« LOS NINOS DE FUERA @ LUCIANO | トップページ | 【アニメ】 金光さま »

2009年11月16日 (月)

小沢一郎の一神教批判

小沢一郎氏が 公的な場にて Photo

キリスト教とイスラームを 「排他的な宗教だ」 と切り捨てた――

この発言には 多くの反響がすでにあがっている

小原克博先生 のブログ まずは見ていただくとして

====================

ここではあえて 『クリスチャン・トゥデイ』 の記事を紹介します

http://www.christiantoday.co.jp/main/society-news-969.html

もうひとつ、 こちらもメジャー・メディアとはまだまだ言えないが

個人的には応援している 『ジャンジャン』 より

http://www.news.janjan.jp/government/0911/0911123018/1.php

====================

この発言を批判するときには

政治的な計算高さが尋常ではない小沢一郎氏が

あえてこれを語っている という点に注目を要する

つまり、 この発言は “支持をあつめる” 可能性がある

“民主党政権の基盤固めになる” 可能性がある

“票になる” 可能性がある、 ということだ

侮ってはいけない!

「一神教が排他的」 などという物言いは

現代日本において 実にありふれている

こんなことは あちこちで 当たり前のように語られていることだ

もちろん 僕はそれに真っ向から反対するけれど

それにしたって それは 日本の宗教言説の正当なる一部だ

【メモ】

「ヒンドゥー・ナショナリストの一神教批判」

小沢氏のそれは もうマッタクもって そっくりなのであります

====================

リンク: 小沢氏の宗教観に波紋.

« LOS NINOS DE FUERA @ LUCIANO | トップページ | 【アニメ】 金光さま »

01B 宗教政治学」カテゴリの記事

コメント

 民主党が保守層の取り込みを始めたということは、日本もリベラルよりも保守層の数が増加しているということでしょうか?(アメリカでは有権者の40%が保守派を自任し、リベラルは20% 10月ギャラップ社世論調査)
 保守ともリベラルとも与しない中間層が、より保守色を強めたという判断ならば、先生のおっしゃる通り危険な兆候だと思います。

 ただ、一神教への批判が国際社会に及ぼす影響について小沢氏が考えていなかったというのは信じがたい。
 自分は保守=自民党、リベラル=民主党という地盤を好まないということを小沢氏が言いたかったのならば、二大政党制への傾きへの批判という考え方もできると思います。

 自分はリベラルではないという主張。
 なんだかいろいろ想像できて、本意は分かりずらいです。

 精神的に追い詰められた人々は宗教に陥りやすいということで気になったのは、「アジアを脅かす原理主義の悪夢」(『ニューズウィーク日本語版11.18』p16)で、東南アジアのムスリム(2億5千万人)についての記事です。
 彼らはシャーリア(イスラム法)の適応拡大を求めて、その要求を実現しつつあり、インドネシア、ブルクンバでは06以降、世俗的統治に替って宗教的統治が行われている。地元の政治家や軍人、警察の支持の下、急進的な聖職者が憲法よりシャーリアに従うべきだと宣言。女性は「ジルバブ」で髪を隠し、労働者は収入の2.5%をザカート(喜捨)として納めなければならない。小学校の入学条件はコーランをアラビア語でスラスラ読めることで、結婚にも公務員の昇給にも聖職者の承認が必要。
 これらの動きがインドネシア国内で約20か所、マレーシアでも同様の動きが起きている。

 これらの解決のためにはアメリカは、ボランティアや教師や、農業専門家、起業家としてこの地域の発展に協力してほしいと締めくくっています。

 また、同じ雑誌のp54「新興マネーでテロを撲滅せよ」では、トルコやドバイ、マレーシア経済改革、パレスチナ自治区ヨルダン川西南岸やエジプト、パキスタンでの小規模な規制緩和により起業家や実業家が波に乗り、少数ながら中流層が拡大を続けている。 この動きは世界経済からの疎外感から彼らを解放し、イスラム世界の真の近代化を図るチャンスだと。
 
 だから、富める国々が「枢要な中間層」と強い絆を結んで成功の後ろ盾になれば、変革も夢ではないと。

 小沢氏の行動とこのニューズウィークの書き手たち(欧米人)の姿勢を対比すると実はおもしろい。
 あえて自分の宗教を強調し、経済(金)による救済以外の道の模索を訴えている。

