神智学とインド国民会議
インド国民会議 (Indian National Congress)
最初の会合は 1885年のことだった
その開催に奔走し プレジデントとして開会宣言をおこなったのが
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で、 以下の本から ちょっとメモ書きです
- 北原靖明 『インドから見た大英帝国: キプリングを手がかりに』 (昭和堂, 2004年1月)
[ヒュームは] 1849年インド政府の官吏として北西州に勤務した。1870年新設の中央政府租税および農業商務担当長官になり、 シムラやカルカッタに住む。 1879年インド政府の政策についての大胆な発言のゆえか、 リットンにより地方に転出を命じられた。 大反乱当時彼は、 九死に一生を得た恐怖の記憶があった。 以来インド人に対する安全弁が必要、 と考えるようになる。 この頃すでにヒュームは、 インド議会制を思案している。 インド人の政治的教育が、 彼の心を占めていた
99頁 (漢数字はアラビア数字になおした)
さて ここであらためて注目したいのは
そんな彼が 神智学の 「虜になった」 という点だ
引退後のヒュームも、 シムラの定住者だった。 彼は、 シムラでも最高所にあるジャク・ヒルに豪壮な屋敷を構え、 鳥類の剥製を集めていた。 やがてアメリカ人オルコット大佐 (Olcot, H.) やロシア人女性ブラヴァツキー (Blavatsky, H.) が来て、 神智学 (Theosophy) の普及を始める。 ヒュームは、 その虜になった。 ベサント (Besant, A.、 1847-1933) が来て仲間に加わり、 インド女性解放運動に携わるのは、 少し後の90年代のことである
116頁 (アニー・ベサントについては 次便)
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《神秘のインド》 への関心と インディアン・ナショナリズム――
神智学と インド国民会議――
この独特の ねじれた接続を確認しておきたい
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