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2009年12月26日 (土)

中沢新一インタビュー

前便 「『思想地図』 Vol. 4 想像力」 より つづく

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今回の 『思想地図』 で 僕にとって大きかったのは

中沢新一先生 のインタビューが 巻頭に載ったこと

  • 日本的想像力と成熟 中沢新一インタビュー
    (聞き手・ 東浩紀 + 白井聡)

「連載 中沢新一論」 をやってきた僕としては

わが意を得たり といったところだ

ただ オウム問題の 「総括」 については

本誌編集サイドと 僕とは ちょっと意見が違うようだ

  • 中川大地 「一〇年代にむけて 中沢新一を読むためのブックガイド」 (44-49頁) 参照

中沢先生はまだ その 「総括」 はおこなっていない

と 僕は思う

例によって 中沢先生の語りはすさまじく

簡単な要約や紹介を ゆるしてはくれません

掛け合いのなかで 思わぬ方向からの切り込みが

ズガッ ズガッ ズガッ と たて続けにやってきますから

あの東さんですら 押され気味という印象すらあります

そうしたインタビューでございますから

僕なりに気になったフレーズを 書き抜きすることで

お茶を濁させていただきます あしからず (=゚ω゚)ノ o(_ _)oペコッ

======================

以下引用 (18-19頁)

  もう少しこだわらせてください。 いま 「日本的であること」 のイメージは、 大きく二つに割れていると思います。 伝統芸能とクール・ジャパン。 それがいまの文脈で言えば、 折口信夫と村上隆の差異に重なっている。 日本的想像力のグローバルな力といったときに、 その中心は村上隆的な幼児性なのか、 それとも折口信夫的な神話性なのか。

中沢  折口信夫も一種の幼児性なんですよ。 これは日本思想の構造を見ているとわかるんですけれども、 折口は思想構造的に柳田國男と対立しているんですね。 柳田國男は大人なんです。

  近代的な市民ですね。

中沢  柳田さんは、 神様というものの考え方について、 とても大人びた考え方をしている。 これに対して折口さんの神は、 幼児性の神というようなもので、 これは両方正しいし、 両方いるわけです。 折口さんの神様は不定形なもので、 どろどろしているものとか、 先ほど言ったトマトケチャップに近い粘液性を持っているものですね。 それから、 イメージの原型に洞窟のようなものがありますから、 洞窟を通して、 子宮のようなものについての潜在的なイメージの集合性がある。 ですから、 折口さんはある種の幼児性と言っていいんじゃないかと僕は思いますけど。

引用おわり

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<つづく>

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04A 連載 中沢新一論」カテゴリの記事

コメント

 前作の『アーキテクチャ』が寄せ集めで、本としてあまり楽しめなかったので、今回は買わずにすませていたのですが、この機会に読んでみたら一冊の本として構成する気が起きたのかなぁと思わせました。
 それほど東さんも『想像力』に危機感を持っているということなんだろうなぁと単純に感じました。

 中沢氏と東さんの対談も面白く読ませていただきました。
 この部分は、東さんが村上隆のスーパーフラットと幼児性を無理やり結びつけて、折口の神話性との対比を試みようとしておこられちゃったところですね。
 いやはや、幼児性と神話性を対比させるって、私には全くできない発想です。

 中沢氏に柳田國男こそが折口信夫と対比されるべきと言われて、「近代的な市民」と切られるのはごまかされた気がします。
 後にくる、「日本人として通過儀礼を通った大人」としての柳田も否定されるべきではなく、そこには幼児性も含まれるわけですから、ここのところの説明はもう少ししていただきたかった。
 要するに、私たちが普通基準にしている幼児性と反対の関係である《大人》についての認識は、西洋の一神教の神と人間的な対比で、圧倒的な知識量の差によって連想されるものである。だから、安易に幼児性の反対と定義づけられるものはないのではないかと思います。
 ちなみに私が考える幼児性の反対は母性であり《生む⇆生まれる》《成長させる⇆成長する》の関係で成り立つものですから、また一般的でないと思います。

 要するに、《幼児性》の多様化について、それこそが子どもに対して広がりをもったやさしい眼差しで見る日本人的なものの見方であろうと。
 《モノ化》しようとした東さんですが、それは難しいのではないかと思いました。

