外からはうかがい知れない土着の相互扶助社会
前便 より つづく
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2009年11月27日 朝日新聞 朝刊ではじまった
不定期連載 探訪保守 (南彰記者)
内容を 見ていきたいと思います
紙面掲載から5日目
本文は ネット上で まだ読めないようですね
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記事は 出雲大社の 神迎えの神事から説き起こします
そしてすぐ、 「遷宮」 の話題になります
出雲の遷宮は 伊勢の式年遷宮とはちがって
おおむね60年に一度1の 大屋根の葺き替え
をいうのだそうです
現在おこなわれている遷宮 (葺き替え) について
その費用は どこから どのように捻出されたのか――
昭和の遷宮は宮司が中心となって出雲ゆかりの人を頼りに寄付を募った。 平成の遷宮 [現在進行中の遷宮: 引用者注] の音頭をとるのは、 伊勢神宮のある三重県出身の奥田硯トヨタ自動車相談役。 氏子総代で自民党の青木幹雄氏が招聘したといい、 80億円を集める計画だ
1面: 招聘には 「しょうへい」 のルビ
日本最古、 最大の神社のひとつ
その 「氏子総代」 が青木幹雄氏であること――
そして 「氏子総代」 としての青木氏が
寄付集めの旗振りとして招聘したのが
世界に冠たる 超優良企業トヨタの相談役であること――
筆者 南彰記者 は まずそこに注目するわけです
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以上が1面に載った部分の要点です
これは単なるイントロですから、 まだ
南記者が何を言おうとしているのか 論点がわかりません
とりあえず 4面掲載のつづきの文章を みてみましょう
氏子の話題が 引きつづきます
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「旧大社町の住民は、 みんな氏子でございます」
4面
出雲大社の神職の言葉が引用された後
次のように書かれる
島根県出雲市大社町は、 日本海に突き出た島根半島の西のはしにある。 町民およそ1万5千人は全員、 出雲大社の氏子だ
同
このことを指摘することで、 南記者が何を言いたいのか
やはり 明言されることはないのだが
どうやら 「共同体」 というのが キーワードになりそうだ
これは 「出雲研究の第一人者である藤岡大拙さん」
のコトバであり、 南さん自身は 「頼母子講」 を念頭に
外からはうかがい知れない土着の相互扶助社会
と言っている
これがおそらく 南記者が言いたいことなのだろう
なかなか工夫された表現で、 的を射ていると思う
「氏子」 である町民たちの暮らしのあり方――
南記者は これを描き出すために
- だんさん
- 言い継ぎ
- 常会 (じょうかい)
- 頼母子講 (たのもしこう)
- 無常講
などのキーワードを 矢継ぎ早にくりだす
そして 最後の段落で 「遷宮」 の話題にもどる
南記者は再び 出雲大社の拝殿前に立つ
「御浄財」 を募る看板を、 傾いた日が照らしていた。 宮司と並んで寄付を呼びかける名は、 いまやトヨタ自動車相談役の奥田硯氏である。 平成の遷宮は出雲人だけでは支えきれぬ事業となったのだ
同
このように 「保守」 の土着の基盤の衰退を示唆して
一本目のこの記事は閉じられる
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記事全体は おおよそ以上のような構成になっている
こうした関心を名づけるなら
政治民俗学
ということになるだろう
少なくとも日本で そういう分野はあまり聞かないけれど
政治民俗学という視点から 次便以降 記事内容を
もう少し 細かく 検討していくことにしよう
<つづく>
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コメント
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『《公共圏》と呼ばれるものは、お互いに他人である多数の人々が社会的に共存することを可能とする秩序のことです。もし《公共性》を《公》や《公共圏》と同一視するのではなく、これらから区別するというのであれば、私たちは、《公共性》を次のように簡単に定義することになるでしょう。すなわち、《公共性》とは、社会的共存の秩序がもつ一般的・全体的・共通的・公式的な性格のことである、と。
多様な公共圏または公共空間のうち、伝統的にとくに重要と考えられてきたのは政治共同体です。それは、政治が社会全体に対する権威的拘束力をもっていて、全包摂な性格が強く、それが制定する法の秩序にみられるような、優越的な公共性を主張するのが普通だからです。したがってまた、とくに国家における政治的公共性が社会の代表的・標準的な《公共性》とされることになったのです。
しかし、たとえば近代ヨーロッパにおけるプロテスタンティズムの形成にともなってプロテスタント集団とカトリック国家とが対立したように、精神的のコミュニケーションの領域にかかわる宗教団体も、ある種の公共圏を形成して国家的公共性と対立することがあります。
それに、何度も指摘したように、市場もまた、私たちの生活財を供給するシステムとして基本的な意義を持っています。アダム・スミスが市場原理の重要性を説いたことはよく知られていますが、あれは新しい公共空間の発見であって、「公共権力」に対して「私的経済」にもある種公共性があり、しかも政治的公共性にもとづく経済生活の制御よりも、むしろこの新しい経済的公共性の自律性を尊重するほうが、全社会的にみてヨリ福祉につながりやすいという発見だったと言えるでしょう。』
「日本で伝統的な公共性概念というとき、主軸となったのは、いうまでもなく《国家的公共性》ですが、そのはかにも、国家をこえるような、または国家外的なマクロの社会的共存秩序の概念があります。それは《世界》、《世間》、そして《天下》です。つまり日本文化の伝統のなかには、《国家的公共性》、《世間的公共性》、《天下的公共性》の概念が存在するのです。最近では、司馬遼太郎さんが指摘したように、《会社的公共性》もあるといえるでしょう。
