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2009年12月17日 (木)

詩はどこへ行ったのか (2/2)

前便 「詩はどこへ行ったのか (1/2)」 より つづく

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2009年11月25日付 朝日新聞 朝刊 「オピニオン」面

谷川俊太郎さん のインタビューから 引用をつづけます

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谷川さんは 「詩情」 について語っておいででした

前便 より 中略をはさみまして 次のようにつづきます

(聞き手は 「鈴木繁」 さん。 ルビはすべて省略しました)

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<以下引用>

―― どうしてですか? 職業詩人として、 商品としての詩を書く、 と以前あえて言明されていたと思いますが……。

「確かに、 その部分でぼくは主に仕事している。 じゃあ、 それでいいのかとは思いますね。 子どもから老人にまで受ける百貨店的な詩を書いて、 自分はそれでやっていけるけれど、 他の詩人たち、 詩の世界全体を見渡した時に、 自分がとっている道が唯一だとは思いません。 詩は、 ミニマルな、 微小なエネルギーで、 個人に影響を与えていくものですからね。 権力や財力のようにマスを相手にするものじゃない。 ウィリアムズ・ブレイク (18~19世紀の英国の詩人) は、
 一粒の砂に 世界を見
 一輪の野の花に 天国を見る
 と書いています」

―― 谷川さんの詩の出発点である、 朝日さすニセアカシアに感じた自分対宇宙の感覚とつながる……。

「人間を宇宙内存在と社会内存在が重なっていると考えると分かりやすい。 生まれる時、 人は自然の一部。 宇宙内存在として生まれてきます。 成長するにつれ、 ことばを獲得し、 教育を受け、 社会内存在として生きていかざるをえない。 散文は、 その社会内存在の範囲内で機能するのに対し、 詩は、 宇宙内存在としてのあり方に触れようとする。 言語に被われる以前の存在そのおのをとらえようとするんです。 秩序を守ろうと働く散文と違い、 詩はことばを使っているのに、 ことばを超えた混沌にかかわる」

―― そういう出自からして詩は、 秩序と折り合いが悪そうですね。

「資本主義とは特に。 短歌・俳句は結社として、 作品がお金にからんだりしますが、 現代詩は、 貨幣に換算される根拠がない。 非常に私的な創造物になっています」

<中略>

―― 詩情を探す、 発見するノウハウを教えてもらえませんか。

「詩情は探すものではなくて、 突然、 襲われるようなものだと思うんです。 夕焼けを見て美しいと思う、 恋愛してメチャクチャになる、 それも、 詩かもしれません。 ぼくも詩を書く時は、 アホみたいに待ってるだけです。 意味にならないモヤモヤからぽこっとことばが出てくる瞬間を」

―― 詩人体質の若者は、 現代をどう生きたらいいんでしょう。

「まず、 『社会内存在』 として、 経済的に自立する道を考えることを勧めます。 今の詩人は、 秩序の外に出て生きることが難しい。 そうだなあ、 時々、 若者が世界旅行に行って、 帰ってきてから急にそれまでとまったく違う仕事をしたりするじゃないですか、 あれは、 どこかで詩情に出会ったのかもしれないな」

―― 社会秩序とは別に、 詩情が媒介する人間関係が、 60年代ごろまでは、 ひそかに機能していた気がするんですが、 どうなってしまったんでしょう。

「かつては、 あったかも。 でも今は本当に薄く広く、 あるいは、 部分的限定的になっていて、 掬おうにも掬えない。 金銭に換算されないものの存在感は急激に減少しています。 だから、 これからの詩はむしろ、 金銭に絶対換算されないぞ、 ってことを強みにしないとダメだ、 みたいに開き直ってみたくなる」

―― ということは、 60、 70歳になっても、 生き方としての詩人を目指せる?

