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2009年12月の記事

2009年12月31日 (木)

年末のご挨拶

皆さま

本年も 残すところ あと僅かとなりました

この1年 皆さま、 どうもありがとうございました

私事ではありますが、 やっと本調子を取り戻しつつある

そんな1年となりました

長いこと ご迷惑やご心配をおかけしましたが

少しずつ 光と出口が見えてきているように感じております

ご恩返しや ささやかな貢献を あらためてして参りたい

年末にあたり そうした思いを強くしております

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このブログについても いろいろな思いがございます

これを通じて、 全くあらたに知己を頂いた方もいらっしゃいました

関係を新たに、 また強くさせていただいた方もいらっしゃいました

大変うれしく思っております

いろいろな課題を 自分のなかで掲げて再開した本ブログ

とりあえず 4月12日まで (再開から365日間)

書きつづけていこうと思っております

来年もどうぞ よろしくお願いいたします

本当に、 本当に 1年間 ありがとうございました m(_ _)m

ソーカル事件のときに

前便 「宮崎駿特有の幼児性の昇華の仕方」 より つづく

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  • 日本的想像力と成熟 中沢新一インタビュー
    (聞き手・ 東浩紀 + 白井聡)

気になったところを 部分的に書き抜きしています

まだまだあるんです、 実は

すでにお読みの方には申し訳ないんですが

しばらくお付き合いくださいませ m(_ _)m

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以下引用 (40-41頁)

中沢  ソーカル事件のときに、 僕自身はいろいろ反省しました。 つまり、 自分の科学的用語の使い方は、 ミッシェル・セールの影響が非常に強かったと思うんですけれども、 あのレベルじゃだめだということを強く感じたんですよ。 同時期に僕は田邊元についての研究を始めていて、 それがひとつの巻き返し方でした。 田邊元は、 数学的思考法を使いながら日本哲学をやっていた人ですが、 これを解剖してやろうとおもったわけです。 そうすると、 どこが自分の欠点だったのかというのが見えてくるんじゃないかと。 そこで僕はもう一度、 岩波の数学講座を全部読み直しました。 ですから、 現代数学に関しては、 大学院生ぐらいのレベルには理解が到達していますし、 その意味で、 科学手な思考方法、 用語を用いることにもう一度信頼性を取り戻せるための努力は、 僕の可能な限りの文体でやろうとは思っていますけれども、 これは難しいですね。 日本語というものの限界性がありますから、 その難しさをいつも感じています。

引用おわり

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「ソーカル事件のときに、 僕自身は…」 と中沢先生はおっしゃる

これは 本当にちゃんとした “総括” だなぁ、 と僕は思う

「オウム事件のときに、 僕自身は…」 という一段落を読みたい

浅田彰先生 との対談での発言は、 僕には

「総括」 とは 認めることができないのです…

この件については これ以上述べる必要はないでしょう

あらためて

前々便 「中沢新一インタビュー」

ご参照ください

<つづく>

2009年12月30日 (水)

《神秘のインド》 研究会 研究会①の記録

去る 2009年12月20日

新学術領域研究 「ユーラシア地域大国の比較研究」

第6班 「地域大国の文化的求心力と遠心力」

との共催で

《神秘のインド》 研究会 第1回研究会 を開催しました

プログラムは下記参照

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丸一日の研究会

大変興味深い発表と議論がおこなわれました

その全体の記録を 本来ならここで公開したいところですが

諸々の制約で なかなかかないません

とりあえず 当日発表者の一人であったコンドウの資料を

公開させていただきます

当日の配布資料に 口頭発表部分を少々つけたし

整除したものになります

ご笑覧くださいませ

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続きを読む "《神秘のインド》 研究会 研究会①の記録" »

2009年12月29日 (火)

古代末期禁欲論とエヴァグリオス

2年前 急逝した 鈴木さんの本が出た

  • 鈴木順 『古代末期禁欲論とエヴァグリオス』 (リトン, 2009年12月)

本記事執筆時点で アマゾンではまだ取扱がない

しかし、 紀伊國屋では 買える 5250円

http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4863760094.html

コダイマッキキンヨクロントエヴァグリオス
古代末期禁欲論とエヴァグリオス
鈴木 順【著】
リトン (2009/12/15 出版

406p / 21cm / A5判
ISBN: 9784863760097
NDC分類: 192
価格: ¥5,250 (税込)
※ 在庫がありません。お取り寄せになります。
(品切絶版等により入手できない場合もあります。予めご了承願います。)
※ この商品は、国内送料無料でお届けします。

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鈴木さん追悼文集に 拙い詩を寄せたということで

私にも お母さまより 献本をいただいた

鈴木知さま>

大変ご無沙汰いたしております。 この度は、 順さんの著作の刊行、 まことにおめでとうございます。 そして、 わざわざご献本を賜りまして、 恐縮至極です。 またご挨拶にうかがわせていただきますので、 その節にはどうぞよろしくお願いいたします

指導教官の 大貫隆先生 が編集を担当なさり

出村みや子先生 や 鶴岡賀雄先生

(そして その他お名前のあがっていない方がたが)

惜しみない協力をなさり 完成した本だ

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大貫先生による 「まえがき」 から

内容の紹介にあたる個所を引用させていただきます

              ◇

「2007年秋の段階で構想していた博士論文の目次 (案)」 を

掲げたうえで (7-9頁)、 大貫先生は、 鈴木さんのアイディアを

柱となる 「大きく三つの論点」 に 推測整理なさっている (9頁)

  1. ソフィア、 グノーシス、 ノエーシスをめぐるキリスト教徒ギリシア哲学の関係
  2. 禁欲論と情念論
  3. 教会政治の中でのエヴァグリオスの立ち位置

大貫先生のコメント (同頁)

これは私自身にとっても少なからず未知の領域であり、 鈴木君がどのような結論にたどり着くべきなのか、 自信をもって示すことは、 正直なところ、 私の手には余ることであった。 鈴木君自身の脳裏にどのようなテーゼが去来していたのかも、 残念ながら序論と終章が未執筆であるために、 知ることができない。 しかし、 私としては、 必ずや同士同学の研究者の方々が本書に示された鈴木君の論点と着想を引き継いで、 それぞれの今後の研究の中で発展させてくださることを信じて疑わない

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僕には この分野を精確に評価することは なおできない

ただ、 鈴木さんからは 論文が書きあがるたびに

いつも抜き刷りをいただいていた

そして、 それを必ず読むようにしていた

鈴木さん自身 ご自分の研究について

まだまだ不満足な部分がたくさんあるだろう

僕の知るかぎり、 彼は 死の直前になって

やっと 書きたいことが書けるようになりつつあった

という感じだった

筆致もずいぶん軽やかになり 読みやすくなっていた

残念ながら 完成型とはいかないけれど、 何はともあれ

こうしてご自分の論考が公刊されることを

きっと鈴木さんは喜んでいる 僕はそう確信する

誇りをもって取り組んだ 彼の作品である!

2009年12月28日 (月)

クリスマスの約束 2009

先日 (2009年12月25日 23:59 ~)

TBS系列で放送された

ご覧になったでしょうか

とても素晴らしい番組でした

テレビっ子の僕でも めったにお目にかかれない

後世まで語りつがれることになるだろう

特別な娯楽番組だったんじゃないでしょうか

いろんな方が感動して ブログ記事を書いておられる

放送終了から 46時間で 17000件強ですからね

相当すごい反響 と言ってよいと思います

【メモ】

個人的に目についた記事を ちょっとだけ列挙しておきます

感想は その大量の記事たちにお任せするとして

僕としては 個人的な趣味や感情を いったん脇において

宗教学者の立場から コメントを残しておきたいと思います

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(1)

あそこで生み出された “体験” は 何なんでしょうか?

番組のスタッフや出演者、 会場の聴衆もそうでしょうし

テレビの前の視聴者もそうでしょう

ある特徴的な時間が たしかにそこに “生まれていた”

その時間と体験… 非日常の時空間と生、 力…

それらは 《宗教》 と どのような関係にあるんでしょうか?

これはつまり このブログでは

あるいは 一部

などで 《宗教と芸術》 の問題として 語ってきたことです

上でも紹介したような

たくさんのブログ記事 をご覧になっていただき

あらためて 《芸術と宗教》 がとてもとても近いところ

いやさ、 ほとんど同じ (と言ってもよいだろう) ところから

生え出ていることを 確認していただけたら と思うのです

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(2)

最後の30分間の メインスポンサーは なぜあれに?

あの感動のシーンから 直接につながるCMが なぜあれに?

歌を心から愛するとお見受けするプロデューサーは なぜあれに?

まさか 納得のうえ、 とはとても思えないのに、 なぜあれに?

TBSだからでしょうか?

個人的なことからでしょうか?

あれもまた 今の日本の 《宗教》 を 皮肉な形で浮き彫りにしました

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時間があれば これらの点を

もう少し細かく分析しながら 記事にできたらと思っています

<願わくば つづく>

ノア またまたケガ人

「ノア またケガ人」 というエントリを書いたと思ったら

今度は 小橋選手と 鈴木選手

鈴木鼓太郎が靱帯断裂、 長期欠場へ ~ 小橋建太も欠場

鈴木選手にいたっては

ひざ前十字靱帯断裂の重症

丸藤、 KENTA両選手と まったく同じとは・・・

NOAHの選手たちには 見えないところで

いろいろな無理やプレッシャーがかかっているんだろうな

会社として こういう時こそ がんばってほしい!

若手の奮起を 心から期待します!

がんばれ!