 すごく私流の捉え方ですが、そんな風に感じてしまうのです。小沢氏はほんとうのところを語ってくれるほどお人よしではないですけどね。

yokosawa さん>

大変!大変! 間をあけてしまいまして、すいません
やっと ちょっと考える時間がとれましたので、お返事をば

=====

日本における一神教批判は 保守派/進歩派の分類とは
関係ないんじゃないか、 とすら思っております

自称「進歩派」の間でも、 一神教批判は 普通にやられますから

=====

小沢氏の本意は もちろん分かりませんね

yokosawa さんご指摘の点も いずれもごもっとも
さらに加えるなら、 小泉と同じ路線――
すなわち、 経済的大変革をおこなうに際して
外国勢力への批判を持ち出すことで いろいろな不満を
外に逃がしてしまおう、 という戦略――
そのような見方すら可能かもしれません

=====

いずれにせよ 憶測にすぎないので
ここは 小沢研究のプロたちの意見を ネット上で検索してみました

2000年代以降、小沢本を書いた著者たちが
今回の一神教批判について どう反応しているか――
それを ザッと 検索してみました

■ はっきり発言があったのは お一人だけでした
===
いやあ『宗教哲学』とか、『宗教学』とか、『文明論』とか、そんなたいそうな事は言ってないような・・・。死ぬと汚ザワさんも煩悩がなくなって、神様仏様になるということですか!?イヤだなー。
ということは、以下の永住外国人への地方参政権(選挙権)付与も煩悩のなせるワザ!?
===
http://gaiagearw0.blog.so-net.ne.jp/2009-11-17
伊藤惇夫「行雲流水の如し」

■ 森田実さんは 言及はあるが自説の開陳はなし
http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/
友人であられる一カトリック神父の意見を引用掲載するだけです

■ 発言なし、もしくは見当たらず(見つけられず?)
松田賢弥さん
大下英治さん

■ 同じく、 個人ブログ等ですら沈黙している方が 三名
http://www.the-journal.jp/contents/hirano/
平野貞夫「永田町漂流記」
===
http://rep.sanae.gr.jp/index_tusin3.html
高市早苗「5期目だ!野党だ!!永田町通信」
===
http://blog.goo.ne.jp/itagaki-eiken
板垣英憲「マスコミに出ない政治経済の裏話」

=====

いずれにせよ、 小沢研究のプロたちは 今回のことを
ほとんど話題にしていません

各氏には それぞれの狙いや事情があるんでしょうが
僕たちがいろいろと思料してみても 手ごたえがありませんね

まぁ そもそも これを話題にすること自体
小沢氏の戦略に 乗っかってしまうことになるのかもしれません

=====

もう一点

小沢氏の一神教批判は 世界的には ごくごくありふれたものです

この程度の悪口であれば、 先方は もう慣れたもの
型どおりのクレームは来るかもしれませんが
(外国からは 今のところ そんなに大きな反応は来ていませんね)
まぁ それほど過剰な反応はしないでしょう

一枚カードを握られた、というのはあるでしょうが
そこら辺りも 小沢氏は ちゃんとハンドルしてしまうことでしょう

 これを書いた次の日くらいに、記者の質問に小沢氏がキレてましたね。
 「君たちは煩悩の数も知らんのか!」
 「・・・・」
 ほんと、なにが言いたかったんだろう・・・。

 土曜日に「沈まぬ太陽」を見てから『沈黙のファイル-「瀬島龍三」とはなんだったのか-共同通信社社会部編』を読みました。
 政治って本当に何がどうなっているのか、全くわかりませんね。
 戦争責任とか賠償問題とか国家のためと言いながら、結局政治家は資金集めに奔走し、それに企業が咬んでいく。
 戦争の次は、発展途上国への援助・・・。

 私は事業仕分けは子どもだましだなぁと思っていました。なぜなら、内容も提出資料も予算のヒアリングに比べるとはるかに安っぽい。(素人相手だから当たり前か・・・)

 でも、こういう政治家がらみの事業が白日にさらされて、一つでもなくなるなら意味があることなのかもしれません。ただ、それによって本当に助かっている人たちもいるんだから、本当は事業の内容の検討が一番大切だとは思います。
 したがって、そういうところのオンブズマンは確かに必要だと感じます。
 行革審に期待かな。