「富や名声や地位から離れてからね」

<引用おわり>

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インタビュー記事も これで終わりになっています

村上春樹さん は 「物語」 について語っていましたが

谷川さんは 「詩情」 について語っています

それは 「文学」 を超えて 「芸術」 へ

さらには 「存在」 そのものへ と広がっていきます

さて・・・

「宇宙内存在」 としての己を貫く 「詩情」 ――

「世界を見」 「天国を見る」 チカラとしての 「詩情」 ――

一度 「出会った」 ら、 人生を具体的に変えてしまう 「詩情」 ――

これは 《世俗》 なのでしょうか、 《宗教》 なのでしょうか・・・

<つづく>

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コメント

 『芸術を論ずるにしろ、宗教を論ずるにしろ、また人生百般の問題を論ずるにしろ、アランがくり返し説くこところはこうである。確とした対象に基づくことなく放置された思想や夢想や創造力は、ただいたずらに空転するばかりであって、常に常に不毛でありしばしば危険なものとなる。確かな対象を持たない思考は、偶然的な観念連合の支配するところとなり、とりとめのない、いつ果てるともない自己とのむなしいおしゃべりに終始する。そのような思想は「少しも前進せず、何処にも到達することがない。」あたかもそれは、出口のないままに、観念のむなしい堂々めぐりのとりこになった不眠の夜の如きものだ。かかる思考の輪舞(ロンド)を断ちきる為に、我々は「抵抗力のある対象(もの)を自己に与える」必要がある。「真の思考、統御された思考」は、常に対象(もの)に対する思考なのだ。「強い精神は、対象(もの)を前にしてのみ熟考する。」つまるところ「人間は、対象(もの)を前にした時に於いてしか、自由でもなければ、強くもない。」「自己の前に、抵抗力のある堅固な世界を、如何なる考慮も払わない非常な世界を、常に見出す者は幸いなるかな。」
 アランにもまして、物に注目し、物を重視した者はないであろう。混乱にみち、しばしば盲動する夢想や創造力を、しかと現実に存在する対象(もの)によって、固定し、規正することに芸術の大きな効用がある。彼は『諸芸術の体系』の中でこう述べている。事物が思いのままにならないからと苛立ったりするのは、実に稚拙な考え方であろう。思考は、不屈の必然にぶつかることによって鍛えられ、強化される。強固な障害物によってこそ、初めて人は真に思考することができるのだ。芸術作品とは、すべからくすぐれて物であるという性格を持つ。「故に芸術作品は、制作され、完結し、堅固なものでなければならない。」』
(野村圭介「アランと小林秀雄―読書について―」『早稲田商学278号』pp267~268 フランス語訳、注省略)

 

『ブッダはいかなる神の存在も肯定しなかったし、ブッダにとっても、そして彼の弟子たちのうちでも迷信とは無縁だった人々にとっても、「聖なる」、「超自然的」、「超越的」といった語がなんらかの実存を示していたとは考えにくい。だが、はっきりしているのは、歴史的な仏教というものが、さまざまな段階を経るなかで、―寺院や教義や儀式や祭式、聖なるあるいはいわゆる超自然的な道具をそなえた―宗教になってきたということだ。ほぼ同じ事態が、道教あるいは儒教にもあてはまる。その出発点にはなんという叡智があったことだろう。時代の変転につれてどれほどの迷信がそこにまじりこんできたことだろう。信じたいという欲求は、どこでも、自由を求める欲求にまさってしまうのだ。』
(アンドレ・コント=スポンヴィル 『精神の自由ということ 神なき時代の哲学』p14)

 
「ことばにするとおおげさですが
 人はみんな根っこのところで
 つながっているはずだ、と
 願いのように思っています。
 その根っこの部分に
 民話や、異形や、言い伝えがある。
 初めて聞くはずの物語や
 見たことのない風景を
 懐かしく感じるのは、
 きっとそのためだ。
 だからといって、みんな
 わかりあえるわけではないけれど、
 それはやっぱり光です」
(漆原友紀『蟲師10巻』裏表紙)

yokosawa さん>

実に的確な引用 ありがとうございます
とくに 漆原さんのは 授業で早速使わせていただきます (笑)

=====

まさに ここで言われているようなことだと思うのですが
むしろ、 「宗教家」「信者」の皆さんのなかに
この考え方 (普遍的であるがまったく人間的な聖性の観念) を喜ばしく思いませんね

要するに、 ここで言われているような感性とは
世俗主義者のための存在論=宇宙論
なんだ、 と考えています

つまり、 ひとつの「宗教」である、 と
したがって、 他の「宗教」と衝突するのだ、 と

    愛      谷川俊太郎
       Paul Klee に

 いつまでも
 そんなにいつまでも
 むすばれているのだどこまでも
 そんなにどこまでもむすばれているのだ
 弱いもののために
 愛し合いながらもたちきられているもの
 ひとりで生きているもののために
 いつまでも
 そんなにいつまでも終わらない歌が要るのだ
 天と地とをあらそわせぬために
 たちきれたものをもとのつながりに戻すため
 ひとりの心をひとびとの心に
 塹壕を古い村々に
 空を無知な鳥たちに
 お伽話を小さな子らに
 蜜を勤勉な蜂たちに
 世界を名づけられぬものにかえすため
 どこまでも
 そんなにどこまでもむすばれている
 まるで自ら終わろうとしているように
 まるで自ら全いものになろうとするように
 神の設計図のようにどこまでも
 そんなにいつまでも完成しようとしている
 すべてをむすぶために
 たちきられているものはひとつもないように
 すべてがひとつの名のもとに行き続けられるように
 樹がきこりと
 少女が血と
 窓が恋と
 歌がもうひとつの歌と
 あらそうことのないように
 生きるのに不要なもののひとつもないように
 そんなに豊かに
 そんなにいつまでもひろがってゆくイマージュがある
 世界に自らを真似させようと
 やさしい目差でさし招くイマージュがある
              ―詩集『愛について』