2009年12月27日 (日)

宮崎駿特有の幼児性の昇華の仕方

前便 「中沢新一インタビュー」 より つづく

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  • 日本的想像力と成熟 中沢新一インタビュー
    (聞き手・ 東浩紀 + 白井聡)

気になったところを 部分的に書き抜きしています

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以下引用 (20-21頁)

  だからネズミが選ばれた。

中沢  ええ。 その一方で父性というものがどういう表現を与えられたかというと、 ドナルドダックの奇矯な行動が、 当時のアメリカの父性がたどろうとしていたひとつの表現ではないかと思います。 大恐慌を挟んで、 職をなくした父親たちのヒステリーと、 ドナルドダックのヒステリーとは結びついているんだろうなと僕は見ていたんですね。
  日本の場合、 アメリカ的幼児性と対峙させるほどのものというと、 宮崎作品になると思います。 『ポニョ』 がアメリカ人にどの程度受け入れられていくのか、 非常に興味深く見ていたんですけれども、 ストレートに受け入れられていたみたいですね。 あれはピクサーの 『ファインディング・ニモ』 などとの連続性で、 子供たちが見ているように感じたんですけれども。 ただ、 宮崎さんの幼児性というのは、 森に深い関わりがある。 日本で森の中の精霊と言われている存在は、 イギリス人にとっての妖精とは少し違います。 日本の精霊は、 折口さんが言うデーモンやスピリットとも結びついている何かなんですね。 宮崎さんの場合は、 彼特有の幼児性の昇華の仕方の根底に、 森に住む精霊というのが考えられていて、 その精霊に対して日本人はそれほどネガティヴな思考をしてこなかったということがあると思います。

  『対称性人類学』 (講談社選書メチエ) の図式に当てはめると、 アメリカ的幼児性は一神教の後の幼児性で、 日本の幼児性は一神教以前の 「スピリット」 の幼児性であると、 そういうお話でしょうか。

中沢  そういうことになりますね。 ですから、 同じ幼児性表現といっても、 ウォルト・ディズニーとジブリには微妙な違いが存在していて、 今日ではむしろジブリの表現のほうがグローバルになりつつある。 一神教の廃墟の後に生まれたパラサイト・ミッキーマウスの表現というのは、 むしろ背後に退けられていて、 ウォルト・ディズニーも、 ピクサーなどが中心になってきますから、 『ニモ』 から 『ウォーリー』 に至る流れを見てみると、 どうもこれはジブリのほうに近づいているなというのがはっきり見えますね。

  なるほど、 それはおっしゃるとおりですね。

引用おわり

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<つづく>

イーココロ! 73円

「イーココロ! クリスマス強化週間」

ご協力ありがとうございました さんくす♪(o ̄∇ ̄)/

ちょうど1週間で 73円!

引きつづき 皆さまのクリックを お願いいたします

あらためて ありがとうございました happy01 paper

2009年12月26日 (土)

中沢新一インタビュー

前便 「『思想地図』 Vol. 4 想像力」 より つづく

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今回の 『思想地図』 で 僕にとって大きかったのは

中沢新一先生 のインタビューが 巻頭に載ったこと

  • 日本的想像力と成熟 中沢新一インタビュー
    (聞き手・ 東浩紀 + 白井聡)

「連載 中沢新一論」 をやってきた僕としては

わが意を得たり といったところだ

ただ オウム問題の 「総括」 については

本誌編集サイドと 僕とは ちょっと意見が違うようだ

  • 中川大地 「一〇年代にむけて 中沢新一を読むためのブックガイド」 (44-49頁) 参照

中沢先生はまだ その 「総括」 はおこなっていない

と 僕は思う

例によって 中沢先生の語りはすさまじく

簡単な要約や紹介を ゆるしてはくれません

掛け合いのなかで 思わぬ方向からの切り込みが

ズガッ ズガッ ズガッ と たて続けにやってきますから

あの東さんですら 押され気味という印象すらあります

そうしたインタビューでございますから

僕なりに気になったフレーズを 書き抜きすることで

お茶を濁させていただきます あしからず (=゚ω゚)ノ o(_ _)oペコッ

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以下引用 (18-19頁)

  もう少しこだわらせてください。 いま 「日本的であること」 のイメージは、 大きく二つに割れていると思います。 伝統芸能とクール・ジャパン。 それがいまの文脈で言えば、 折口信夫と村上隆の差異に重なっている。 日本的想像力のグローバルな力といったときに、 その中心は村上隆的な幼児性なのか、 それとも折口信夫的な神話性なのか。

中沢  折口信夫も一種の幼児性なんですよ。 これは日本思想の構造を見ているとわかるんですけれども、 折口は思想構造的に柳田國男と対立しているんですね。 柳田國男は大人なんです。

  近代的な市民ですね。

中沢  柳田さんは、 神様というものの考え方について、 とても大人びた考え方をしている。 これに対して折口さんの神は、 幼児性の神というようなもので、 これは両方正しいし、 両方いるわけです。 折口さんの神様は不定形なもので、 どろどろしているものとか、 先ほど言ったトマトケチャップに近い粘液性を持っているものですね。 それから、 イメージの原型に洞窟のようなものがありますから、 洞窟を通して、 子宮のようなものについての潜在的なイメージの集合性がある。 ですから、 折口さんはある種の幼児性と言っていいんじゃないかと僕は思いますけど。

引用おわり

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<つづく>

2009年12月25日 (金)

イーココロ クリスマス強化週間

good 右サイドバーの 「イーココロ!」

以前もさせていただきましたが 今回は

クリスマス birthday dollar bell  ということで

強化週間 第二段とさせていただきたくお願いいたします

ワンクリック ツークリック いやさ テンクリックをば

よろしくお願いいたします (=゚ω゚)ノ o(_ _)oペコッ

ポチッとな catface good

『思想地図』 Vol. 4 想像力

アマゾンのレビューで

尊敬すべき書評家 ソコツさん が 絶賛していたので

あわてて購入し 読んでみた

なるほど たしかに面白い!

言いたいことは たくさんあるけれど

なんといっても “熱” で読ませる雑誌だ!

ちょっと読み始めたら 全頁通読してしまった

こういう読書経験は なかなかない

閑話休題…

『宗教と現代がわかる本』 にも そういう熱があったが

最新号 2009 (僕自身も寄稿している) からは

それがちょっと失われていて とっても!残念!

あのムチャクチャ感 もどってきてほしいなぁ…

『宗教と現代がわかる本 2009』 については

ご参照ください

さて 『思想地図』 Vol. 4 の話にもどります

前号 vol. 3 「アーキテクチャ」 と比べて

(僕はそれしか読んでいない。 Vols. 1 & 2 は未読)

格段に読みやすくなっている、 というのが第一印象

いわゆるゼロ年代論壇をフォローしてきたわけでもない

そんな僕にも この集団が何を言いたいのか やっと見えてきた

その意味で とてもありがたい一冊だった (勉強になった)

そして、 その言いたいことが なかなか的を射ていることも

やっと分かってきたのでした

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いくつか気づいたことをメモしておきます

(1)

座談会やインタビューが 全部 “読めた”

主旨が明確で まとめがなされているので

安心して 活字を追うことができました

ボカーンとはじけているのもいいですね。 いいんですが

まとまりがあるのも いいものだなぁ、 と

あらためて思いました

(2)

宮台真司先生と 東浩紀さんの対談

父として考える

僕には これが一番おもしろかった (371-400頁)

電車のなかで 思わずニヤニヤしてしまった

ここに示されている思考の線があるなら

東さんの周りに出来上がっている “論壇” も

多少なりと 安心して着いていけるなぁ、 と

僕が偉そうに言えるものでもありませんが

すいません (=゚ω゚)ノ o(_ _)oペコッ

(3)

ビックリするぐらい! 宗教論がない!

いやはや… もぉ 「宗教」 という切り口は

思索のための強度がないのかなぁ、 と

まるで他人事のようですけど 悲しくなりました

まだまだいけると思うんですよね、 宗教論…

偉そうに こんなブログをやっている僕みたいな人間が

ちゃんとコトバにしていかないといけないなぁ、 と

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いくつか 気になったフレーズを

ちょいちょい書き抜きして 別便を作りたいと思います

お読みになった方、 ぜひ感想を聞かせてほしいです

よろしくお願いします m(_ _)m

2009年12月24日 (木)

近代社会とは何か

前便 「近代社会の核心」 より つづく

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  • 竹田青嗣 『人間の未来: ヘーゲル哲学と現代資本主義』 (ちくま新書, 筑摩書房, 2009年2月)

近代社会とは何か。 政治学的には、 これはきわめて多様なアイディアや理念の束として描けるし、 またさまざまな分類が可能だろう。 しかし、 哲学的には、 その理念上の本質を、 人類がはじめて構想した 「純粋ルールゲーム」 としての社会として定義することができる。 ちなみにつけ加えれば、 その根本原理は 「自由の相互承認」 の概念で示され、 政治的には 「人民主権原理」 あるいは 「一般意志原理」 の概念で表現される。

135頁。 傍点は太字で示した

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近代とは何か、 近代性とは何か――

竹田先生の論考は その一つの答えだ

しかも それは ある典型的な答えだ

つまり、 《伝統》 に対する 《近代》 という意味で!

だから 竹田先生の議論のなかで

宗教論は ほとんどまったく積極的に語られない

竹田先生にとって、 それは 「残滓」 であるからだ

国家と資本主義について 《語りなおす》 という使命に比すれば

宗教なんてものは 語るに値しない、 とでも言わんばかりに

《宗教=世俗的近代のアーキテクチャ》 なんてことを

くり返し語ってきた僕としては

【参照】

エントリ 「宗教=世俗的近代性」

エントリ 「宗教学の積極的解体」

竹田先生の議論から あらためて宗教論を構成しなおす

そういう作業もやっておかなくてはならないだろう

<つづく>

2009年12月23日 (水)

近代社会の核心

この連載では いろいろ論じてきた

残された課題は まだ多いのだけど

やっと見通しがたってきたように思う

いつか論文にできたらいいのだけど

とにかく勉強 勉強が先決だ、と思う

ということで…

このテーマで 最も参考になる4冊

というのが 僕のなかにはあるのだが

その中の一冊より、 書き抜きです

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  • 竹田青嗣 『人間の未来: ヘーゲル哲学と現代資本主義』 (ちくま新書, 筑摩書房, 2009年2月)

「近代国家の本質」 という節 (129-58頁) より

ちょっと長くなりますが お付き合いくださいませ

以下引用

 だが、 哲学の方法は、 あくまで、 多様な現象をできるだけ簡明なキーワードに置き換えて、 その核心をとらえようとする点にある。 そこで、 あえてひとことで 「近代社会」 の根本構想を表現するなら、 わたしとしてはそれを 「純粋ルールゲーム」 という概念で呼びたいと思う。

 つまり、「近代 (市民) 社会」 の核心的理念は何かと問えば、 社会から 「暴力原理」 を完全に排除し、 これを純粋な ルールゲーム に変える試みだった、 と答えるのがその本質をもっともよく表現する。 これを理解するために、 ふつうわれわれが集まって何かフェアなゲームを行なうとき、 そこにどのような原則をもち込んでいるかを考えてみよう。