 政治はわからないですね。
 権力っていったい何のためにあるんだろう。

 つい最近、高野山と比叡山が対話をしましたよね。
 宗教も政治も分離したり合併したり、その意味は同じなのでしょうか。

yokosawa さん>

十年ほど前まで 学者になるか 政治家になるか
真剣に 悩んでいました

主体的な決心というよりも 状況がそれをゆるさず
結局 僕は いまの職につくことになりました

政治家にならなくてよかったかな・・・ とも思います
政治家をバカにしているんではないですが
こういうサダメだったのかなぁ、とか そんな感じです

=====

政治家云々もありますが 政治という広い広い 《場》 が
人間のすべてを吸い込んでいくのだと思います

おそらくは 民主革命以降の いわゆる 《近代政治》の
際立った特徴であるように 思われます
かつては 今のような意味での 《政治》 はないわけですから

=====

一方、 宗教もまた いろんなものを吸い込む 《場》 ですね
あるいは いろんなものを増幅し 水路づけ
表現形態をあたえ 意義と価値まであたえる
そんな 《場》 ですね

いわゆる 《近代社会》 においては それがまた 独特の
ツイストを受けているように思われます

つまり (いつも申し上げる) 《世俗的なもの》
――それは要するに、 啓蒙主義的なもの なのですが――
から はじき出されたものを とくに強く
吸い込み 増幅する 《場》 になっていますね

つまり、 《近代的なもの》 への違和感や反対が
お気軽・お手軽に 《宗教》 なるものへと 合流する、と

=====

僕らが体に染みこませている 《宗教》 とは このような
《近代的なもの》 としての 《宗教》 であり
そうでない 《宗教そのもの》 《ホントウの宗教》 には
(めったなことでは) 出会えない――
これは おそらく 物質的な真理です

 -《本当の宗教》はどこにあるのか-

 この部分で先生と私は食い違っているのかなぁと思います。

 出光佐三は子どもの頃一目ぼれした千厓の『指月布袋画賛』を買ってもらったのがきっかけとなり、絵画の収集を始めた。
 ある日初めて自分の買ってもらった絵の作者千厓が、普門円通禅師という高名な宗教家であったことを知る。

 後年ジョルジョ・ルオーの絵画に出会った時、そこに描かれたキリストに千厓の絵を見たという。そして、その絵画のコレクションを一生続けることになる。
 ジョルジョ・ルオーは、《内なる神》をキャンバス描くことに生涯を費やした画家である。あまりにも自分の内面に入り込んで描くため、自分の絵を他人に見せる時、なにより恥ずかしさを感じたという。

 私は千厓やジョルジョ・ルオーが描こうとしたもの、そうして出光がその絵の中に見たものが、《本当の宗教》から引き出されたものなのではないかと、今は思っているのです。

====

 ひとがなぜ《カネ》に固執した資本主義に魅了されてしまうのか。そうして、そのことによって《政治》や《宗教》が変質されてしまうのはなぜか。

 「人は、怒るとまるで攻撃しないではすまないかのようになり、手に触れられる適当なものがないと、関係のないものまで八つ当たりして壊してしまう。これはいったいどうしてなのだろうか。私たちの感情は、まるで液体をビンに溜めるみたいに、心の中に溜まってくるように思える。昔の科学者の中には、このように溜まる量を考え、それが胆汁や血液に似た物質だと考えた人たちもいた。しかしいまでは、このような考え方を信じている人はいない。それなのに私たちは、いまでもよく、心にエネルギーを持っているとか、心に勢いがあるとか、あるいは心が消耗したり枯渇してしまう、といった言い方をする。心の中には〈量的なもの〉が本当にあるだろうか。もしそうなら、そうした量的なものは、どのように作られたり、貯蔵されたり、また、生まれてきたり、消費されたりするのだろうか。さらに、そうした量的なものと、技術的な本に出ているいろいろな量の大きさとは、どのような関係にあるのだろうか。その答えは〈エネルギー〉や〈力〉のような言葉は、ふだん心について考えるときにはあまり正確には使われない、という点にある。こうした言葉は、生命力のようなものについての常識的な考え方を指すときには、いまでも、数世紀前の意味と同じ意味に使われている。数世紀前には、〈エネルギー〉は行為や表現の活発さを指し、〈力〉は誓約の拘束力や軍隊の戦力を指していたのである。
 現代の科学者たちは、昔よりも狭く、もっと正確な意味でエネルギーという概念を用い、燃料が切れるとエンジンが止まる理由をもっときちんと説明する。また、それだけでなく、私たちの体に対してもエネルギーの概念を適用する。

