地域史と地球史と一般理論との往還
昨日 (2009年11月1日) 発表を させていただきました
発表5分前まで かなりてこずりまして・・・ 結局
自分の研究の 一番荒削りな部分 を 荒削りのまま
お出しする、 そんな発表になってしまいました
一部の参加者の方がたには ありがたくも好評でしたが
他の方がたには ナンノコッチャ の話であるようでした
(まぁ そうだろうなぁ、 と)
僕としては ちゃんと考えて ちゃんと調べているんですが
想像されるであろうよりも かなり細かくやっているんですが
所詮 まだまだ・・・ なのかもしれません
こういう場を与えていただいた事務局の皆さまに
心より感謝 申し上げます ありがとうございました m(_ _)m
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ハンドアウトの増補改定版を 公開させていただきます
あらためて 内容ですが
- インドのいわゆる 「宗教対立」
- いわゆるヒンドゥー原理主義、 ヒンドゥー・ナショナリズム、 ヒンドゥー・コミュナリズム
- 《宗教/世俗の二分法》 と インドの世俗主義 (セキュラリズム)
- インドの植民地的近代性と グローバルな近代文明
これらの点を 歴史的観点から 見なおしたものです
そこでのコメントを織り込んで 作った発表です
その際の参加者の皆さん> ありがとうございます。 皆さまのコメント、 こういう形で発展的に 活用させていただいております
どうぞご笑覧くださいませ
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副題が示すように ディシプリンがむちゃくちゃで、 本来なら
<下につづく>
どこの学会でも話せない、 話しちゃいけない
そんな代物なのかもしれません
僕としては 大切なことをやっているつもりなんですが
学問でディシプリンをはずしてしまうと
何ものでもなくなってしまうわけですから、 難しいところです
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何がありがたかって、 この程度の発表に
ご参加の方がたに付き合っていただき、 あまつさえ
非常に発展的なコメントまでいただいたことです
当たり前ですが、 プロはやっぱりスルドイなぁ、 と
一人でやってちゃ ダメですね ヾ(_ _*)ハンセイ・・・
上の増補改訂版には 次のような点がまだ反映されてません
- 柳澤悠先生: インドの1980年代は 「低開発」 の一言ではすませられない。 より中長期的な変動の視点から、 コミュナリズムの再台頭は理解されるべき
- 櫻井義秀先生: コミュナリズム、 セキュラリズムという語の出自と伝播の具体的な過程が示されていない
- 嶺崎寛子さん: 「fragile state」 という開発学の概念が有効ではないか
これらの論点は、 またの機会までに 徐々に反映させていただきます
本当にありがとうございました
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コメント
この記事へのコメントは終了しました。
先生がここで実験的になさろうとしていることが、あまりに贅沢に織り込まれてしまった・・・という感じの副題ですね(笑)
歴史と宗教と政治の関係の横断的な事例研究を展開させて、それを縦断的につなげて変化を説明する。その変化のキーワードをセキュラリズムにして、セキュラリズムの変化と時間をつなぐ試み。
こんな感じでしょうか。
そのうえ、これを地域(インド・パキスタン)で括ってフレームを作り、他のフレーム場合との比較検討(相違と類似)ができれば、宗教と人間の関係に切り込むことが政治や経済という実世界の場面で可能になる。
うーん、すごく壮大でいいアイディアだと思います。
でも、インドの場合は特にナショナリズムとの関係が難しいけど面白いところなので、私としては先生にはそこのところにもっと切り込んでほしかったかなぁと思います。
たぶん、そこのところの説明がちゃんとできるとすれば、それは先生だけなんですから。
『例えば、一九五七年の講義を見ますと、その中に「視圏(perspective)の拡大と政治的集中」という章が設けてあります。ここで幕末維新を描いたわけです。「視圏の拡大」というのは言うまでもなく、世界像が広がって、今まで中国大陸の方向を向いていたのが、今度はヨーロッパやアメリカに目を向けるようになったということです。視圏が拡大するというのは、たんに量的に視野がひろがるというだけでなくて、世界像自身が変わってくることを意味します。単に認識が対象的に拡大されるという意味だけではなくて、認識主体を変革する作用をする。これは思想史あるいは精神史の問題として非常に大事なことなのです。-中略-
けれども新しいメッセージが来ると、つまり新しい経験に遭遇すると、ルーティンではすまなくなって新しい意味賦与をしなければならない。こうした個別的意味賦与を相互に関連付けたのが、宇宙像とか世界像です。世界像のなかで自我は自分の位置づけが出来、したがって安定感をもちます。世界像が変わるということは自分の位置づけが変わるということです。自我アイデンティティというものが見当がつかなくなるのですから、自我の非常な危険になる。これは必死になって食い止めなければいけない。そういう役割を一人一人の人間に代わって代行したのが(地動説における)ローマ・カトリック教会です。今日から見るとバカバカしいようですが、宇宙と人間のイメージが音を立てて崩れるかどうかという問題であって、けっして、単に自然科学上の、認識の対象の問題ではない。自然科学上の一つの学説として放置できないのです。これは正統的な世界像というものが前提されている社会では、いつ、どこでも起こる問題で、ソ連におけるルイセンコ学説の問題なども基本的にはうなじです。』
(丸山眞男「原型・古層・執拗低音」より『日本文化のかくれた型』pp103~104)
投稿: u.yokosawa | 2009年11月 3日 (火) 20時24分
yokosawa さん>
的確な まさに的を射た要約 ありがとうございます
お気づきのように、 授業で僕がいつも話していることが
中~~途半端ではありますが プロ相手に話せるところまで
やっともってくることができるようになりました
四冊の先行研究をみつけたのが 大きかったです
その四冊については 追々 ここでも紹介していきたいと思います
ちなみに 授業では その一冊を読みましたので
来年は 前期に一冊、 後期に一冊
そんでもって 再来年に一冊 という予定です
学生さんは 相変わらず多くはありませんが
以前に比べれば 少しずつ 反響も出つつあります
=====
ナショナリズムも 当然入れていかないといけませんね
がんばります
=====
『日本文化のかくれた形』 面白そうですね
読んでみますね
投稿: コンドウ | 2009年11月 4日 (水) 03時02分
うーん・・・。先生が授業でこのことを言おうとしていたかどうかは、私にはわかりませんでした。どちらかというと、前半では特に、世俗と宗教の対比にばかりこだわって、精神面での、私が勉強したかった宗教学とはずいぶんかけ離れているなぁと感じるくらいでした。(たぶん今もそんな感想が多いのでは?)