 ① フェアなルールゲームの第一の前提は、 そこから 「暴力」 を完全に排除しておくことにある。 ゲームは、 取り決められたルールによってのみ行なわれるが、 これは、 暴力の排除が成立してはじめて可能となる。 ルールゲームに暴力 (実力) が入り込むやいなや、 そのれはフェアなゲームではなくなり、 普遍闘争状態になる。 ルールゲームにおける暴力の排除は、 これを制御する上位の 「実力」 の存在によってのみ確保される (ルールを確保するための正当性を認められた暴力を 「実力」 と呼んで、 闘争としての 「暴力」 と区別しよう)。

 ② 暴力の排除が成立してはじめてルールゲームの可能性の条件が整うが、 一定のルール (ペナルティルールを含む) にしたがって勝負・競争の成否を競うという全員の事前の 「合意」 が、 何らかのルールゲームを開始するための次の条件となる。 この はじめの合意 は、 ゲームそれ自体の 「正当性」 の根拠である (ルソーは、 この “事前の合意” の必然性を 「原始契約」 あるいは 「はじめの全会一致」 と呼んだ)。 暴力の排除と事前の合意が不備なまま一定のゲームが成立する場合もあるが、 ここではゲームの正当性に欠損があるので、 これを不完全なルールゲームと呼ぶことにしよう。

 ③ 人間は、 実際には体力、 出自、 容貌、 宗教、 人種、 言語、 等々に大きな “差異” がある。 しかしゲームにおいては、 それらの差異はすべて 捨象 され、 互いにただ対等な権利をもった一プレーヤーとして認めあう。 つまり、 「純粋ルールゲーム」 では、 すべてのプレーヤーはルールのもとに対等で、 特権や差別は認められない。 このことは、 ゲームの正当性の第二の本質的要件をなす。

 ④ ルールの決定や変更の権限は、 参加者全員が対等にもち、 そこにどんな特権も存在しない。

 ⑤ ルールに違反したものには、 つねに同じ原則でペナルティが科せられる。 担保された 「実力」 が、 このペナルティの執行を保障する。 ペナルティの執行のないところではルールの実効性は存在しない。

 ⑥ ルールの適用の判断、 さらにはペナルティの執行を含むゲームの運営・裁定について、 必要に応じて審判者の役割を果たすものがおかれる。 彼らは競争の利害について第三者の立場にたち、 プレーヤー全員のゲーム運営の意志 (一般意志) のフェアな調停者・執行者となる (したがって、 近代国家においてはこれが 「統治権限者」 の理念上の本質である)。

 わたしは、 このような仕方で規定された近代社会の理念的 「原理」 を、 「普遍ルール社会」 という概念で呼びたいと思う。

131-33頁。 傍点は太字で示した 。引用おわり

<つづく>

2009年12月22日 (火)

イギリス文学のなかのインド

  • サーラ・スレーリ 『修辞の政治学: 植民地インドの表象をめぐって』 (川端康雄・吉村玲子訳, 平凡社, 2000年9月)

「豊かで不思議なものへの飢えがなかったら、 西洋がインドを同化することは不可能である。 彼女 [インド] の値打ちと魅力は、 その妙なる姿態を飽くことなく丹念に研究し続ける者たちのためにある。 なぜなら、 彼女に対する彼らの愛情は、 偉業をなし、 きわめて魅力的な散文を作った、 想像力の絶えざる冒険であり、 生を豊かに暗示する、 希有で不可解なものへのあの盛んな切望だからである。 その名前そのものが、 〈大地の永遠の都市〉 の名を反響させ、 またその力を暗示してもいる。 われわれはそれをロマンスと呼ぶ」

25頁 (原注によれば、 これは Robert Sencourt, India in English Literature (London: Simpkin, Marshall, Hamilton and Kent, [1923]), pp. 456-57 からの引用。 再引用者 未見)

一文目の 「不思議なもの」 は “ミステリアス” だろうか?

スレーリの引用を原著で (つまり孫引きで) 調べてみると

"the strange" (見知らぬもの) だった

「妙なる」 「希有で不可解」 などの形容詞は もちろん

《神秘のインド》 を 強く強く連想させる

これも孫引きで調べてみたら

"subtle" "rare and intangible" だった

さらに 「生」 (life) や 「力」 (power) は 《生の哲学》 を

もちろん 「ロマンス」 (Romance) は 《浪漫主義》 を

そのまま表しているとみて 間違いなかろう

このあたりは 相当いっしょくたになっているのだ!

【メモ】  当該個所の孫引き (p. 11)

"without [a] hunger for the rich and strange, it is impossible for the West to assimilate lndia. She reserves her value and her fascinations to those who never weary in their attentive study of her subtle lineaments, because their love for her is that restless adventure of imagination, that active longing for what is rare and intangible in its rich hint of life, which has made deeds, and made the most absorbing prose. Its very name echoes the name, as it suggests the power, of Earth's Eternal City. We know it as Romance."

2009年12月21日 (月)

西洋史記述と《宗教/世俗の二分法》

西洋史の本を読んでいると、 その記述のなかで

《宗教/世俗の二分法》 の納まりがいいなぁ、 と

そういう感想を 禁じえない

日本とかインドとかは やっぱり 簡単じゃない

イスラーム圏も もちろんそうだろう

《宗教/世俗の二分法》 を批判して 組みなおして

説明して コトバを練って・・・ そうしてやっと

現地の状況を なんとか記述できるようになる

現地のコトバをそのまま使ってもいいのだが

それがまた 説明を要する、 つまり

僕らが慣れ親しんだ 既存の理解枠組みに合わない

そういうややこしさを 嫌というほど 経験してきたから

西洋史と宗教学は 本当に 相性がいいんではないかなぁ

と つまり

宗教概念はキリスト教と 本当に 相性がいいんだよなぁ

と 素朴に思ってしまう

(もちろん 西洋とかキリスト教とか 簡単には言えない)

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  • 八塚春児 『十字軍という聖戦: キリスト教世界の解放のための戦い』 (NHKブックス, 日本放送出版協会, 2008年2月)

1095年11月、 フランドル宛の教皇の手紙から

一節を 翻訳のうえ 書きぬいた直後

著者 八塚先生は 次のように解説を加える

ここで 「指導者」 と訳したもとの言葉は dux で、 諸侯の場合は 「公」 と訳されるものである。 したがって、 世俗的な意味で十字軍全体の総指揮官の意味で用いられていると解釈することもできる。 しかし、 それに続けて具体的に述べられるのは、 「彼の命令にあたかも我らの命令の如く従い、 …… 彼の解くことやつなぐことに全く服従するように」 ということである。 「解くことやつなぐこと」 とは、 いわゆる 「鍵の権」 というもので、 キリストからペトロに与えられた天国の鍵を教皇が相伝しており、 それによって人々の来世を左右できる、 いわば教皇権を象徴する権能である。 十字軍士が服従しなければならないのがそれであるとすると、 アデマールの権限は霊的な側面に限定されているようにも見える

52頁: 「アデマール」 とは ル・ピュイ司教のこと

ここで 「世俗的」 の対語は 「霊的」 である

こうした 《世俗/霊の二分法》 において

《世俗的なもの》 が何を指すのか 具体的な説明はない

一方、 《霊的なもの》 とは 「鍵の権」、 すなわち

「人々の来世を左右できる」 教皇の 「権能」 「権限」 を指す

どこまでが 11世紀西欧の用語法なのかはわからないが

この点について 八塚先生は とくに説明を要する、 とは

考えてらっしゃらないようだ

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八塚先生は つづけて 次のように書く

古い時代にはアデマールの役割を高く評価する研究者が多かった。 つまりアデマールは、 十字軍の世俗的な指揮権をも委ねられた戦う司教として描かれていた。 しかし、 近年になるにつれ、 アデマールの役割の評価は軽くなる傾向にある。 十字軍の実際の過程において、 そのようなアデマール像は実証できず、 アデマールの仕事で確実なものは、 祈祷、 プロセッション、 幻視調査などの宗教業務が大半であったと主張されている

53頁: 「祈祷」 に付された 「きとう」 のルビは省略

ここで 《世俗的》 の対語は 接頭辞 《宗教》 である

例によって 《世俗的なもの》 とは何か、 説明はない

一方、 司教の 「宗教業務」 は 具体例が示されている

すなわち、 「祈祷、 プロセッション、 幻視調査など」 である

ここでの 《世俗/宗教の二分法》 が 11世紀のものなのか

八塚先生のものなのか、 説明はない

【注】

もちろんこれは! 叙任権闘争、 ヴォルムス条約における

スピリトゥアーリア と テンポラーリア の二分

教皇権 と 皇帝権 の二分 に淵源する!

淵源しつつ 近代パラダイムの構築過程で

また独自の発展をして 21世紀初頭の日本にまで

こうして辿り着いた、 そんな観念=制度=理解=用語法

なのであります!