 先生、この部分はトマトケチャップの説明を省くべきではないのでは?
むしろ、トマトケチャップの分析がおもしろそうですよ。

yokosawa さん>

僕は 「幼児性」 という概念で ものを考えたことがなかったので
そういう議論をすること自体 とても新鮮でした

「幼児性」 「子ども性」 「青春性」 「大人性」 などの観念を
「成熟」 という軸に沿って 考えてみる、 ということですよね

発達心理学以外、僕には これを考えてみる手がかりが・・・
なんと言いますか みつからないなぁ、 という感想をもちました
(エリクソンは 僕の修士論文であつかったテーマだったのに 泣)

まぁ そうとばかりも言ってられないので
ちょっと 簡単に 考え直してみることにします

単なるメモですので レス御不要でございます
お気遣いなきよう m(_ _)m

=====

フロイト理論には 僕も 違和感を感じますから
「成熟」 の問題が とても中心的にならざるをえない
このことは よく分かります

つまり 「主体性の確立」 という観念=制度(アーキテクチャ)ですね
これを 相対化していかなくちゃいけない、 と
(この時点で 完全に 男性中心モデルですが 汗)

そうなると 西洋近代性批判そのものになる、 と

そのため、 日本人として日本的なものを再定義するのだ、 と

で見出されるのが、 割礼と父殺しとエディプスではなく、
山と洞窟(すなわち子宮)への再突入による生まれなおしである、 と
そこにある成熟とは 父性と母性の象徴的統合である、 と

そういう感じなんですかね

しかし、 これについて どう議論を仕掛ければいいのやら…
河合隼雄先生なんかと 完全に一致する見方だと思うのですが
中沢先生の場合、 議論の場が設定されていないので
「御説拝聴」 以外になりようがない というのが残念です

=====

スーパーフラットとクール・ジャパンは
アニメ、マンガ、ゲーム、ファンタジーと 完全に整合的ですから
「幼児性」の問題につなげるのは むしろ
正統的な発想である、 と僕には思われました

そういう議論の展開の仕方があるんだなぁ、 と

=====

また長くなりました。 とりあえずのレスでございました

 いろいろ分散して書くのは何なので、まずは小泉先生のご紹介から。(ご本人の承諾なしです。ごめんなさい!)

 小泉順也(こいずみ まさや) 東京大学大学院総合文化研究所のポスドクで、教養学部駒場博物館の非常勤職員。ということは、もちろんいろいろな大学で講師もなさっています(ガンバレー 涙)
 今はゴーギャンの研究がご専門。
 でもですねぇ。私が先生が面白いと思ったのは、美術館の建物の構造や運営のご研究もいっしょになさっていて、絵を見る目で美術館を建物や光や空気ごとご覧になる。それが偏った見方ではないところです。そんな見方で世界が見られたら、いまよりもっと世界が広がりそうですよね。そんな目でアーキテクチャがミテミタイ。

=====

 「幼児性」について、私は自分が特殊だということを忘れていました。なんと、私の専門じゃないですか。
 この大学に入って私が一番初めにしたことは、自分の子どもに対する概念の整理です。そして読んだのがアリエスの『子供の誕生』とルソーの『エミール』。そして、ポストマン『子どもはもういない』。誰もやりたがらない川上先生の課題をヒーヒー言いながらやりました。
 そこで、子どもが大人にいかにして作られ、変えられてきたか勉強しましたので、私の西洋の子ども観が出来上がってしまったのです。
 もちろんフロイトもエリクソンも勉強しましたが、エリクソンで重要なのはむしろ青年期だと思っています。エリクソンは長く子どもに絵を教えてきた人ですから、子どものことももちろんわかっているとは思いますが、青年期に乗り越えられなかった自分の生い立ちを追いかけた人との印象が強いです。

 男の人がフロイトで考えたがるのは、もちろんそれ以外に幼児期からの発達段階をうまく表現できる方法がないという理由はあるのでしょうが、私には自分が最終的にこの思想をモノにして、オルガスムスを得たいと欲しているように思えます。
 
 特に中沢氏がしている思考の方法には、思考との関係においてオルガスムスを得ること、そうして宇宙と自分との関係を間近に感じることこそが最終的な目的で、その手段としてなら何でも使ってやるといった熱を感じます。
 そう考えると、なんだかみんなしっくりくる。

