる。そのようにして初めて発揮される、人間の知性というものの輝きがある。」
 (茂木健一郎『偶有性の自然誌』より 考える人2009秋号p249)

 学者っていろいろ大変そうですが、のし上がってくださいませ。

yokosawa さん>

僕にとっての学問は 「業」 です

学者が皆 そうではありません
先日も ある大学の先生と そういう話をしたばかりです
そして、 「業」 としての学問に とり憑かれている学者に
これまで あまり多くは 会ったことがありません

僕にとって学問は救いでした
勉強をほとんどしたことのない不良の僕が
まさか 大学の先生になるなんて・・・

これには 明らかな 「救い」 の体験が必要でした

=====

「のし上がる」 のは 不必要、 そしておそらくは無益で有害
ではありませんか・・・?!

まさに 人文系学問の粋として申し上げたいのですが
「闘争」 の人生イメージを 上手に 昇華しなくてはいけない――

文系の学者は このように 「言うことだけ(だけ!)イッチョマエ」です

  「今度の選挙では自民党が負ければ負けるほどいいと思っています。民主党が勝てばいいというのではありません。そうではなくて、自民党が負ければそれでいいのです。それには理由があるのですが、今はやめておきましょう。
  ― 中略 ―
 自民党が負ければ負けるほどいいとは思ってはいますが、私はしかし、選挙の結果には何の興味もありません。選挙などというものとは離れたところで考えてきたからです。民主党が何を言おうが、何の関係もない。共産党とか社民党が何を言おうが、どうなろうが、それも関係ありません。だって、こちらは自立の思想でずっとやってきたのですから。そういう選挙の結果とか政党の動向とか、彼らが言っていることとは関わりなく、ずっと自立的思想を目指してやってきたことへの誇りがありますよ。そのことを言っておきたい。」
                           二〇〇九年八月十七日

 (吉本隆明 『大衆の選択』 現代思想10月号p62)

 私は自分の考えと似ているようで違っているこの文章について、ずいぶん考えているところですが、まったく結論がでません。(全文読むともっと難しい)
 でも、最近気がついたのは、最後に(よしもと たかあき・詩人)て書いてあることです。
 かっこいいこと言って認められるのは詩人なんですね。(そこは吉本先生も意識して書かせていると思います。)

 先生が守りたいものは何ですか。

 のし上がるっていう表現が誤解を生んだかなぁと思いましたが、そこで何もかも決定されるような気がします。
 

yokosawa さん>

実際は 思想家で哲学者なのに 「しじん」 と名乗り名指されるのは
カッチョイイし うらやましいことです

もちろん! 「しじん」 には 「しじん」 の 大変峻厳な道程があるわけですが
あえぎあえいで到達したのが 「がくしゃ」 では なんだかしまりませんよね

今更 学問やアカデミズムへの 「信心」 を
無条件に保てるはずもありませんが、 リュウメイさんと僕らとで
やっていることは ほとんど何も変わりません

インドに 「スワダルマ」 という概念があります
「己に (スワ) 定まれしこと (ダルマ)」 とでも訳しましょうか

いろいろなカルマ (業) が結び合い解け合いして
今のワタシが現象していて、 それに 自分で選択できることなんて
ほとんど何もない

「己に定まれしこと」 を 一心不乱に果たすこと――
これぞ モクシャにいたる というわけです

今の僕は この程度のことでしかありえません

自分のコトバやオコナイで 周りに 少しでも ほんの少しでも
建設的なものを残せたらいいけど、 そのためにがんばるけど
失敗や過ちだらけの僕の人生で 引き受けられることは
自分と 家族と 周りの結縁とだけであり
それを精一杯、 ホントに精一杯やるだけであって
それ以上ができるかできないかは 「己に定まりしこと」 があるかないか
それでしかない、 という・・・

ギリギリのところで そんな程度でございます
守りたいものといえば、 そうして与えられた結縁の豊饒化
それを果たしうる可能性と潜在能力 です

  私は私の選択について、先生とは違った考え方を持っています。

 私は私の今までの人生で、私自身のことを決定付ける他者に、たくさんの自分の人生についての決定をされてきたと思います。しかし、同じように私も他者に対する決定をたくさんしてきました。
 要するに、私の人生の決定は、何か(神様)に運命づけられるのではなくて、多くの他者によって作られている。