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現代日本語による西洋キリスト教世界の歴史記述においては

かように、 《宗教 (霊) /世俗の二分法》 が シックリくる

説明がなくても 多くの読者に了解をもってもらえる

くり返すが、 インドではそうはいかない・・・

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なお、 八塚先生が 《世俗的なもの》 の具体的な内実の一例を

示している個所が 別にある

これについては

前便 「神事・宗教・経済」

にてお知らせしたところです

2009年12月20日 (日)

インターネット時代の宗教 (2/2)

前便 「インターネット時代の宗教 (1/2)」 より つづく

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「現代インドの情報化と宗教」 という問題意識から

日本の事例をあつかった 先行研究を紹介しております

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  • 宗教社会学の会 (編) 『新世紀の宗教: 「聖なるもの」 の現代的諸相』 (創元社, 2002年11月)

の 第4章

  • 深水顕真 「インターネット時代の宗教」 (100-39頁)

この論文の結論部分の紹介が残っていました

深水先生は こんなことを書いておられます

本論の事例からは、 インターネットは成員間の対話を進めるメディアとして非常に有効に機能していることがわかる。 その背景には、 I 氏の事例にも現われている現代の宗教状況がある。 近代の宗教は、 教義からの縦軸の相互作用に重きをおいてきたために、 成員が求めるものとの間に乖離が生まれてきた。 一方、 現代においては、 個人はより分かりやすく、 自分の状況に適合した宗教を求めている。 そうした成員の要求に対して、 縦軸の相互作用は十分に機能していない。 そこで、体験談の共有というより身近な宗教の相互作用が起こってくる。 この横軸の相互作用を、 より広範に機能させるものとして、 インターネットは非常に有効なメディアであった

135頁

I 氏の事例からも、 また 「自分探しの仏教入門」 や 「「阿弥陀さまがごいっしょです」 の事例からも、 成員間の対話つまり横軸の相互作用を重視したウェブサイトが、 活発に活動していることがわかる。 このことから、 現代の宗教に求められる横軸の相互作用を、 いんが的確に提供し、 その要求をより拡大し機能させている。 インターネットの 「メディア/社会インターフェイス」 としての姿を見ることができる

135-6頁

加えて、 深水さんは 「危険性」 にも言及する

近代型の宗教教団では、 大きな拠りどころとなる教義が参照され、 規制することで、 その組織の向かう方向を明確に定めていた。 しかし、 対話のみの組織の場合、 この拠りどころがないがゆえに、 どこにでも向かってしまう可能性をはらんでいる。

136頁

こうして二つの傾向が明らかになった

深水さんは 次の一段落で 論考をしめる

あえて言うなら、 ポスト近代の宗教教団の姿は、 対話の場を提供することがその第一の役割となってくるだろう。 そして、 場を提供し、 語彙を与え、 ブランドを付与することで、 緩やかな方向性を与え、 暴走の危機を避けることが、 第二の役割となってくるといえる

136-7頁

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さて、 インドである

インドもやはり 同様の状況にある、 でいいか…?

この問いは 理論的に というよりも

現地調査の結果をもとに 証拠立てられた答えを要する

ということで、 しばらくインドにご無沙汰な僕が

あれやこれやと思考してみるのではなく

専門の先生方に 今後お聞きしていきたいと思います

2009年12月19日 (土)

芸術と宗教

前便 「詩はどこへ行ったのか (2/2)」 よりつづく

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図らずも連続投稿になっております

これまでの議論の流れを整理しますと――

  1. 村上春樹さん の 《小説=物語》 論から初めて
  2. 「文学と宗教」 という問題設定のために
  3. 谷川俊太郎さん の 《詩情》 論 を紹介して
  4. どうやら 「芸術と宗教」 というところまで来た

―― とまぁ、 こういう具合になっております

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こうなってくると、 もはや古典的なテーマである

  • エリアーデ 『象徴と芸術の宗教学』 (ダイアン・アポストロス=カッパドナ編, 奥山倫明訳, 作品社 , 2005年9月)

がすぐに思い浮かぶが

もちろん ショーペンハウエル まで 直結していくのである

ということで・・・

『松岡正剛の千夜千冊 遊蕩篇』

2006年12月8日付 「1164夜」 で

  • アルトゥール・ショーペンハウアー 『意志と表象としての世界』

をとり上げているのを 紹介します

http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1164.html

参照は、 西尾幹二訳 (全三巻, 2004年, 中央公論新社)

松岡さんは次のように書いています

 『意志と表象としての世界』 では、 第3巻が芸術的解脱の可能性に割り当てられている。 そこでは、 イデア、 美、 崇高、 自然、 天才、 かわいいもの、 建築、 音楽、 性格、 模倣などが議論され、 おそらくは真の芸術行為が 「共苦」 を媒介にした世界意志の発現として、 最も可能性に満ちたものだろうと結論づけるのだ。

 このショーペンハウアーの結論に狂喜したのは、 ニーチェだけではなかった。 ワーグナーこそ心酔した。 ワーグナーは詩人のゲオルグ・ヘルヴェークから 『意志と表象としての世界』 を見せられて強烈な感銘をうけ、 その後、 4回にわたって読み耽った。 のみならずショーペンハウアーその人を 『さまよえるオランダ人』 に招待し、 批評家が 『ニーベルンゲンの指輪』 はショーペンハウアーの真似事ではないかと皮肉ったときも、 むしろそれをこそ自分は実現したかったのだと言ってのけた。

さて、 「宗教と芸術」 というテーマは

現代日本人である私たちを どこへ連れて行くのでしょうか

<つづく>

2009年12月18日 (金)

インターネット時代の宗教 (1/2)

インドでも最近 インターネット上での宗教活動が活発だ

日本でそれに注目しているのは 三尾稔先生

とくに北西インドでのフィールドワークから

その実情を報告なさっている

インドで情報化が進み、 ヒンドゥー教もそれに対応している

なるほど新奇である

変化量も 決して小さいものではなさそうだ

なるほど その通りだ

で、 その現象は何を意味するのだろうか?

それが時代への対応であることは 言うまでもない

問題は、 それが表層的な変化なのか、 それとも

深いところでの揺れ動きの反映だったり

深いところを揺り動かす変化だったりするのか、 ということだろう

文化や宗教が ネットで どうなっているのか?

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僕としては この問いを 三尾先生はじめ

ネット環境に注目して 文化研究/宗教研究をなさっている方々に

ちょくちょくうかがっていきたい、 と思っています

そのための準備と言ってはなんですが

宗教社会学者による日本の事例研究をおさらいです

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  • 宗教社会学の会 (編) 『新世紀の宗教: 「聖なるもの」 の現代的諸相』 (創元社, 2002年11月)
  • 深水顕真 「第4章 インターネット時代の宗教」 (100-39頁)

深水先生は 「はじめに」 で 日本の事情を念頭に

今だからこそ、 インターネットと宗教の関係性について、 何が起ころうとしているのか、 冷静に分析を行なう必要があるのではないだろうか

101頁

と述べる。 さらに、 日米の先行研究を整理したうえで

インターネットというメディアも、 社会的なコンテクストの中で、 宗教を改変させる一要因とはなるが、 それのみが絶対的な力を持つものではない。 これまでの研究のように、 インターネットのメディア的特性のみをとり上げて、 それから宗教の近未来の姿を議論するのはバランスを失しているのではないだろうか。

<中略>

宗教には、 教祖、 信者、 教団、 教義、 さらにはそれらをとり囲む社会といった無数の要素が偏在し、 一つの文脈を形成している。 インターネットという新たなメディアも、 このコンテクストの一要素でしかない。 インターネットと宗教に関して今我々がなすべきことは、 単にメディアの新奇性のみを指摘し、 「インターネットから見た宗教」 を論ずることではない。 インターネットと宗教が結びつき活動する社会的なコンテクスト、 つまり 「宗教の中のインターネット」 を読み取ってゆくことが必要である。

103頁

で、 深水さんは 「コミュニケーション形態からの宗教モデル」

という節をあらたに立てて、 その冒頭 こう述べる

インターネットは、 宗教を含む社会的なコンテクストにおいて、 そのコミュニケーション (相互作用) に影響を与える。 つまり、 宗教の中のインターネットを議論するためには、 まず宗教をもう一度コミュニケーション (相互作用) の仕組みから捉えなおす必要がある。 それを土台として、 現代社会のコンテクストでのインターネットと宗教の関係について総合的に論じていきたい。

103-4頁

深水さんの実際の論考は

「宗教の相互作用モデル」 を立てたうえで (104-6頁)

インターネット利用者である日本人 I さん (60歳代 女性)

浄土真宗本願寺派の信徒でもある I さん が

「インターネットの宗教的要素に対して何を求めているのか」

具体的にみていく (107-29頁)

ここに 「メディア/社会インターフェイス」 論を接続し (129-35頁)

結論にいたる

<つづく>

【連絡】 宗教学演習 冬休みの宿題

宗教学演習 受講生の皆さんへ>

冬休みの宿題 3年生の方がたにだけ 課します

お休みした人もいましたので、 その要項を以下に書いておきます

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● 課題 ―― 「現時点でのあなたの卒論計画を 次の3点にまとめてください」

① (a) どの国の (b) どの時代を  とり上げるか

◆ 「国」 まで特定してみてください。 その際、 自分の興味ある 「地域」 と、 自分が使うことのできる 「言語」 が何か、 その二点を手掛かりに しぼり込んでみましょう

◆ 「時代」 というのは 百年以内を目指しましょう。 百年でも長すぎるぐらいですが、 現時点ではかまいません。 それよりも、 「古代」 とか 「中世」 とか 「近代」 とか、 そういうボンヤリした時代区分を まずは抜け出て、 具体的な年代を特定してみましょう

② テーマ

◆ 漠然とした、 大きなくくりでかまいません。 たとえば、 「芸術」 とか 「政治」 とか 「仏教」 とか、 その程度でいいです

③ 日本語参考文献 (本10冊、 論文3本)

◆ 実際に読破する必要はありません。 まずは 「文献表」 を作ってみるだけ、 ということです

◆ 《著者名 ・ 表題 ・ 出版社 (所収雑誌名) ・ 出版年》 をしっかり記録してください

◆ 論文の発見のためには、 図書館からつながっているデータベース CiNii を使ってみてください。 自分の関心のあるキーワードを まずは適当に打ち込んでみてください

● 形式 ―― 基本 自由。 ただし…

・ いわゆるレポート形式で

・ 上の3点ごとに章立てを変えてください

・ そこに 独自にメモなどを書き込むことは、 どうぞどんどんしてください

● 提出 ―― 1月8日の授業で

【連絡】 基礎演習 冬休みの宿題

基礎演習Ⅰ-2 受講生の皆さんへ>

冬休みの宿題について、 本日の授業で お伝えしました

お休みの人もいましたので、 その要項をこちらに書いておきます

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・ 課題 ―― 「次にあげる映画から一本を選び、鑑賞レポートを書いてください」

◆ 課題映画リスト (括弧内の数字は 教科書の映画番号)

  • 『君のためなら千回でも』 (20)
  • 『呉清源 極みの棋譜』 (26)
  • 『炎のランナー』 (65)
  • 『麦の穂をゆらす風』 (73)
    ==========
  • 授業内で他の受講生がとり上げた映画のいずれか

・ 教科書 ―― 井上 順孝 (編) 『映画で学ぶ現代宗教』 (弘文堂, 2009年5月)

・ 形式 ―― 授業内で皆さんが作成したレジュメと同要領。 「あらすじ紹介」 の部分を除いて、 2400字以上2800字を目安にすること (ただし、 厳密な字数制限ではありません)

・ 提出 ―― 1月14日の授業にて

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イーココロ 800円!