 -中略-

  機械のはたらきにも、脳のはたらきにも、ふつうのエネルギーが
 必要である。しかし、それ以外の、心のエネルギーは必要でない。
 機械や脳が目標に向かってはたらくためには、因果性があれば十
 分である。

 しかし、上位のプロセスが燃料やエネルギーのような特別な量を必要としないなら、そういうものが必要なように思えてしまうのはなぜだろうか。なぜ、こんなにもたくさんの人たちが、自分たちの〈心のエネルギー〉や〈感情のエネルギー〉のレベルについて、考えたりしゃべったりするのだろうか。また、退屈でうんざりするような仕事をしていると、〈ぐったりする〉ように感じるのはなぜだろうか。それは、私たちはみな、このようなことをきわめて多く経験しているので、自分たちの心がたくさんの種類の〈心にある量的なもの〉に依存している、と考えざるを得ないからなのである。」
 (マーヴィン・ミンスキー 『心の社会』 pp462~463)

 フレーム理論からヒントを得ようとゲットしたこの本は、私の一生ものになりそうです。
 読み進めると、目の前に、頭の中にどんどんイメージが膨らみます。

 でも、まとめるのは大変ですよね。

yokosawa さん>

いいえ、yokosawa さん!
宗教論で いつもは奥歯にモノがはさまったようなことしか言わない僕ですが
ここだけは はっきり言わせてください!

-《本当の宗教》はどこにあるのか-
この点について 僕と yokosawa さんは完全に一致しています!

違いは 「宗教」というコトバ(!)に 僕がやや過剰な注意をはらっている点です

否定的な側面から 申し上げます。 すなわち
このコトバこそが 近代人の決定的な不自由のひとつなのだ、と

ムシューキョーの立場で宗教学をやっている僕などには
特定信心をおもちの方から いつも同型の批判や揶揄や苦笑が投げかけられます
―― でも あなたは 信心をおもちじゃないですからね

「光」や「聖なる学問」 「体験」について これだけ語っている僕も
それは 「信心」ではないので、 つまり特定教団や 特定伝統の枠内にないので
低価値もしくは無価値、 そしてしばしば危険(「魔境」の可能性)ですらある
というわけです

もちろん 僕は 「光」や「聖なる学問」や「体験」を 
中沢先生のようには 無邪気に肯定できません
そこには 片づけるべき問題が 山のようにあるからです
実際、 これまでの宗教学は そこをやってこなかったので
僕は もう一度 そこをたどりなおしているのです

「宗教」というコトバは 僕のこうした試みにとって 足かせでもありますが
(だから 中沢先生は「宗教学者廃業宣言」を出した)
同時に、 拡散する一方のベクトルを領導してくれる ディシプリンでもあります

=====

『心の社会』 以前から気になってました

これは 読んでみますね。 ご紹介ありがとうございました

 まずは訂正から
 千厓 → 仙厓
 ジョルジョ・ルオー → ジョルジュ・ルオー

 うる覚えでがつがつ書くと必ず間違えます。ほんとすいません。
 出光美術館で必ず見られます。

 ====

 《本当の宗教》には出会えないのか。

 子どもの中にそれを見てしまう私には、考えすぎると違うところに行ってしまう気がしてしまうのです。
 狂気の中に純粋があるのか、純粋の中に狂気があるのか、という違いではないかと思います。

 『何が「歴史」の体制であり何がそうでないのか。「歴史」の体制は所与の現実ではない。直接観察可能なわけでもないし、同時代人の名鑑に書き込まれているわけでもなく、歴史家によって構築されるものである。それはかつてのような決定的審級といっしょくたにされるべきではない。つまり、あたかも空から降ってきたかのように、地面から湧いてきたかのように存在する「歴史」の体制に別の体制が機械的に続くのではない。「歴史」の体制は(ポシュエやコンドルセの意味における)時代とは一致せず、文明のように不確かで漠然とした広がりには全く似ても似つかない。それは、それがもつ発見に寄与する能力によって有効となる人工物(アーティファクト)である。それは、観念、形式的カテゴリーのいずれかであり、ヴェーバーの「理念型」と同列のものである。過去・未来・現在のカテゴリーのいずれかが支配的になるに従って、そこから生じてくる時間秩序は、明らかに同じではあり得ないだろう。そこから、ある種の振る舞い、ある種の行動、ある種の歴史記述の形式が別のものよりも、可能になったり、より局面をとらえるものになったり、もしくはズレをはらんだり、アクチュアルなものでなかったり、お誂えむきのものになったりするのである。時間経験のよりよい理解のための(内容なき)カテゴリーとして、この「歴史」の体制という概念は、ヨーロッパもしくは西洋世界だけに限られるものではない。逆に、それは比較学の手段としてうってつけなのである。それは構築されたものであるから。そのことを私は来るべき仕事によって示したいと思う。』
(フランソワ・アルトーグ『「歴史」の体制 現在主義と時間経過』pp7~8)

