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2009年12月 2日 (水)

宗教的権威に祭りあげられたもの、 あるいはまつろわぬ部分

連載 「宗教学の積極的解体」

前便 イントロから 間があきましたが 本編一本目です

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近代合理主義の枠組みのなかで 宗教を語る――

宗教学は いつもこの難問に ぶち当たってきた

宗教学者は 認識主体/世界の主人であると

自認するのかしないのか

この問いの立て方自体 間違っていたのではないか

つまりは 宗教学のパラダイムとしての唯物論/無神論

もちろん 宗教否定ではない唯物論/無神論

《モノ》 がうごめく無神の世界における 脱 「人間」 の走査線

それが 措定されるのであれば

宗教学はあらたな可能性をつかむ・・・ かもしれない

「人間中心主義」 の問題性とは, いいかえれば 「近代化」 という世界的運動が作りだしたかに見える 「無神論的」 世界の問題でもあります. 人間はもはや何ものにも頼らずこの世界の主体であり, 世界が自分のためにあって, 自分が世界の主人であることを疑いもしません. けれども 「戦争」 の 「ニモカカワラズ」 は, この 「人間」 に 「まつろわぬ」 部分があることを露呈させるのです. つまり人間は, 自身がそうだと規定する 「人間」 に収まらず, その規定によって排除されてしまう部分を含んでいる, 人間は 「人間」 として完結しえない, ということに思いいたらざるをえません. 要するに 「人間」 を作りだしたのは 「人間」 ではない, という自明の理に, 人間は世界を呑み込む戦争によって気づかされたのです. かつてはその 「まつろわぬ部分」 が, 人間を超えるなにものかとして, 宗教的権威に祭り上げられたのでしょう. けれども近代の合理精神によって 「神」 が 「解雇」 されたとしても, かつてその権威を賦活していた闇の部分が消滅したわけではありません. 近代の合理精神はそれにふたをしただけなのです

55頁

  • 西谷修 『夜の鼓動にふれる: 戦争論講義』 (東京大学出版会, 1995年4月)

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別エントリ

  • 「生命それ自体の無目的の消費」 (後日アップ)

も 併せてお読みください 

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01E 宗教学の積極的解体」カテゴリの記事

コメント

一般法則論のブログを読んでください。
    一般法則論者

一般法則論者さん>

ご自身のブログのご紹介、ありがとうございます
大変な文章量で びっくりしました

=====

さて、私はガンディーにいろいろな影響を受けました

ガンディーは「神」(イーシュワラ)は 完全に実在する!と断言していました

そして、僕が上で述べたことは、ガンディーに反して
宗教学者として、神の実在を否定する――
そうした可能性を述べたものでした

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