右サイドバーの 「イーココロ!」

800円 達成を確認しました

というか、 もう 800円を超えてました

前回 600円の達成が11月21日

200円を ほぼ一ヶ月で達成したわけですから

ちょっと 以前よりはペースダウンしてしまいました

しかし! とっても貴重な800円だと確信しています

今後とも お立ち寄りの際には

ワンクリック ツークリックをば お願いいたします m(_ _)m

ポチっとな bleah paper

2009年12月17日 (木)

詩はどこへ行ったのか (2/2)

前便 「詩はどこへ行ったのか (1/2)」 より つづく

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2009年11月25日付 朝日新聞 朝刊 「オピニオン」面

谷川俊太郎さん のインタビューから 引用をつづけます

【宣伝】  朝日新聞、 その他の購読申し込みは こちら から

谷川さんは 「詩情」 について語っておいででした

前便 より 中略をはさみまして 次のようにつづきます

(聞き手は 「鈴木繁」 さん。 ルビはすべて省略しました)

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<以下引用>

―― どうしてですか? 職業詩人として、 商品としての詩を書く、 と以前あえて言明されていたと思いますが……。

「確かに、 その部分でぼくは主に仕事している。 じゃあ、 それでいいのかとは思いますね。 子どもから老人にまで受ける百貨店的な詩を書いて、 自分はそれでやっていけるけれど、 他の詩人たち、 詩の世界全体を見渡した時に、 自分がとっている道が唯一だとは思いません。 詩は、 ミニマルな、 微小なエネルギーで、 個人に影響を与えていくものですからね。 権力や財力のようにマスを相手にするものじゃない。 ウィリアムズ・ブレイク (18~19世紀の英国の詩人) は、
 一粒の砂に 世界を見
 一輪の野の花に 天国を見る
 と書いています」

―― 谷川さんの詩の出発点である、 朝日さすニセアカシアに感じた自分対宇宙の感覚とつながる……。

「人間を宇宙内存在と社会内存在が重なっていると考えると分かりやすい。 生まれる時、 人は自然の一部。 宇宙内存在として生まれてきます。 成長するにつれ、 ことばを獲得し、 教育を受け、 社会内存在として生きていかざるをえない。 散文は、 その社会内存在の範囲内で機能するのに対し、 詩は、 宇宙内存在としてのあり方に触れようとする。 言語に被われる以前の存在そのおのをとらえようとするんです。 秩序を守ろうと働く散文と違い、 詩はことばを使っているのに、 ことばを超えた混沌にかかわる」

―― そういう出自からして詩は、 秩序と折り合いが悪そうですね。

「資本主義とは特に。 短歌・俳句は結社として、 作品がお金にからんだりしますが、 現代詩は、 貨幣に換算される根拠がない。 非常に私的な創造物になっています」

<中略>

―― 詩情を探す、 発見するノウハウを教えてもらえませんか。

「詩情は探すものではなくて、 突然、 襲われるようなものだと思うんです。 夕焼けを見て美しいと思う、 恋愛してメチャクチャになる、 それも、 詩かもしれません。 ぼくも詩を書く時は、 アホみたいに待ってるだけです。 意味にならないモヤモヤからぽこっとことばが出てくる瞬間を」

―― 詩人体質の若者は、 現代をどう生きたらいいんでしょう。

「まず、 『社会内存在』 として、 経済的に自立する道を考えることを勧めます。 今の詩人は、 秩序の外に出て生きることが難しい。 そうだなあ、 時々、 若者が世界旅行に行って、 帰ってきてから急にそれまでとまったく違う仕事をしたりするじゃないですか、 あれは、 どこかで詩情に出会ったのかもしれないな」

―― 社会秩序とは別に、 詩情が媒介する人間関係が、 60年代ごろまでは、 ひそかに機能していた気がするんですが、 どうなってしまったんでしょう。

「かつては、 あったかも。 でも今は本当に薄く広く、 あるいは、 部分的限定的になっていて、 掬おうにも掬えない。 金銭に換算されないものの存在感は急激に減少しています。 だから、 これからの詩はむしろ、 金銭に絶対換算されないぞ、 ってことを強みにしないとダメだ、 みたいに開き直ってみたくなる」

―― ということは、 60、 70歳になっても、 生き方としての詩人を目指せる?

「富や名声や地位から離れてからね」

<引用おわり>

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インタビュー記事も これで終わりになっています

村上春樹さん は 「物語」 について語っていましたが

谷川さんは 「詩情」 について語っています

それは 「文学」 を超えて 「芸術」 へ

さらには 「存在」 そのものへ と広がっていきます

さて・・・

「宇宙内存在」 としての己を貫く 「詩情」 ――

「世界を見」 「天国を見る」 チカラとしての 「詩情」 ――

一度 「出会った」 ら、 人生を具体的に変えてしまう 「詩情」 ――

これは 《世俗》 なのでしょうか、 《宗教》 なのでしょうか・・・

<つづく>

2009年12月16日 (水)

神智学とインド国民会議

インド国民会議 (Indian National Congress)

最初の会合は 1885年のことだった

その開催に奔走し プレジデントとして開会宣言をおこなったのが

A・O・ヒューム (1829-1912) だった

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で、 以下の本から ちょっとメモ書きです

  • 北原靖明 『インドから見た大英帝国: キプリングを手がかりに』 (昭和堂, 2004年1月)

[ヒュームは] 1849年インド政府の官吏として北西州に勤務した。1870年新設の中央政府租税および農業商務担当長官になり、 シムラやカルカッタに住む。 1879年インド政府の政策についての大胆な発言のゆえか、 リットンにより地方に転出を命じられた。 大反乱当時彼は、 九死に一生を得た恐怖の記憶があった。 以来インド人に対する安全弁が必要、 と考えるようになる。 この頃すでにヒュームは、 インド議会制を思案している。 インド人の政治的教育が、 彼の心を占めていた

99頁 (漢数字はアラビア数字になおした)

さて ここであらためて注目したいのは

そんな彼が 神智学の 「虜になった」 という点だ

引退後のヒュームも、 シムラの定住者だった。 彼は、 シムラでも最高所にあるジャク・ヒルに豪壮な屋敷を構え、 鳥類の剥製を集めていた。 やがてアメリカ人オルコット大佐 (Olcot, H.) やロシア人女性ブラヴァツキー (Blavatsky, H.) が来て、 神智学 (Theosophy) の普及を始める。 ヒュームは、 その虜になった。 ベサント (Besant, A.、 1847-1933) が来て仲間に加わり、 インド女性解放運動に携わるのは、 少し後の90年代のことである

116頁 (アニー・ベサントについては 次便)

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《神秘のインド》 への関心と インディアン・ナショナリズム――

神智学と インド国民会議――

この独特の ねじれた接続を確認しておきたい

2009年12月15日 (火)

詩はどこへ行ったのか (1/2)

前便 「宗教と文学」 よりつづく

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2009年11月25日付 朝日新聞 朝刊 「オピニオン」面

谷川俊太郎さん のインタビューが ほぼ全面をかざった

題して

詩はどこへ行ったのか

ネット上では読めない

とても長い記事なので、 全文引用はここではしません

見つけて ぜひ読んでいただきたいなぁ、 と思います

僕がザックリ検索してみた限り、 次のブログ記事が

一番長く 谷川さんの言葉を引用しているようでした

http://blog.goo.ne.jp/bozzo173/e/ca4f7162c74944806f4e782b54e9db63

こちらのブログ記事では 記者ご自身の 「写真」 人生と

谷川さんの世界観=詩論を重ね合わせておいでです

前便から 《小説(物語) + 詩 ⇒ 文学》 という図式で

話をすすめてきたわけですが、 これは当然

《文学 + 写真 ⇒ 芸術(?)》 という図式に拡大されえます

ただし、谷川さん自身 これらの区別をあまり重視していません

「詩情」 はどこにでもある、 という見方です (下記参照)

この点については、 別便を書きたいなぁ、 と思います

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さて、 谷川さんの言葉を ちょいと紹介いたします

僕が気になったところだけ、 部分引用です (ルビは全て省略)

といっても、 かなり長くなります coldsweats01 sweat01

【宣伝】  朝日新聞、 その他の購読申し込みは こちら から

聞き手は 「鈴木繁」 さん とあります

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<以下引用>

―― 最近、 社会の中で詩の影がずいぶん薄くなった気がするんです。

「詩が希薄になって瀰漫している感じはありますね。 詩は、 コミックスの中だったり、 テレビドラマ、 コスプレだったり、 そういう、 詩と呼ぶべきかどうか分からないもののなかに、 非常に薄い状態で広がっていて、 読者は、 そういうものに触れることで詩的な欲求を満足させている」

―― コスプレも詩ですか。

「『詩』 には、 二つの意味がある。 詩作品そのものと、 ポエジー、 詩情を指す場合です。 詩情は詩作品の中にあるだけではなく、 言語化できるかどうかもあやしく、 定義しにくい。 でも、 詩情はどんな人の中にも生まれたり、 消えたりしている。 ある時には絵画に姿を変え、 音楽となり、 舞踏として現れたりします」

―― ことばじゃないものにも詩情があるということでしょうか。

「ぼくが生まれて初めて詩情を感じたのは、 小学校4年生か5年生くらいのころに隣家のニセアカシアの木に朝日がさしているのを見た時です。 生活の中で感じる喜怒哀楽とはまったく違う心の状態になった。 美しいと思ったのでしょうが、 美しいということばだけで言えるものではなかった。 自分と宇宙との関係のようなものを感じたんでしょうね」

<引用おわり>

===================

村上春樹さん の言葉との対比で、 僕がなぜ

谷川さんの言葉に注目したのか、 上の引用だけで 十分

おわかりいただけるかと思います。 ただ

まだまだ印象的な言葉が このインタビューには含まれますので

もうちょっと 引用紹介させていただきたいのです

が、 もうすっかり長いエントリになってしまいました

次便につづく・・・ にてあしからず m(_ _)m

<つづく>

2009年12月14日 (月)

宗教と文学

前便 「物語の光にしか照らし出せない場所」 よりつづく

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宗教と文学は 互いに どのような関係にあるか――

現代日本の言説空間において

《宗教》 と 《世俗》 という重心に注目したとき

文学は どちらに より強く吸引されているか――

「宗教文学」 というサブカテゴリーがあって

「世俗文学」 とはわざわざ言わないわけだから

「文学」 は 《宗教》 そのものではありえない

では 文学は 《世俗》 だろうか・・・?