 いちばんはじめの章で触れましたが、「芝生」という詩に、
 ・・・・
 なすべきことはすべて
 私の細胞が記憶していた
 ・・・・
 という行があり、「いったい何を記憶していたんですか?」と作者にたずねてみるなんて野暮はしなくても、ちゃんと詩集のなかに解く鍵がひそんでいると書きましたが、その鍵が「愛」だと私は思っています。
 ―パウル・クレーに―という副題がついているので、この詩を画家、パウル・クレーに捧げたいという意思をはっきりあらわしています。クレーの絵の何かを見てハッとし、それにうながされて出来あがったからでしょうが、しかし、作者はここで自分自身をもよく語ってしまっています。詩を書くいわれ、そして、覚悟のようなものを。
 ― 中略 ―
 しゃにむに書いてゆくうち、なんのために生まれてきたのか、自分はどんな詩を書いてゆくべきかがつかめてきたように見えます。この世には面をそむけるような残酷なことが平然とおこなわれ、その反面、涙のにじむようなやさしさもまた、人知れず咲いていたりします。無残に断ちきろう断ちきろうとする強い力がある半面、結ばれよう結ばれようと働く力もまたあるのでした。たぶん芸術というのは、この結ばれようとする力に、美しい形をあたえ、目にみえ耳にきこえるようにしたいという精神活動の一種なのかもしれません。
 モーツァルトの音楽をきくとき、私たちの全身をひたしてくるこの世ならぬ恍惚感、百済観音のほほえみにひきよせられてしまう心、舞踏の跳躍や静止の一瞬に魂をうばわれるのも「世界に自らを真似させようと、やさしい目差でさし招くイマージュ」に誘われるためでしょう。イメージのフランス語よみがイマージュですが、そういうものがこの世に一つもなかったとしたら、どんなにさびしく砂かむ思いの日々でしょうか。
 谷川俊太郎はパウル・クレーの絵にことよせて、自分もまた、そういうやさしさだけに加担したいと言っているようにみえます。つい最近も「ぼくは妖精のように人々に間をとびまわっていたい」と書いています。女の子ならともかく、大の男が妖精とは?
(茨木のり子『詩のこころを読む』pp156~161)

yokosawa さん>

これまた 大変よく的を射た引用紹介 ありがとうございます

使えます 使えます (笑)

宗教学者としては、こういうことを 宗教家、宗教団体に ちゃんと反応してほしい、とうながす役割もあるだろうな、と思っています

=====

しかしそれにしても 『思想地図 ④』を読んでいるんですが…
ビックリするくらい宗教の話が出てきません

日本の「論壇」では もぉどうでもいい話なのだなぁ、と再確認です

 この前の週刊ブックレビューの合評のとき、写真家の今森光彦さんが「人間は(里山の樹ような)あまりに完成された対象(もの)の前では、予測は不可能で受け身になるしかない。しかし、起こってしまった物事に適応していく作業を繰り返すことは、成長に欠かせないことなのだ。」みたいなことをおしゃっていました。
 なるほど、世の中で一番完成された形というのは、何千何万という時を経て作られた、人の手以外の力で出来たものなのだと今更思いました。
 だとすると、人はなぜそれらに近しいものを作り上げて、美しいとかいとおしいとかいう感情を持って愛でたのでしょう。
 また、なぜそれらのようで、それらではない《自分好みの》対象(もの)を作り上げて観賞していくようになったのでしょうか。
 私には、これは自然への畏敬と挑戦に思えるのです。いや、畏敬であったものがいつしか挑戦になったのでしょう。いのりから支配への変化といってもいいのかもしれません。
 しかし、自然への挑戦は科学にとって代わられ、次第に芸術は人の内面深くに潜り込むようになった。
 そうして内面に潜り込むと気付かされるのは、人も人以外のものに作られた対象(もの)であり、どこかで全部につながっているけれど、一方でどこから生まれたかどこに行くのかは全く分からないということでした。
 さて、私たちはいったいどこに行けばよいのか。何を基準に生きるべきなのか。
 それが見えないし、それを真剣に考えることもままならない。それなら、今を考え、今あるものを基準に、過去の歴史を振り返る。それが今の芸術ではないかと思っています。いや思想そのものがそうなっている。だから、どうしても自然に挑戦し続ける科学に期待し、科学を中心に発展を夢見るのでしょう。