 そういう動物的な行動力が人を引き付けるし、めちゃくちゃしてるようで繋げてしまう頭の良さがそんな衝動を覆い隠している。

 でも、数学的にまとめようとしてるのは、やっぱり年のせいかな。

 中沢ファンには全く申し訳ないのですが、このインタビューの中でもそこかしこで醸し出されている色香が、そんな風に私に思わせます。 

 この方法で考えると何だか面白かったので、勝手に続きを書かせてください。

 思考のオルガスムスの後、私たちはどうなるのか。
 もちろん、新しい命を自らの身に宿すわけです。

 しかし、妊娠したことのある人ならだれもが経験するとは限りませんが、他者を身ごもることは激しい拒絶反応を引き起こします。自分の中にあったものをすべて吐き出さなくてはならないほどの、激しいおう吐です。
 そうして、落ち着いたころになると、自分の体が確実に変化してしまっていることに突然気付かされる。もうもどることに出来ないほどにあらゆる箇所が変化している。
 そんな変化の中で、他者はどんどん大きくなります。

 そうして、出産のとき。
 それは、死を伴うほどの激しい苦痛と負担、体力を要します。

 誕生。喜びの瞬間。
 新しい命は歓喜の中で迎え入れられ、彼もまた生産者の仲間入りをする。

 私は今度は彼の食料となり、自らの血を彼に与えやすい形に変えて与え続ける。

 そして別離。彼は独自の道で歩み始める。

 思考のオルガスムスに達することができる人間には、このような女性的で奴隷的な道が与えられる。

 なんだか、しくっりきてびっくりします。(自己満足的かも)

 中沢氏の場合、彼から生まれるものの恐ろしさを感じることのできる日本のブレインが、その影響に配慮して去勢した。
 それが日本の思想に良かったのか、悪かったのかは私にはわかりません。
 でも、中沢氏は妊娠できないところで考えることを強要されてるんだなぁと。これもまた、不妊で悩む友人をたくさんもっている私には、痛くわかってしまうのです。

 彼に不妊治療を施すべきかは難しいところですが、日本の思想が悩んでいる間に、彼のほうから居なくなってしまう気もしています。

yokosawa さん>

小泉順也さん… そういえばお名前が頭のどこかに残っています
yokosawa さんから うかがったんでしたっけね、 以前?!
いずれにせよ、 yokosawa さんが認める若き学級の徒!
きっと よいところを突いた研究をなさっているのでしょうね
縁があれば いつかお会いできるだろうなぁ、 と楽しみです

=====

yokosawa さんの中沢新一論… とってもいいですね
すごくいいところを突いていますね

おそらく 中沢先生の深いところを グッととらえていそうです

僕からしますと、 中沢先生には「目標」はないんじゃないか、 と

なぜなら「思考のオルガスムス」は 中沢先生にとって
もうすでに チベット仏教のなかで 果たしてしまったんじゃないか、 と

チベット仏教の枠内での体験がまずあって
それと同質の体験が いくつもいくつもあって
で、 それらを いろいろな言葉で表しているだけ――
僕には 中沢思想はそのようなものに思えてなりません

つまり、 コタエ/結論は もうすでに 完全に出ているのであって
何かを論じることは その顕われのバージョン(マーヤー)を
ひとつ増やしてみせるだけのこと、ではないのか
中沢先生にとっては… そう思ってきました

したがって、 僕にとって むしろ謎なのは
「なぜ 中沢先生は そんなに一生懸命に論じるのか」
ということです

すでに悟りは得ている。 「思考のオルガスムス」は得ている
再体験の技法も ちゃんと心得ている
なのに何故! 語るのか…?

僕はそこに「菩薩行」という概念がはたらいているように思えてなりません
カッチョイイところを崩さない中沢先生ですが
実はそういう ガチなところが あのおそるべき言説群を生み出す
根本的なエネルギーの発生源なのではないか…
そんな風に思うのです

 なるほど、菩薩行ですか・・・。

 中沢氏の思想はまるでモーツァルトのように前向きで明るいですよね。
 きっとそれは、バタイユの夜の思想の裏返しなんじゃないかと思います。つまり、昼の思想で世界の全てを説明する。快楽的思想と言っていいと思います。
 だから思想やってる人や学者には嫌われるのでしょう。争いや恐怖なんかも中沢氏にかかれば簡単に説明されてしまう。
 でもそうであるから彼の陰の部分が多少なりとも垣間見られてしまったオウムは、彼の中で抹殺されなければならなかった。
 彼の思想の根底をひっくり返してしまいますから。