もちろん 《世俗》 ではない

文学は 数学や科学技術と同じように

合理主義 (理性中心主義) を駆動機構とはしない

以上のことから分かるのは

文学は 《宗教と世俗のあいだ》 にあり、 しかも

《世俗》 の重力場に より強く吸引されている ということだ

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となると

「物語の光にしか照らし出せない場所」

とは 一体 何なのか・・・?

村上春樹さん は このコトバで何を指示しているのか・・・?

《世俗》 へとより強く吸引される 「文学」 の場所――

これは一体 何なのか・・・?

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もちろんここでは 「文学」 と 「物語」 の関係を

まず考えてみなくてはいけない

つまり、 村上さんが あの 「コメント」 の中で

「文学」 ではなく 「物語」 をキーワードにしたのはなぜか

という論点である

注意深く読んでみると、 「小説」 が 「物語」 に

なんの断りもなしに言い換えられているのがわかる

「文学」 という語は登場すらしない

そこで、 「詩」 を媒介にしてみることにする

《小説 (物語) + 詩 ⇒ 文学》 という図式で

議論を 押し広げてみよう、 というのである

ご登場いただくのは 谷川俊太郎さん である

<つづく>

2009年12月13日 (日)

アニー・ベサント夫人

  • 北原靖明 『インドから見た大英帝国: キプリングを手がかりに』 (昭和堂, 2004年1月)

アニー・ベサントについて

ベサント夫人 (Besant, A.、 1847-1933) は、 インド女性の解放に最も熱心な一人だった。 彼女は、 ブラバツキー女史らが創始した神智学に傾倒し、 1893年インドにやってくる。 神智学とヒンズー教が共感できると考えたベサントは、 神智学でインドを開明しようとした。 彼女は、 国民会議派の運動にヒンズー教徒が関心を持つよう促し、 女性の開放 [ママ] を目指す。 藩王を動かして、 ベナレスに女性の学校を設立した彼女は、 行動と多くの著作で本国の議会にも影響を与えた

150頁 (漢数字はアラビア数字にあらためた)

「本国の議会にも影響を与えた」――

A・O・ヒューム についても 同じようなことが書かれていた (後便)

《神秘のインド》 派はこうして

当時の大帝国イギリスに影響を与ええることができた

しかし、 それはもちろん 大きな影響ではなかった

上の本では こう続きます

しかし概していえば政府は、 インド人の伝統に深入りしない方針をとっていた。 気候により形成されたインド人の性格は、 結局人種の違いであり、 これを改めるのは難しいという世俗的思想が、 アングロ・インディアンの間にも広がっていた。 専門研究者のインドの宗教や哲学、 文学に関する著作も、 一般のアングロ・インディアンの、 インドについての観念を深めることに成功しない。 彼らは、 インドからなにも学ばなかったし、 その気もなかった。 前の章で述べたように、 シムラのアングロ・インディアンたちは、 意図的に現地人を遮断し自分たちだけの社交界を築いたのだった

2009年12月12日 (土)

【研究会】 「神秘の東洋」という言説 趣旨

12月20日 (日) 北海道大学での研究会にて

発表をさせていただきます。 題して

  • 「神秘の東洋」 という言説: インドからの見取り図

発表の趣旨説明を書いてみました

ご笑覧くださいませ

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 ある日、 「遠藤周作とインド」 というテーマでの原稿執筆依頼が私のところに舞いこんだ。 今もって、 どうしてそういうことになったのかは不明だが (接点皆無の日本文学研究筋からの依頼だった)、 『深い河』 を何度か読んでいた私は、 書くべきことがあると直観して依頼を引き受けた。 四苦八苦して書きあげた原稿は、 論文集として無事公刊された。

       ◇

 このエッセイを書いていて痛感させられたことがある。 それは、 『深い河』 論は、 単に、 インドに対する現代日本人の向き合い方を問うということだけではなく、 宗教論の本質的な問題設定に直結している、 ということだ。 そして、 宗教学者を名乗っている私は、 それに応答する十分な構えをもっていない、 と。

 宗教論/宗教学/宗教研究の根本概念は 「宗教」 である。 そして、 そのようなものとしての 「宗教」 概念は、 まったく近代的である。

 どのような意味においてか。 第一に、 それが西洋出自の概念である、 すなわち、 キリスト教をベースとした概念であるという点で。 第二に、 宗教とはいまや宇宙と存在のサブシステムであるという点で。 そして第三に、 宗教とはいまや人間存在に普遍的である、 言い換えれば、 あらゆる諸宗教は根源的に同質であるという点で。 (ただし、 宗教概念の近代性をめぐる非西洋地域の歴史的事情の記述は、 別の項目と筋道を要するだろう。 ここでは、 とりあえず西洋地域に即して記述をすすめる)

 第二の点を原理化してきたのが理神論の系譜である一方、 第三の点の原理化は、 広い意味でのロマン主義により主導されてきた。 近代の宗教概念とその論/学/研究という営みは、 西洋キリスト教という背景のもとでの、 この二つの系譜の (決して整合的とはいえないままの) 統合である。

       ◇

 《インド》 を紛れもない 《神秘》 と直観するにあたり、 遠藤周作はむしろ、 宗教論/学/研究の原理的な構造自体に切り込んでいる。 なぜなら、 遠藤の 《神秘のインド》 観念は、 直接的には20世紀後半のアメリカのニューエイジの採用であるのは明らかであり、 さらにその淵源として、 「生」 「力」 そして 「神秘」 を基本概念とした欧州のロマン主義に棹差すことも明らかであるからだ。

 このことを確認した私は、 勉強をしなおすことにした。 掲げた問いは単純なものだった。

―― 《インド》 はいつから 《神秘》 ということになったのか

―― 誰がそのように観念したのか

―― その観念は、 いつどのような経路をたどって遠藤にまで至ったのか

 まずは、 大まかな見取り図が私の脳裏に浮かんだ。 これはロマン主義研究、 神秘主義研究を介しての宗教学基礎論のようなものになるだろう。 さらに、 南アジア地域研究にとっては、 少なくとも三つの課題への貢献となるだろう。

① 文化の政治学、 「表象の政治学」(スレーリ) の問題として、 ナショナリズムとポストコロニアリズム理解の中心への切り込み

② 上のことと関連して、 南アジアと西洋地域とのグローバルな交渉史記述の具体的な実践 (キーワードとしては、 帝国、 資本主義、 オリエンタリズム、 オクシデンタリズムなど)

③ 変貌著しい 《現代インド》(国民国家インドの現在) へのアプローチの再検討

 こうした見通しだけは得られるものの、 その細部がとにかく分からない。 このテーマは、 個人研究としては到底完遂できず、 共同研究という形をとらざるをえない、 このことは最初から明らかだった。

        ◇

 ということで、 このたび、 多くの方がたのご協力を得て 「《神秘のインド》 研究会」 を立ち上げることができた。 (とくに井上貴子さんという力強いパートナーを得たことが最初の一歩として決定的だった。 その後、 共同研究者の先生方はもちろん、 話題を投げかけた先生方からも激励をいただくことで、 本共同研究は順調なスタートを切っている。 この場を借りて、 皆さんに御礼申し上げます)

 まだ始まったばかりの研究会なので、 結論めいたことは言えない。 本発表では、 わずかながらも充実した議論の成果を組みこんだうえで、 私がもっている見取り図を紹介させていただきたい。

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2009年12月11日 (金)

《神秘のインド》研究会 座談会①の記録

去る12月3日 《神秘のインド》 研究会 の企画第二弾として

座談会① ―高橋原さんを囲んで―

を開催しました

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ユング研究者である高橋さん からは とても面白い話が伺えました

ユングはインド好きと思い込んでいた僕でしたが

それはまったくの先入観にすぎない、 とか

ユングにとって より大事だったのは 無意識ではなく神話

とくに 「西洋人」 のための神話だったのだ、 とか

とても貴重なお話でした

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共同研究側からは 関根康正先生 と私が出席したのですが

たまたまそこにいらっしゃった 鶴岡賀雄先生 にも

最初から最後まで 参加していただきました

神秘主義の系譜学を追究してらっしゃる鶴岡先生にとって

《神秘のインド》 表象は いわばホームグラウンド!

これまた 大変貴重なお話をいただけました

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1時間半におよぶ座談会のすべてとはいきませんが

「記録」 を書いてみました

good こちらから ご覧になれます

ご意見 ご感想などを お寄せくださいませ

2009年12月10日 (木)

世俗的戦争と宗教的戦争

  • 山内進 『十字軍の思想』 (ちくま新書, 筑摩書房, 2003年7月)

十字軍にはいかにも西洋的、 欧米的な特性がこびりついている。 先走っていえば、 その特性はなによりもキリスト教的武力行使、 つまり聖性と暴力の結合にある。 十字軍は西洋の 「聖戦」 であり、 その思想の核心は独自の 「聖戦」 論にあるといってよい。 西洋には別に 「正戦論」 と呼ばれる 「正しい戦争」 の思想があるが、 間単にいえば 「正戦」 論は世俗的戦争論であり、 「聖戦」 は宗教的戦争論である。

 正戦は、 個人や集団の権利、 身体、 財産、 名誉の侵害に対する武力行使、 その意味での正義の執行という思想を本質とし、 一定の法的制約を受ける。 これに対して聖戦は神の命令、 神の怒りに呼応するもので、 戦いは熾烈である。 聖なる戦いは神の報酬を得る作業であり、 とりわけ十字軍にあっては、 聖地への巡礼の思想と結合した贖罪の契機が強く含まれた。 聖戦は、 神の恩恵を得る行為だった

14頁

これは 「プロローグ」 の中の一節

とくに用語の整理と説明をする箇所 の一節である

したがって、 正戦を 「世俗的戦争」

聖戦を 「宗教的戦争」 と言いなおすのは

著者 山内先生 である

この意味で、 ここでの 《宗教/世俗の二分法》 は

現代日本 (2003年時点) での 用語法=理解であって

「古代から二一世紀まで及ぶ」 (15頁)

「西洋」 の 「十字軍の思想」 (同) のそれではない (はず)

====================

ということで あらためて

《世俗》 とは

個人や集団の権利、 身体、 財産、 名誉

などであり、 「法的制約」 のもとにある

そして

《宗教》 とは

「神」 の御心と それへの人間の応答であり

人間に対する 「神」 からの 「贖罪」 と 「恩恵」 である

====================

山内先生は 次のようにつづけます

正戦と聖戦、 この二つは絡み合う形で西洋の戦争観と戦争法およびその思想史を構成してきた。 とりわけ正戦の論理は、 ビトリアやグロティウスなど近世の初期国際法学者によって国際法の世界に組み込まれ、 現代国際法にも深いところで影響を及ぼしている。

14-15頁

「ビトリアやグロティウス」 の国際法学、 とりわけその戦争法は

《正戦=世俗的戦争》 理論 と 《聖戦=宗教的戦争》 理論

の双方に もとづく

【注記】

もちろんこれは! 叙任権闘争、 ヴォルムス条約における

スピリトゥアーリア と テンポラーリア の二分

教皇権 と 皇帝権 の二分 に淵源する!

