芸術と宗教
前便 「詩はどこへ行ったのか (2/2)」 よりつづく
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図らずも連続投稿になっております
これまでの議論の流れを整理しますと――
- 村上春樹さん の 《小説=物語》 論から初めて
- 「文学と宗教」 という問題設定のために
- 谷川俊太郎さん の 《詩情》 論 を紹介して
- どうやら 「芸術と宗教」 というところまで来た
―― とまぁ、 こういう具合になっております
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こうなってくると、 もはや古典的なテーマである
- エリアーデ 『象徴と芸術の宗教学』 (ダイアン・アポストロス=カッパドナ編, 奥山倫明訳, 作品社 , 2005年9月)
がすぐに思い浮かぶが
もちろん ショーペンハウエル まで 直結していくのである
ということで・・・
『松岡正剛の千夜千冊 遊蕩篇』
2006年12月8日付 「1164夜」 で
- アルトゥール・ショーペンハウアー 『意志と表象としての世界』
をとり上げているのを 紹介します
参照は、 西尾幹二訳 (全三巻, 2004年, 中央公論新社)
松岡さんは次のように書いています
『意志と表象としての世界』 では、 第3巻が芸術的解脱の可能性に割り当てられている。 そこでは、 イデア、 美、 崇高、 自然、 天才、 かわいいもの、 建築、 音楽、 性格、 模倣などが議論され、 おそらくは真の芸術行為が 「共苦」 を媒介にした世界意志の発現として、 最も可能性に満ちたものだろうと結論づけるのだ。
このショーペンハウアーの結論に狂喜したのは、 ニーチェだけではなかった。 ワーグナーこそ心酔した。 ワーグナーは詩人のゲオルグ・ヘルヴェークから 『意志と表象としての世界』 を見せられて強烈な感銘をうけ、 その後、 4回にわたって読み耽った。 のみならずショーペンハウアーその人を 『さまよえるオランダ人』 に招待し、 批評家が 『ニーベルンゲンの指輪』 はショーペンハウアーの真似事ではないかと皮肉ったときも、 むしろそれをこそ自分は実現したかったのだと言ってのけた。
さて、 「宗教と芸術」 というテーマは
現代日本人である私たちを どこへ連れて行くのでしょうか
<つづく>
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