 歴史と時間について考えたいと思って手をつけた本ですが、歴史学者の哲学もすごくおもしろいと感じています。日本では多数の学問を渡り歩いてそれぞれに認められるという土壌がないので、理解されにくいのかなとも思いますが、それぞれの分野にいる人たちが、例えば哲学について自由に語れて認められるような場が提供されるなら、いろいろ言われてはいますが、大学も悪くないと思います。(その意味で言えば家政学という学問は実はとても面白いです。)

 先生のなさろうとしているインド研究もこんな感じですかね。
 難しいことも多そうですが、学問の将来性を見越した意味のある挑戦だと思います。
 がんばってください。

yokosawa さん>

《宗教》 も 《世俗》 もないところでの 「シューキョーのホント」――
とにかくコトバがないんですが、ともかく そういうもの

中沢先生は これを結構無条件に称揚するわけですが
オウムの一件で明らかになったように 何かが必要です
その何かが何か 僕にはまだわからないのですが
中沢先生が 『イカの哲学』 でやった バタイユ批判では
全然足りないように思います

まさに 狂気と純粋の関係―― これですね!

=====

自分の研究は とにかくコツコツやるしかありません

視野に入ってきてしまったものが あまりにも巨大すぎましてですね
おそらく死ぬまでに完成することはありません

次の世代に残せるものを ひとつでもふたつでも作る――
こんなもんです

今後とも 応援 よろしくお願いいたします (=゚ω゚)ノ o(_ _)oペコッ

 「啓蒙(Enlightenment)とは言葉通り、世界を光(light)でくまなく照らしだす精神である。ニュートンが自然光を7色に分光した分解・分析の快さを言葉が真似ようとして、近代文学がはじまる。」
 (高山宏 『近代文化史入門 超英文学講義』 p2)

 「二十世紀に入ってすぐ、シェイクスピアの受容はダイナミックに変化したのである。
 考えてみると、シェイクスピアは死後三百年にわたって冷遇され続けた。今我々の知るシェイクスピアは二十世紀がうんだものなのだ。本書前半の立役者たる王立協会(ロイヤル・ソサエティ)が一六六〇年代にロンドンにできたために、いわば古典的な「イギリス」がそこで抹殺されてしまったこととも関係がある。
 歴史的にはピューリタン(清教徒)が出てきて(清教徒革命 一六四九)、ピューリタニズム以前のあらゆるものが排斥される。怪獣を売りにした『ベオウルフ』(八世紀頃)から晦渋が売りのシェイクスピア劇やジョン・ダンの詩まで、アングロサクソン的といってよい伝統が、そこでいったん滅ぶ。」
 ( 同 p35 )

 宗教が、政治が、場に巻き込まれ場を吸収し変質する。
 これは自然におこった出来事ではなく、間違いなく人間が起こしたことです。必要に応じて。
 シュウキョーの生まれた場所から宗教を取り出して利用する。
 何のためなのかは、『心の社会』なんかを読んでみて、意外に単純なのかなぁと思ったりしています。

 一方で、シュウキョーについて語るのは単純ではありません。
それは、人の本質に関わることだからです。光に照らして分析したところで、影になって出てくるだけですね。

 でも知りたい気持ちは収まらない。

 政治家にならなくて良かったかどうかは分かりませんが、どちらにせよ大変な道のりですね (笑)

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/137899/46746612

この記事へのトラックバック一覧です: 小沢一郎の一神教批判:

« LOS NINOS DE FUERA @ LUCIANO | トップページ | 【アニメ】 金光さま »

サイト内検索
ココログ最強検索 by 暴想

Twitter


読書メーター

  • mittskoの今読んでる本
  • mittskoの最近読んだ本

鑑賞メーター

  • 最近観たビデオ
    mittskoの最近観たビデオ
2016年7月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

イーココロ

無料ブログはココログ