 しかし、私は私にとって一番大事な決定は自分自身でしていると思います。だから、私は私の人生を、他人のせいにしないで自身で責任を持つことができるのです。

 もちろん、自分の人生を自分一人で背負っていくことでさえでききれないので、いろいろな人に支えてもらっています。そして、その人たちに愛情を注ぎ、大切に思っています。

 でも、そのことと、自分で自分の守りたいものについて、家族や大切にしたい人たちと、自身の信条を混同して考えるのはおかしいような気がするのです。
 自分の中で築くもの、自分の中心に据え置いてゆるぎないものにしようと努力するものについて、それは自分自身の問題であり、その構築や防衛のために戦う心情を失ってしまったら、私に何が残るでしょう。
 私は常にわたしに問い、わたしと戦っています。そして、わたしを憎むと同時に愛しています。

 自身の守りたいもの《思想》とは、そのように作られていくものではないかと、今は思っています。

yokosawa さん>

なるほどぉ・・・ とても興味ぶかいです

たしかに、 僕のばあい 「自分」 というものへのこだわりが
yokosawa さんほど強くないかもしれません

「自分」 なんて こだわる必要なし、 と思っているんです、 どこかで

人一倍 個性が強い僕ですから、 それでも十分
周囲の方がたは 「うっとぉしい奴め」 とお感じになっていると察します (笑)

これ、 運命論ではありませんよ、 念のため
自分について自分で決められることなんて ほとんどない――
これは運命決定論ではなく 事実ですからね

固い 「個」 ではなく、 流動的な 「個」 ――
そのような 「個」 として 責任と罰 (バチ) は引き受ける――
善根功徳 とでも言いましょうか、 やるべきことは徹底的にやる――
そのような 倫理感覚なのかなぁ、 僕の場合

=====

自己分析してみますと
この自己感覚に 大きな影響を与えているのは
インド思想、 とくにガンディーです

ガンディーというおっさんは どれほど 「自分」 が強かったことか!!
そのくせ 「自分」 の狭小さに どれほど深く納得していたことか!!

あまり考えたことはありませんでしたが
どうやら 僕は その辺りに 足場をすえているようです

  私も自分へのこだわりはないほうですよ。

 ただし、それは「今、私がしているこの作業(仕事など社会と関わりをもっていること)をもし私がしなくても、世界はいくらでも回っていく」という時の、自分へのこだわりです。
 私より優秀な方はいくらだっているし、もし私よりも経験がない人がこの作業をしたとしても、それはいくらでも、いろいろな方法で何もかも回っていくものです。
 そして誰がした場合が一番よい方法や結果であるかなんてことは、それこそ全く分からないことなのです。

 私が私にこだわっているとすれば、それはあえて言えば、私の存在についてですかね。だって、そうでなければ私は存在しないのですから。
 (他者が見ている私が本当のわたしですか?)

 先生がこのブログにこだわっているのはなぜですか?
 
 それは先生に何が必要だからですか・・・。

yokosawa さん>

このブログへの僕のこだわりは まさに 「業」 の部分です

物事を調べて考えて 論理的に解析して理論化する――
なぜかしら そのような傾向が 僕にはもうすでにあるのが第一
(これは 僕が選択した道であると同時に、 そうなってしまった道でもあります)

そして、 そのこだわりのゆえに 周りの人に迷惑や心配をかけてきた――
その罪滅ぼしとして、 やれることを 全力でやりたいんだ、 と

ブログは たまたま僕の研究と思索の 発表媒体になっているだけですので
(「たまたま」というのは、 メディア事情が歴史的に変化したから)
やっていることは 僕の 「業」 をぶつけること です

これは 僕にとっては 呼吸のようなものです

昼間っから 満員電車のなかで 人類史と戦争と宗教について
黙ぁって 考えつづけている
そういう妄執の 吐き出し口です

もちろん それが単なる妄想にならないですんでいるのは
学問の訓練と 同輩・先輩・後輩のネットワークのおかげです

=====

こんなんで お答えになってますでしょうか

 まずは私のこだわりのところで言い訳をさせてください。

 先の文章では、まるで私が仕事を一所懸命していないような感じですが、
私は(自分なりに)懸命に仕事をしています。
 なぜなら、私は《人が人のためにできる最良の仕事って何だろう》という課題を仕事選びに付けてしまっているからです。

 私がこだわらない理由は、私が知っていることや考えていることはほんとうに大したことなくて、どんな人の意見もきちんと聞ければ得るものが大きい。
 そして、仕事は自分一人で考えてするものではないと思っているからです。