淵源しつつ 近代パラダイムの構築過程で

また独自の発展をして 21世紀初頭の日本にまで

こうして辿り着いた、 そんな観念=制度=理解=用語法

なのであります!

2009年12月 9日 (水)

物語の光にしか照らし出せない場所

を考えつづけているが、 段々と 急所がわかってきた

  1. 《宗教と世俗のあいだ》 の領域のなかでも 《世俗》 の力場 に強くからめとられている諸要素
  2. しかもその 《宗教代替機能》
  3. そうすると 《宗教学の積極的解体》 が見えてくる

これだ! けど・・・

本ブログの定期的読者であっても、 このまとめ

ナンノコッチャ・・・・・・

の話でありましょうから 徐々に説明しないといけませんね

こういうときは 具体例から話をはじめるといいもんです

====================

ということで

2009年11月26日付 毎日新聞 朝刊 社会面

に載った

村上春樹さんメッセージ

の全文をご紹介します

『1Q84』 で 第63回毎日出版文化賞 (文学・芸術部門)

受賞した村上さんが 受賞式に寄せたメッセージです

ネット上では 全文が読めないようです

【宣伝】 『毎日jp』 で 検索! 

しかし、 これは何としても 全文紹介したいものなので

いけないこととは知りつつ 書き抜きさせていただきます

(なお、 ルビはすべて省略しました。 あしからず)

【宣伝】

  • 『1Q84』

この 「メッセージ」 のどこに 僕が注目したのか

とりあえず 標題からわかっていただけるでしょう

しかし ちゃんとコトバにすべきですから

次便にて 論じたいと思います

とりあえず 下記 ご一読くださいませ

====================

 このたびは 「毎日出版文化賞」 をいただき、 ありがたく思っています。 選んでいただいた皆さんに深く感謝いたします。

続きを読む "物語の光にしか照らし出せない場所" »

2009年12月 8日 (火)

近現代の宗教的暴力の歴史的研究

<読む本>

  • 西村明 読書案内 暴力のかたわらで 池上良正・小田淑子・島薗進・末木文美士・関一敏・鶴岡賀雄 (編) 『岩波講座 宗教 第8巻 暴力』 (岩波書店, 2004年9月, 280-99頁)

要点を的確におさえた とてもよいブックガイド!

中でも 自分の関心に 一番近いところをば

おそらく彼 [ユルゲンスマイヤー] が理解しようとしている宗教が前近代的なモデルに基づいており、 科学やテクノロジーが高度化し、 一個人が他の人間な自然環境にふるいうる暴力性の度合いが格段に増している現代における宗教と暴力の関係を考える際には、 彼の議論はそのままでは応用が難しいように思われる。 その際には、 軍事力の歴史的展開や戦争の工業化などを議論の視野に納めたアンソニー・ギデンスの 『国民国家と暴力』 (松尾精文・小幡正敏訳、 而立書房、 1999年、 原著1985年) や、 社会を 〈力〉 のネットワーク群と捉え、 宗教などのイデオロギー的 〈力〉 を政治的・経済的・軍事的 〈力〉 に関連させつつ世界史の展開を論じたマイケル・マンの 『ソーシャルパワー ―― 社会的な 〈力〉 の世界歴史Ⅰ』 (森本醇・君塚直隆訳、 NTT出版、 2002年、 原著1986年) における議論などを参照しつつ、 宗教的暴力の展開を歴史的に位置づける作業が必要となるだろう

287頁: 年号はアラビア数字に変えた。 また書誌情報はフォントを小さくした

なお、 西村さんのこの読書案内が出た後

マイケル・マンの本、 後編 (上下巻) が出た

したがって、 『ソーシャルパワー』 は全部で3巻本です

2009年12月 7日 (月)

理性による分析の世界

宗教とは 《宗教ではないものではないもの》 である

冗談で言っているのではない

コトバ遊びでもない

宗教と非宗教は、 典型的な 《図=地》 の関係にあって

宗教の定義は 宗教の本質が決めているのではなく

非宗教からの排除が決めているのかもしれない――

現代宗教学は そこまで すすんでおります

ということで、 「世俗の宗教学」 へのエントリです

===================

  • 石井公成 「宗教者の戦争責任: 市川白弦その人の検証を通して」 池上良正・小田淑子・島薗進・末木文美士・関一敏・鶴岡賀雄 (編) 『岩波講座 宗教 第8巻 暴力』 (岩波書店, 2004年9月, 223-49頁)

以下で 「大拙」 とは 言うまでもなく 鈴木大拙師 のことです

しかし、 市民倫理はあくまでも市民倫理であり、 宗教ではない。 また、 宗教は政治分析でも歴史研究でもないのである。 大拙は、 社会常識をわけまえずに 「お悟り」 を振り回す傾向を激しく非難しつつも、 悟りの世界は理性による分析の世界とは異なることを強調していた

242頁

従来の宗教学であれば ここで

「お悟り」 とは何か―― という問いを発するでしょう

しかし、 《世俗の宗教学》 は 宗教を知るために むしろ

「市民倫理」 とは何か

「政治分析」 とは何か

「歴史研究」 とは何か

要するに 「理性による分析の世界」 とは何か

と問うわけです

それによって 僕らの宗教概念の総ざらいを目ざす――

宗教論の基礎論のような作業なのかもしれませんが

これは今 必須の作業になっています

2009年12月 6日 (日)

生命それ自体の無目的の消費

<エピグラフ>

バタイユは、 色彩が形態の支配を揺るがして自己主張する現代絵画の傾向や、 ブルジョア的社会の生産秩序を動揺させる無数の労働者たちの反抗の運動、 それに理性の主権を失墜させたフロイトの無意識の理論などに、 自分の体験に呼応するものを見出した。 それらの現象は、 牢獄のような理性の秩序がやがて支払わなければならない破滅的な代償を予感させる。 生産の原理とそれを支える理性の秩序は、 みずからを衝き動かしているものをつねに抑圧し続けてきた。 だが生命がそれ自体、 無目的の消費に委ねられているとすれば (神は存在せず、 目的論は成り立たない)、 その消費を徹底して否認するこの 「人間的秩序」、 とりわけその近代的形態は維持しがたい。 やがてそれは擾乱の奔出による、 破滅的な消費を招くことになる。 〈内的体験〉 とはそのことの啓示でもあった

西谷修 『戦争論』 (岩波書店, 1992年10月) 67頁

2009年12月 5日 (土)

神事・宗教・経済

  • 八塚春児 『十字軍という聖戦: キリスト教世界の解放のための戦い』 (NHKブックス, 日本放送出版協会, 2008年2月)

こちらの本の用語法で

《宗教》 や 《霊》 (カトリック的意味での) と対になる

《世俗》 とは何か・・・ という点について

一部の 「代々の十字軍家系」 について述べるくだり――

十字軍に参加することは多大の出費を伴うものであり、 決して割に合う仕事ではなかった。 また、 参加者を取り巻く政治的情況が、 必ずしも長期の外征を赦すものではなかったこともしばしばであった。 それでも彼らは十字軍が宣布されると当然のごとくに参加したのである。 おそらくその理由は、 十字軍が 「神のみ業」 であり、 まさに 「神事」 であったからではあるまいか

169頁

「神事」 は 著者 八塚先生ご自身の用語法である (同頁参照)

日本の読者に向けて、 ここでの 「神事」 は 「祭り」 のようなもの

との説明が加えられている

ここで 「神事」 と対比されているのは

「政治的情況」 と 「多大の出費」 である

すぐ後の段落では 次のように言われる

一般に行われている図式、 十字軍は時代を経るにつれ宗教的情熱が消え、 経済的利害が優先するようになったという図式は、 正しくない。 経済的負担がますます参加者を圧迫するようになっても、 まさに宗教的義務意識から彼らは参加したのである

169-70頁

《宗教的なもの》 は 「経済的利害」 「経済的負担」 と区別される

「宗教的情熱」 「宗教的義務意識」 とは 「神事」 に向かう

したがって、 《経済》 と 「政治的情況」 とは併置されてよい

====================

ということで・・・ 

前便での整理と 本便での整理から見えてきた用語法は 

《宗教・霊・神事》 と 《世俗・政治・経済》 との区別と対比

さらに、 そう言ってよければ 二分法 である

そして・・・

これはもちろん! 叙任権闘争、 ヴォルムス条約における

スピリトゥアーリア と テンポラーリア の二分

教皇権 と 皇帝権 の二分 に淵源する!

淵源しつつ 近代パラダイムの構築過程で

また独自の発展をして 21世紀初頭の日本にまで

こうして辿り着いた、 そんな観念=制度=理解=用語法

なのであります!