 でも、科学は解明はするけれど、つながりを保つことはできません。
 そこで必要なのは、宗教であり芸術である。

 『神学と文学はまた共通の敵を持つ。その敵とは、多くの人々がキリスト教信仰の本質を理解させるのを妨げる直写主義である。この直写主義は、今では広く行きわたっている。英国国教会の主教評議会は次のような苦情を述べたことがある―
 今日の西洋の庶民文化は、言語をきわめて単純化した見方をしている。この見方に立てば、いわゆる「事実に基づく」陳述のみが客観的真理を伝えることになって、「隠喩」、「詩」、「象徴表現」などは、精神の中に存在する観念にしかあてはまらない。こうなると、例えばある物語を「象徴的」と呼ぶことは、その物語が作り話であり、それが表現しようとしているものは全部が全部人間の精神のなかに存在するものであることを、内意するものと考えられる。そして二つの内意はともに正しくない。』
(T・R・ライト『神学と文学 言語を機軸にした相関性』p14)

 純粋に精神世界を支えようとする宗教と文学が、ともに衰退している理由の手掛かりが欲しいと思って読み始めました。著者は文学批評家で、神学との言語の違いに四苦八苦しながら書かれたようですが、神学の分からない私にも読むことができてありがたいです。こういう仕事ができる人が未来を拓くんだろうと思いました。

yokosawa さん>

大変説得力のある、すばらしい文章です
感銘をうけました

以前からうかがっていた、yokosawa さんの芸術と宗教への視角が、やっとすっきりわかったように思います
その意味でも、われわれのやり取りにとって、大変重要な文章になるように思います

yokosawa さんが「精神」と呼ぶもの――
ここに、すべてがギュッとつまっているように思うのです

ホントに素晴らしいコメント、ありがとうございました

ライトの本も、もちろん読んでみますね

 「世に不思議は多けれど
  どれほど奇天烈
  奇々怪々なデキゴトも
  
  ヒトが居なければ
  ヒトが視なければ
  ヒトが関わらなければ

  ただのゲンショウ
  ただ過ぎていくだけの
  コトガラ

  人
  ひと
  ヒト

  ヒトこそ この世で
  最も摩訶不思議な
  イキモノ」
  ( CLAMP 『HOLIC16』 p46)

 ほんとうに、何か描きたい人のほとんどが漫画家になってしまっているのかと思うほどいい漫画が多くて困ります。

 せっかく誉めていただきましたが、まだまだですよね。ああ、でも自分の教え方で満足かと何度も尋ねながら、ほんとうに良く教えて下さった小泉先生には感謝です。先生の印象派の課題のために読んだ本は本当に役立ちました。
 なんとか繋がりはしましたが、きちんと説明できるようにするには足りない部分が多すぎます。
 なにより、ゲイジュツカと呼ばれている人たちは、そういうことが好きで、そういうことのために生涯をささげているわけですから、一般の人たちにとって、その考えが通用するわけではないということ。
 この部分を切り離して考えたくないと思っています。

 それと、私は日本人であり、育った環境の影響を取り払って思考することはできないので、私という人間が受けている影響についての考察をしなくてはと思っています。

 少なくともこの2つはクリアしないと、きちんと考えたことにはならないよなぁと今は考えているところです。
 だから、今になって折口から始まってレヴィ=ストロースにいって、原始宗教からチョムスキーにいった中沢新一先生の軌跡はすごくよくわかる。それは通らなきゃ《つながり》について理解できないだろうと感じられるようになりました。
 私は次はダーウィンとローレンツを考えたいのだけれど、このあたりから違ってきてほしいなぁと。でもとっくに考えてるんだろうなぁ。

 今日はイブなのに、仕事の研修で地方自治の分権政策法務について勉強してきました。法律はもちろん人のためにあるルールだけれど、法律では人は幸せにはなれない。やはり人間の幸福を形作るのは、人がひとのためにいかに法律を使えるかにかかっている。
 そんなふうに思いました。
 だから、宗教も大切ですよね。

 ということで、メリー・クリスマス!

yokosawa さん>

CLAMP は ホントに評価が高いですね
僕は 例によって 読んではいないのですが・・・

=====

小泉先生というのは・・・?
僕もぜひ勉強させていただきたいので、お名前や所属など、教えていただけませんか

とりあえずの 遅遅(オソオソ)のレスでした (*_ _)人ゴメンナサイ

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