- 中略 ―
《世間》は、仏教的な《世界》概念と儒教的な《天下・国家》概念が世俗的に融合したものでしょう。《世間》の眼は《他人》の眼です。世間をわたるうえで基本的な倫理が《義理》です。《世間的公共性》または《市井的公共性》の規範として義理は《私》の領域としての《人情》としばしば対立します。
世俗化した《世界》概念としての《世間》の概念は、いまだに生きていますが、《世界》という言葉は、現在、本来の宗教的な超現実性をもつ概念としてではなく、地球的規模の社会や国際関係の広がりのことをさして用いられるようになっています。この地球上にはさまざまな何十億にも達する人々が住んでいて、国を形成し、とくに外交、貿易、観光、国際コミュニケーションなどの発達によって、《世界的公共性》の概念が形成されつつあるのです。」
(「公共性の概念について」山川雄已pp22-24 『日本公共政策学会年報1999』
公共性について詳しく解説したものでは、これはいけてる資料でした。ぜひ読んでみてください。この話題にも適合する箇所がたくさん見つかりましたし、話題が広がるかと思いました。
デール・アンドリューズ先生を紹介されちゃうとは・・・。先生のホームページはあまり更新されないんですが、死生観について調べているうちぶつかって以来、お気に入りに追加です。(センスもいいですよね)
最近ではアニメの聖地研究を中心にされているのかもしれませんが、東北大学時代の、現地で生活したうえでの民俗学研究の資料には眼を見張りました。
ちなみに全く関係ありませんが、一番最近お気に入りに追加されたのは棚橋弘季さんのブログです。こちらもおすすめです。
保守、宗教、公共性・・・。すごくおもしろそうですが、まとめるの大変そうですよね。期待して続きを待っています。
投稿: u.yokosawa | 2009年12月 2日 (水) 02時18分
yokosawa さん>
そうなんですよ、 公共圏の問題になってくるんですよね
ただ僕の知るかぎり、 つまり僕の田舎なんかでの
公共圏は 市民的公共性とは ぜんぜん違いますから
なかなか・・・
もう数年前になるでしょうか
「ヒンドゥー至上主義者の巨大なサークル自体
ひとつの公共圏ということになるんでは・・・」
と発言をしたら いやぁな空気になったことがあります
=====
『日本公共政策学会年報』 なかなか手に入りません
ぜひ読みたいので、今度貸してください
投稿: コンドウ | 2009年12月 3日 (木) 03時14分
「場合によっては、概念規定の試みなどは控えておいたほうがいいような状況すらありうるでしょう。日本の政治学会では、戦前期に、政治の概念をめぐる論争が活発におこなわれたことがあります。しかし、これとは対象的に、戦後の政治学は、政治概念などはほとんど問題にせず、実証研究のほうに力を入れるようになりました。むしろそのほうが政治学の内容を豊かにするうえで効果的であったのです。
《公共政策》の概念にしても、研究者たちが、それぞれ暗黙のうちにイメージし了解している概念内容にしたがって、政策研究をすすめればいいのであって、これをあらたまってとりあげ吟味する作業にどれほどの意味があるのか問題だともいえます。
しかし、およそ科学や学問は、厳密な概念のうえにこそ築かれるのだということからすれば、基礎概念についての吟味が全くおこなわれないのでは、研究がしっかりした学問的基礎をもたないことになってしまいます。それゆえ、ある程度は概念規定の試みも必要でしょう。」
(「公共性の概念について」山川雄已 『日本公共政策学会年報1999』 p2)
『日本公共政策学会年報』の1999・2000年版は日本公共政策学会のHPから公共政策研究に入って日本公共政策学会年報1999 HTML版を開くと閲覧可能です。
山川雄已先生もこれを書かれて3年後に亡くなっています。手掛かりを探すのも困難になってきてしまっているのかなぁなんて思いますが、こうして書かれたものはこの先もずっと、私たちにいろいろなことを教え続けてくれますね。
ひとつ、このカテゴリーではないところなんですが、教えていただきたいことがあります。
インド共産党毛沢東派の「解放区」に七万人超を動員する大規模な掃討作戦をシン首相がおこなったという記事で、少数民族の支持を得ることで毛派が台頭したとあったのですが、インドという国は、言語等で分かれている州のなかに、さらにたくさんの少数民族を抱えているのですか。
多様な文化をもって国が建設されたとしても、ある程度開発されるうちにそれらが混合して新しい文化を形成するといったことがおこらなかったとしたら、その理由は宗教的なものですか。それとも国土が広くて統合が難しいといった立地的な理由からでしょうか。それとも歴史的な理由からでしょうか。
おそらくどれか一つというわけではないと思いますが、どの理由が一番関係しているとお考えですか。
投稿: u.yokosawa | 2009年12月 4日 (金) 01時13分
yokosawa さん>
情報 ありがとうございます
おかしいですねぇ・・・ もちろんネット上でも探したのですが・・・ (泣)
読ませていただきますね
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マオイスト(毛主義者)に関するご質問 ありがとうございます
はい、基本的に言語単位に分かれているインドの州ですが
その中に けっこうな数の「少数民族」を抱えています
また、「少数民族/先住民/部族民」を中心にすえた州というのもあります
こういう人たちは、インドの行政用語で 「指定部族」(Scheduled Tribes)
と呼ばれていまして、総人口の8%強と けっこう多いです
基本的に、彼らは差別されています
社会経済的に「後進的」というのプラス、偏見と差別の目で見られてもいます
そういう意味では、いわゆる「不可触民」(指定カースト Scheduled Castes)
と 併置されることの多い集団です
こういう方たちの集団は インド国民国家の主流に
非常によく統合されている場合と されていない場合があります
ただし、後者の場合、「主流」との強い交渉関係があるのに
結局は 差別と後進性というところで 別集団とされているのです
投稿: コンドウ | 2009年12月 8日 (火) 10時41分