2009年12月 4日 (金)

Full House @ Wes Montgomery

<ただ好きなアーティストを紹介するだけのコーナー>

唄うギターっていうのかな・・・

やっぱりすごいや

貧困の世俗化

2009年11月29日付 朝日新聞 朝刊に

  • スティーヴン・M・ボードイン 『貧困の救いかた: 貧しさと救済をめぐる世界史』 (伊藤茂訳, 青土社, 2009年9月)

の書評が載った。 評者は 広井良典先生

ネット上でも読めるので、 下にコピペしておきます

====================

僕がこの書評で注目したのは

  • 以前の世界では、 貧困は各地域におけるローカルな原因 (自然災害や戦争、分配システムなど) によって生じるとともに、 様々な宗教が貧困の理解や対応において主要な役割を担っていた
  • このこととパラレルに貧困観と貧困救済の 「世俗化」 が生じ、 国家の役割が大きくなっていく
  • 近代以前の時代にキリスト教、 仏教、 イスラームといった諸宗教が貧困にどう対してきたかといった視点や議論は、 福祉の思想や原理が問われるこれからの時代において新たな意味をもつのではないか

などの指摘である

つまりは 《貧困なるものの》 の世俗化!

これぞまさに 堂々たる 「世俗の宗教学」 のテーマ!

ぜひ読んでみたい本です

====================

http://book.asahi.com/review/TKY200912010182.html

貧困の救いかた ― 貧しさと救済をめぐる世界史 [著] スティーヴン・M・ボードイン

[掲載] 2009年11月29日
[評者] 広井良典 (千葉大学教授・公共政策)

続きを読む "貧困の世俗化" »

2009年12月 3日 (木)

そこから宗教が始まる

連載 「宗教学の積極的解体」 本編 やっと二本目です

前便は

です

====================

宗教を対象にするのが宗教学だとすれば

宗教が見えず、 現われないものであると知られたとき

宗教学は どのような 《コトバ》 を語りだすのだろうか

死者は充足されることのない欠如として現われる。 その欠如は、 同時に過去における充足と重層化される。 そして、 死者はその過去の充足と現在の欠如という両義性によって、 現象しつつ、 かつ現象の彼方に退いてゆくという両方向を指示し、 それによってさらに現象の措くなる 「見えざるもの」 「顕現せざるもの」 へと導く。 「宗教」 が問題になるとすれば、 まさしくここから始まるのであろう。 死者の奥にある 「見えざるもの」 「顕現せざるもの」 に戦慄とするとき、 いまや 「人の間」 の言葉で語りえないことが、 正面から問題とされなければならなくなる。 そこから宗教が始まる。 そのように考えるならば、 確かに死者は宗教への導き手である。 そこに有力な宗教の弁証が成り立ちうるかもしれない

18頁

  • 末木文美士 「《暴力――破壊と秩序》 序論 池上良正・小田淑子・島薗進・末木文美士・関一敏・鶴岡賀雄 (編) 『岩波講座 宗教 第8巻 暴力』 (岩波書店, 2004年9月, 1-22頁)

「ミクロスコピア」が終刊

2009年11月27日付 朝日新聞 朝刊 科学面に

「ミクロスコピア」 が終刊
新潟発 反骨の科学誌

という記事が載った

「ミクロスコピア」 には 個人的な思い入れがあった

早稲田のHさんから

コンドウさんがやろうとしてることって こんなんじゃないですか

と紹介されて、 ホントにそうだ、 と思った

ステキな雑誌だ

この件について

ネット上ではたくさんの記事がすでに書かれている

得がたいメディアを ひとつ失うことになるが

僕らがそれを ちゃんと受け継いでいけばよいのだ、 と思う

ありがとうございました m(_ _)m

2009年12月 2日 (水)

宗教的権威に祭りあげられたもの、 あるいはまつろわぬ部分

連載 「宗教学の積極的解体」

前便 イントロから 間があきましたが 本編一本目です

====================

近代合理主義の枠組みのなかで 宗教を語る――

宗教学は いつもこの難問に ぶち当たってきた

宗教学者は 認識主体/世界の主人であると

自認するのかしないのか

この問いの立て方自体 間違っていたのではないか

つまりは 宗教学のパラダイムとしての唯物論/無神論

もちろん 宗教否定ではない唯物論/無神論

《モノ》 がうごめく無神の世界における 脱 「人間」 の走査線

それが 措定されるのであれば

宗教学はあらたな可能性をつかむ・・・ かもしれない

「人間中心主義」 の問題性とは, いいかえれば 「近代化」 という世界的運動が作りだしたかに見える 「無神論的」 世界の問題でもあります. 人間はもはや何ものにも頼らずこの世界の主体であり, 世界が自分のためにあって, 自分が世界の主人であることを疑いもしません. けれども 「戦争」 の 「ニモカカワラズ」 は, この 「人間」 に 「まつろわぬ」 部分があることを露呈させるのです. つまり人間は, 自身がそうだと規定する 「人間」 に収まらず, その規定によって排除されてしまう部分を含んでいる, 人間は 「人間」 として完結しえない, ということに思いいたらざるをえません. 要するに 「人間」 を作りだしたのは 「人間」 ではない, という自明の理に, 人間は世界を呑み込む戦争によって気づかされたのです. かつてはその 「まつろわぬ部分」 が, 人間を超えるなにものかとして, 宗教的権威に祭り上げられたのでしょう. けれども近代の合理精神によって 「神」 が 「解雇」 されたとしても, かつてその権威を賦活していた闇の部分が消滅したわけではありません. 近代の合理精神はそれにふたをしただけなのです

55頁

  • 西谷修 『夜の鼓動にふれる: 戦争論講義』 (東京大学出版会, 1995年4月)

====================

別エントリ

  • 「生命それ自体の無目的の消費」 (後日アップ)

も 併せてお読みください 

ムンバイ襲撃事件から1年

去る2009年11月26日

ムンバイ襲撃事件 または ムンバイ同時テロ

から1年がたった

同27日付 朝日新聞 朝刊には

ムンバイ同時テロ 遠い解明
事件から1年 対応鈍いパキスタン

という記事が載った。 記者は 「武石英史郎」 さん

残念ながら ネット上では読めない

■  ただ一人生き残った実行犯の裁判が インドで大詰めをむかえていること (早ければ 年明けにも判決)

■  インド政府が 四つの大都市に精鋭実戦部隊をあらたに配置したこと

■  一方、 パキスタン政府が 事件の組織的背景の解明にどうも積極的でないこと

■  アメリカ、カナダ、イタリアなどで 事件の共謀者と思しき人物が逮捕等されていていること

などを紹介している

====================

この事件については 実は 僕も一本エッセイを書いた

ホントに ホントに 気の重くなる執筆だった

  • 「ムンバイ襲撃事件の背景とその余波: インドとパキスタンのムスリム」 (渡邊直樹 (編) 『宗教と現代がわかる本 2009』 , 平凡社, 124-27頁).

2009年12月 1日 (火)

外からはうかがい知れない土着の相互扶助社会

前便 より つづく

====================

2009年11月27日 朝日新聞 朝刊ではじまった

不定期連載 探訪保守 (南彰記者)

内容を 見ていきたいと思います

紙面掲載から5日目

本文は ネット上で まだ読めないようですね

====================

記事は 出雲大社の 神迎えの神事から説き起こします

そしてすぐ、 「遷宮」 の話題になります

出雲の遷宮は 伊勢の式年遷宮とはちがって

おおむね60年に一度1の 大屋根の葺き替え

をいうのだそうです

現在おこなわれている遷宮 (葺き替え) について

その費用は どこから どのように捻出されたのか――

昭和の遷宮は宮司が中心となって出雲ゆかりの人を頼りに寄付を募った。 平成の遷宮 [現在進行中の遷宮: 引用者注] の音頭をとるのは、 伊勢神宮のある三重県出身の奥田硯トヨタ自動車相談役。 氏子総代で自民党の青木幹雄氏が招聘したといい、 80億円を集める計画だ

1面: 招聘には 「しょうへい」 のルビ

日本最古、 最大の神社のひとつ

その 「氏子総代」 が青木幹雄氏であること――

そして 「氏子総代」 としての青木氏が

寄付集めの旗振りとして招聘したのが

世界に冠たる 超優良企業トヨタの相談役であること――

筆者 南彰記者 は まずそこに注目するわけです

====================

以上が1面に載った部分の要点です

これは単なるイントロですから、 まだ

南記者が何を言おうとしているのか 論点がわかりません

とりあえず 4面掲載のつづきの文章を みてみましょう

氏子の話題が 引きつづきます

==================== 

「旧大社町の住民は、 みんな氏子でございます」

4面

出雲大社の神職の言葉が引用された後

次のように書かれる

島根県出雲市大社町は、 日本海に突き出た島根半島の西のはしにある。 町民およそ1万5千人は全員、 出雲大社の氏子だ

このことを指摘することで、 南記者が何を言いたいのか

やはり 明言されることはないのだが

どうやら 「共同体」 というのが キーワードになりそうだ

これは 「出雲研究の第一人者である藤岡大拙さん」

のコトバであり、 南さん自身は 「頼母子講」 を念頭に

外からはうかがい知れない土着の相互扶助社会

と言っている

これがおそらく 南記者が言いたいことなのだろう

なかなか工夫された表現で、 的を射ていると思う

「氏子」 である町民たちの暮らしのあり方――

南記者は これを描き出すために

  • だんさん
  • 言い継ぎ
  • 常会 (じょうかい)
  • 頼母子講 (たのもしこう)
  • 無常講

などのキーワードを 矢継ぎ早にくりだす

そして 最後の段落で 「遷宮」 の話題にもどる

南記者は再び 出雲大社の拝殿前に立つ

「御浄財」 を募る看板を、 傾いた日が照らしていた。 宮司と並んで寄付を呼びかける名は、 いまやトヨタ自動車相談役の奥田硯氏である。 平成の遷宮は出雲人だけでは支えきれぬ事業となったのだ

このように 「保守」 の土着の基盤の衰退を示唆して

一本目のこの記事は閉じられる

====================

記事全体は おおよそ以上のような構成になっている

こうした関心を名づけるなら

政治民俗学

ということになるだろう

少なくとも日本で そういう分野はあまり聞かないけれど

南記者の先達は いなくはないのである

政治民俗学という視点から 次便以降 記事内容を

もう少し 細かく 検討していくことにしよう

<つづく>

Strange Fruit @ Billie Holiday

映画を教材にしている授業 ――

今日は二本をとり上げたが、 そのうちのひとつが

  • 「マルコムⅩ」 (スパイク・リー, 1992年)

だった

発表担当の学生さんが センスあふれることに

ビリー・ホリデイのストレインジ・フルーツを

紹介してくれた

画面が動くのもあったが、 これがよかった

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