 でも、快楽的思想で物事を考えることがそんなに罪深いことでしょうか。

 「以上のような経歴を辿ったため、私は二十歳代で平和運動のために走り回り、三十歳代でアメリカの大学で研究者の生活を送ることになった。これは幸福なことだと私は今でも思っている。確かにそれは大変な回り道だった。しかしその回り道のおかげで私は経験的世界と抽象的世界を、それぞれ突っ込んだ形で経験することができた。私は今でも経験的世界と抽象的世界との往復は、個々の研究だけに限るものではないと、思っている。経験と抽象との往復はもっと息の長い人生の過程で、繰り返すことのできるものだと思っている。このように息の長い経験と抽象との往復を繰り返すことによって、人間は骨の太い、広い視野を獲得することができるのではないだろうか。」
  ( 高根正昭 『創造の方法学』 p74 )

 中沢氏は生まれた時から宗教や思想の上で特殊な環境におかれていたし、その上自らも特殊な経験を得にいっているんですから、経験的世界と抽象的世界のバランスが非常に難しいのではないかと思います。自らの経験的世界を説明するための抽象的世界を探し回る。探しても探しても経験的世界に追い付かない。
 それが、説明し続ける理由ではないかと思います。

 しかも、経験に基づくものなんだから、それが限りなく陽であってもだれも責められないんじゃないかなぁと思ったりするわけです。
 実は彼の中にはモヤモヤがたくさん溜まっていて、そいつがどこかに隠されているに違いないという発想よりはあたっている気がします。

 ただ、ハンター×ハンターで私が言った通り、無邪気で明るい思想は受け手にとっては非常に危険ですよね。無邪気に人殺しできちゃうわけですから。
 あくまで受け手の問題だと思うのですが、特に若い人にとっては、中沢氏だけでなくバタイユも必要です。それともちろん、中沢氏とは違う経験的世界を自分は持っているんだという自覚も必要でしょう。高根先生のいう創造の方法学としての経験的世界と抽象的世界のバランスこそが、人生における自己形成の基幹となる部分なのだから。
 
 そして、それは宗教に対峙する時に持たなければならないある種の教訓みたいなものと似ていますね。

yokosawa さん>

「菩薩行」は もちろんチベット仏教 最強の徳目のひとつですね

ベタでガチな「愛」
(エロスとかタナトスとか オルガスムスとか そういうのでなく)

これを中沢先生に見いだしてしまうわけですが、 そこに
チベット仏教徒たちの あの慎ましやかで真っ直ぐな笑顔を
僕は 重ねて見てしまうわけでもあります

=====

中沢先生の「体験」を説明する言葉は もちろんもうあるわけですよね
つまりチベット仏教のコトバです

あれは まっこと! 抽象度が高いのです
中沢先生の体験は 最初から (おそらくは 生い立ちのレベルから)
かなり抽象化されているように想像します

だから 高根先生がおっしゃるような《経験》と《抽象》の腑分けは
実は 中沢先生においては それほど重要じゃないかもしれません
高根先生がおっしゃる「経験」は 学問以外の実社会活動
ぐらいの意味でしょうから

中沢先生からすれば そんなところの腑分けは
さほど重要ではないのですよ、 と やんわりかわされそうです

ある種の「悟り」の世界としての「体験」!

これこそが 中沢先生が もうすでにもっているコタエ
なんだ、と僕は想像します

もしそれが当っていれば、中沢先生のなかに
「モヤモヤがたくさん溜まっている」ということはないはずなのです

ということで、 そういう風に思い込んでいる僕としては
中沢先生は何故! 語りつづけるのだろう・・・?
と疑問で 仕方ないのです

=====

仏教には「魔境」というコトバがありますが
オウム事件を通じて
中沢先生は それを身をもって体験されたことになりますね

バタイユを上手に読めても 「魔境」は体でぶつかってみないと
きっと分からないことなんでしょうね

こうしてまた 仏教徒中沢は さらにワンランク・アップ、 と (笑)