もう少し、学生さんにも、先生のしたいことの説明を(インドを使ってでも)したほうが、理解が深まると思います。
宗教学の多様性とその必要性を知ることも、学生にとっては将来に繋がると思います。(先生にとっても)
現在の宗教学と戦い、社会の将来を見据えた研究をなさっている宗教学者と言えば、私にとっては小原克博先生です。(先生は神学だからもっと大変かもしれないですね。)
『宗教多元主義モデルに対する批判的考察』は、先生とは違う方法で、同じような本を読まれて、戦ってる~って感じがします。
『日本文化のかくれた形』はぜひ読んでみてください。「日本文化のアーキタイプスとは何か」という副題のとおり、文化の構造についてそれぞれのかたが丁寧に語られています。こういうのをよんでしまうから、建築という語をめぐる私の目が厳しくなってしまうのかと自分でも思います。
レヴィ・ストロースが亡くなりましたね。先生との神話をめぐる話の後、『パロール・ドネ』を再読し始めていたので、ちょっと驚きました。
冥福をお祈りしています。
投稿: u.yokosawa | 2009年11月 4日 (水) 09時00分
yokosawa さん>
そうですかぁ・・・ まぁ 裏テーマみたいなもんですし
上手に説明する枠組みも まだないから
なかなか 受講生の皆さんには 伝わらないのでしょうね・・・
これは 僕の反省点です
精進いたします
=====
小原先生は 本当にご活躍ですね
あのバイタリティに いつも圧倒されます
僕と同様の関心であるかどうかは 気づいていませんでしたが
こうしてご紹介いただいたのをきっかけに
さらに注目していきます
論文「宗教多元主義~~」 も読んでみますね
=====
レヴィ・ストロースの死は 今朝 携帯ニュースで知りました
100歳だったそうですね
残念ではありますが、 十分の実績をのこされた 稀有の学者でもありました
間違いのない天才です!
なんだか 秘密の導師のような、 東洋的な匂いのする知性でありました
あとは われわれ後進の者が
引き継ぐべきところを ちゃんと引き継いでいくだけです
がんばりたいです
投稿: コンドウ | 2009年11月 4日 (水) 13時58分
またまた、偉そうに余計なことを書きました。もう、後から読み返すと、顔から火が出そうになることが多々あります。ほんと、申し訳ありません。
『私はこの講義をつうじて自分の仕事をまっとうし、またその講義がまことの意味で「文字以前」の性格を持つものであったことを自負するものである。事実、一九六〇年以降に執筆された全著作と数多くの論考は、まずは口頭発表で「ラフスケッチ」されたものであった。私の仕事の詳細につうじていない読者でも、素描的な形式を認めることができるはずである。』
(レヴィ=ストロース 中沢新一訳 『パロール・ドネ』p10)
「教授の講義案をプリントと称して、本郷で売っているということは私の学生時代からある伝統で(笑)、厳密に言うと著作権侵害なのですけれども、戦後でも聴講学生がアルバイトにプリントをつくり、生協出版部から学生に売っている。もちろん一応、私に許可をもとめますけれども、試験の間際になってもってくるものですから、いちいち校閲している暇がない。目を通した学年のもありますけれども、目を通さない年の方が多い。したがってその学期にノートを筆記した学生によって出来不出来がはなはだしい(笑)-中略-このプリントは今になってみると私自身非常に便利、かつ有難く思っているのであります(笑)。なるほどこのときにこういう講義をしたのかということが私にもわかる。私のように講義を教科書として書物にしないものには助かるので、今日ここに持ってきたわけです。」
(丸山眞男「原型・古層・執拗低音」より『日本文化のかくれた型』pp101~102)
大学の先生にとって講義はお荷物とばかり思っていましたが、大切だったんですね。
先生も、まだまだ困難な道のりと想像できますが、頑張ってください!
投稿: u.yokosawa | 2009年11月 4日 (水) 16時56分
yokosawa さん>
とんでもございません 大丈夫です お気遣いなく

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授業が 重荷になっている方も たしかにいらっしゃいます
僕が買ってる Iさん は 大学とどうもソリが合わず
授業が苦痛、 っていうか 職場が苦痛でしかたない、 とおっしゃってました
僕の場合、 授業はいつも 自分の研究の糧です
授業で問題を整理します、 問題点を抽出します
レヴィ=ストロース先生のおっしゃる 「ラフスケッチ」 です、 まさに
投稿: コンドウ | 2009年11月 5日 (木) 05時18分