 仕事という媒体を通じて得られるものはすごく大きいです。
 そして、私という存在の小ささを思い知らされます。

==========

 先生の答えについて

 私にはブログを業として書くことの意味がよくわかりません。
 ブログでなくてはならないのですか?
 どう考えても散文的になってしまうブログでは、先生の伝えたいことも散文的にしか伝わらないのではないですか。
 でも先生が(他者への懺悔の含めた)業としてすることならば、散文的であってはならないと私は思います。

 呼吸というのはわかる気がします。
 先生の一部になってしまっているということですね。

 でもそうならば、やっぱり私はお邪魔ですね・・・。
 
 

yokosawa さん>

yokosawa さんが お仕事に大変熱心なのは
何だかんだで 存じ上げております (笑)

仕事は 僕にとっても 本当にありがたいものです
(もちろん 給料が一番ありがたいですが 笑)

=====

本という媒体の意義と地位が すっかり変わりました

ブログは 2.0 ということで 双方向性と迅速さが 長所です
短所は 断片的になるところですね
たしかに おっしゃるとおりです

僕としては Aura Buddhi Prakash というDL用サイトを併設することで
断片的に書くべきではないことを そちらにもっていく
という工夫をしておりますが、 まだ不十分ですね

他にもあります

「カテゴリー」 による整理
   ↓
ある程度の まとまった主張を浮き上がらせる

サーチエンジンによる知識獲得の常態化
   ↓
これは ネット時代の宿命です
このことは同時に 一記事に時間をかける読者が
少なくなることを意味します
僕自身 特定のネットサイトを熟読することは めったにありません

ハイパーリンク、 アクセラレータの活用
   ↓
これも ネット時代に特有の知識形成の手法です
これに対応したコトバと 表現形態を 僕らは身につけないといけません
(一応 「プロ」、 すなわち お金をいただいている身なので 笑)

とまぁ、、、 僕なりに ブログでやるべきこと、 できることを
ターゲット化しているのですが うまくいってませんかねぇ…

=====

ブログのいいところは 双方向性ですから
yokosawa さんのコメントは 本当にありがたいです
社交辞令ではなく、 です!!

僕の授業形態をご存知の yokosawa さんなら
これには納得していただけると思うのですが、 いかがでしょう…?!

 先々週の土曜日。
 学校からの帰りに有楽町線のホームに入ってきた上り電車に飛び乗った。(ラッキー!)

 結構混み合っている車内で空いている席に座ると、隣の座席はおもちゃ箱をひっくり返したようになっていた。
 「ごめんなさいね。荷物の中に入れてたお茶の蓋がちゃんとしまってなかったのよ・・・。」
 明らかに、そっち系のぽっちゃりした男性が、大きなレスポートサックのボストンバックの中身をひっくり返していたのだ。

 「あぁ、よかった。無事だった!」
 「被害が少なくてよかったですね。」
 「別に他のものはいいのよ。でも、御本が濡れたら大変。私みたいな駄目な生徒に先生がくださった御本なのよ。」
 そう言って、男性は工学系のいかにも難しそうな本を見せた。
 「ほら、サインまでくださって。卒業まで8年もかかってしまった駄目な生徒の私に、先生がわざわざきてくれてくださったの。」
 「きっと、がんばっていらしゃったからですよ。」
 「いいえ、あまりに時間がかかったからよ。」そういって、彼は笑った。

 「きっと、卒業したら自分でそんな本を買って読む機会がなくなるからですかね。」
 彼はえっ、という顔をして私を見た。
 
 ああ、そうか。彼はこれからもこんな本を買って読む気なんだろうなぁと思った。そんな彼に、先生が贈ったのは、自分の(一生懸命書いた自信作の)本なのか。

 そういう私のカバンにも思想と教育の本。
 私もがんばらねば。

 紀の善の抹茶ババロアのために、飯田橋で降りる。
 「ありがとね。」
 「いいえ!」

 帰って抹茶ババロアを食べながら家のものにその話をした。
 「ふーん。ところで、このババロアいくらなの?」
 「630円」
 「キャー!」

 ちょっと。人の話を聞け。
 

yokosawa さん>

こちらへのお返事、 本文エントリとして あらたに書いてみました。

明日早朝に公開の設定です。

寝起きにでもご覧くださいませ (笑)

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