 『あの小さな論文に少しでも取り柄があったとしたら、それは私が当時左翼の立場にありながら、硬直化したマルクスの理論に頼らなかったことではないか。新鮮な芽があったとすればマルクスにとらわれないで、また運動に決定的な影響力を持っていた共産党に遠慮しないで、経験的事実を語ったことではなかったか。それだけでなく私は運動に突っ込み、底辺のドロ臭い現場を駆けずり回ったことで、大学の研究室では、絶対に学べなかった何物かを学ぶことができたと今も信じている。その何事かとは、きれい事ではない社会の現実の中に動いている、人間関係の原理といったものである。その何事かを学んだために、経験的世界とのかかわりを失ったドグマや、美辞麗句に惑わされない物の見方を、少しは身につけることができたのではないかと思う。

 あの「思想」の論文を書いた後、私は一九六〇年の、日米安保条約反対運動に参加することになった。しかしその運動の挫折の過程で私は、左翼の運動に徹底的に愛想を尽かしてしまった。その挫折と絶望の底で私を支えてくれたものは、同じような経験をした友人たちと作った「現代思想研究会」というグループであった。あの研究会には左翼運動に絶望した優れた友人たちが集まってきた。そこで私はマルクス主義批判だけでなく、新しい近代化の理論などに触れた。そして新しい歴史観を徐々に構築していったのである。つまり経験の世界で挫折したため、私は抽象的な理論の世界に戻ることになった。それは新しい論理を獲得することによって、それまでの経験に新しい光を当てて整理し直す過程だった。私にとってその後のアメリカでの研究生活は、この回心の過程を完成させることになった。』
 ( 高根正昭 『創造の方法学』 pp73-74 )

 この前の前段部分の引用です。

 ここのところの考察はたぶん私の宗教学の永遠の課題だと思っています。
 つまり、《宗教的経験》と《実経験》の重なりと違い。そして、それによって得られたものの価値の違いと重要性の度合いについて。
 
 私たちは実世界で生きている生き物ですから、実社会での価値観でものを判断します。そして、実社会での価値観はその社会の現状によって変化するものです。

 しかし宗教的な価値観は、時に実社会の価値観とのずれを生じます。宗教的な価値観は変化はするものの、その普遍的な箇所で支えられている部分が大きいからです。

 私は私と私の周囲の人々の経験から、実社会での経験と挫折と再生によって得られたものの価値を知っています。一方で、特別な宗教的な経験は皆無といってよい。したがって、その価値については無知です。あえて言うなら、日常的に繰り返される生活の一部となっている宗教活動についてぐらいしか考察できません。

 しかし、実社会の経験によって知らされた自分の無能さと、本当に人を支えることのできるのは(無償の)愛であるという結論に、何の違いがあるのだろうと思ってしまうのです。

 中沢氏は宗教家として生きる道ではなく、実社会を生きる道を選択している。それは、宗教家としての自分の経験を持ちながら、実社会の社会人としての自分を生きるということです。そこでは共通できる部分で生きる選択と、共通できない部分を消化して生きるという選択ができるでしょう。
 中沢氏は明らかに後者です。そして、それは精神的な戦いを強いているに違いない。
 そんなふうに思うのです。

 私としては、中沢氏が高根先生のように自分の秘密を明かして、共通と違いについて知ることができたらすごくうれしいのですが、それはきっとご本人が明言するようにかなわない。

 したがって、あくせくしながらリドルマスターを目指す。
 
 やっと自分が何をしたいのか掴みかけた私の、中沢分析の今のところの結論かなと思います。

 本年中は大変お世話になりました。
 来年もよろしくおねがいいたします。

yokosawa さん>

明けましておめでとうございます
こちらこそ、昨年中は大変お世話になりました
yokosawa さんの議論が、社交辞令抜きで、このブログを書きつづけるための最大のエネルギー源になっています
今年もどうぞよろしくお願いいたします

=====

これまた すごく納得のいく中沢論ですね
『思想地図』でも これぐらい切れ味のある、本質的な中沢解説があるべきだ、と 僕は真剣に思います!
ありがとうございます

僕の想像のなかの中沢先生は いつも満たされているのですが
yokosawa さんからは、すごく苦闘している姿が見えられるわけですね

yokosawa さんは書きました:
=====
私としては、中沢氏が高根先生のように自分の秘密を明かして、共通と違いについて知ることができたらすごくうれしいのですが
=====
  ↓
この点 はげしく同意です

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