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2010年1月 9日 (土)

中沢新一と諸星大二郎

こちらのエントリのコメント欄で

yokosawa さん と交わしたやり取り――

中沢新一は苦闘しているか (yokosawa)

それとも 充足しているか (コンドウ)

という それ自体としては 結論が出るはずもない

そんなやり取りを させていただきました

====================

僕の空想では 中沢先生はとても充足している

その充足した感じを よくあらわす表現が

こちらの便 で紹介した 『ユリイカ』 (諸星大二郎特集号) に

ありましたので、 ちょっと紹介してみたいと思います

  • 夏目房之介×都留泰作 「徹底討議 不定形な世界に魅せられて: 諸星大二郎の うまさの底にあるもの」 『ユリイカ 2009年3月号』 (特集: 諸星大二郎, 第41巻第3号, 通巻563号, 2009年3月, 90-103頁)

都留  『生物都市』 の頃からひとつの理論みたいなものが諸星さんのなかにあってそれを無限に展開させていくということなのかなと思います。 同じなんだけどワンパターンではなくひとつの理論があって、 その理論のいろんな方向からの説明みたいな雰囲気なのかなと。 理論といっても人間理論というか、 『生物都市』 もそうなんですが諸星さんには集合無意識的な考え、 人間の根源には集合的にみんなが持っている原型みたいなものがあってそれからだんだん派生してきているんだというイメージがきっとあって、 これをいかに説得的に人に見せるかというのが最初からあったのかなと思うんです。 諸星さんにとって、 人間がごちゃごちゃに固まってひとつのどろどろとした塊になるというイメージが強いオブセッションとしてあると思うんですけど、 それが中国の思想と結びつくと 「無面目」 とかの中国物になって表れて、 民俗学の知見と結びつくと 『妖怪ハンター』 のようなかたちになって、 いろんな方法で諸星さんの人間理論みたいなものを展開しているというイメージなんですね。 (97頁)

「同じなんだけどワンパターンではなくひとつの理論があって」

「いろんな方法で人間理論みたいなものを展開している」

僕のなかの中沢先生イメージは

ちょうどこんな感じです

蛇足ながら 中沢先生は 諸星先生の大ファンでいらっしゃる

『諸星大二郎 西遊妖猿伝の世界』 (絶版) 参照です

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【メモ】 『生物都市』 は 『彼方より』 に収められている

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04A 連載 中沢新一論」カテゴリの記事

コメント

 見田 『 -略-
 僕の考えでは、中東問題に代表されるような、民族と民族、宗教と宗教というような国際間の相克性の乗り越えがたさそのものを描き、しかも批判的にとらえたのが、D・H・ロレンス(1885~1930)の『アポカリプス』(1930)だと思います。その中味は省きますけれども、ロレンス自身はそれを乗り越え得ると考えているのか、乗り越え得ないと考えているのか。『アポカリプス』を読むと、最後の章で、彼がほとんど死の寸前、体力が尽きる寸前で遺言のように書いた断章で、その先のことを書いている。それまでの章では、和解しがたい民族間・宗教間などの怨恨と復讐の心理のすさまじさと深さを冷徹に描いているわけですが、それに対して彼は最後に何を書いたのか。その内容は、いきなり「われわれは太陽系の一部である」とか「われわれは地球の生命の一部である」とか「われわれの体の血管を流れているのは海の水である」とか、そういう断片です。そんなことをいわれても説得力が全然ないんですけれども、僕自身は、ロレンスが何をいいたかったのかなんとなくわかる気がする。僕は非常に納得する。人を納得させることはできないんですけどね(笑)。ただ、最終章の「われわれは太陽系の一部である」とか「われわれは地球の生命の一部である」とか「われわれの体の血管を流れているのは海の水である」ということは、どれも自然科学的に真理なわけです。それはバタイユ(1978~1962)が構想した「普遍経済学」に通じるものがあります。これは普通の経済学とは違って、太陽エネルギーに始まって、地球の生命が生まれ、そこで植物や動物が誕生し、植物を食べて動物が育ちというような、さまざまなエネルギーと物質との生産と流通と消費の過程を、経済学的にとらえようとしたものです。バタイユは、ロレンスのイメージを、もう少し精密にやろうとしていたと思うんですが。要するに、ロレンスが死の間際でわれわれに伝え残そうとして力尽きた断片をイメージしてみると、もし国際間の相克性をさらに下支えするシェアード・バリューがあるとすれば、そのようなものではないか。つまり、ネーションを超えるユニヴァーサルな市民社会というものを下支えする、ある種の交響性、シンフォニティに対する人々の認識と感覚のようなものがあり得るのかもしれない。そういった三つのことを考えました。」
( 見田宗介×大澤真幸 「名づけられない革命をめぐって 新しい共同性の倫理」 『atプラス02』 pp13‐14 )

 《国際間の相克性をさらに下支えするシェアード・バリュー》
 《ネーションを超えるユニヴァーサルな市民社会というものを下支えする、ある種の交響性、シンフォニティに対する人々の認識と感覚》

 見田先生にもロレンスにも説明できない、バタイユが経済学において説明を試みたもの。
 中沢氏が、そして諸星大二郎が説明しようとしているのはそういうものではないでしょうか。
 だからこそ、人々に納得させるには説明に次ぐ説明が必要である。

 それは自己の中にも不変であるがゆえに、自己の意識の深くに隠されている。
 私はそんな風に思うのですが・・・。

 この文章は先生にもぜひ読んでいただいて、いっしょに考えてみたいなぁと思いました。
 資本主義と経済と思想と宗教を繋ぐためには、ゲゼルシャフトとゲマインシャフトを利用すべきと去年考えていて、コメントにも芸術のところにちらりとかきましたが(5月ごろ)、とっくに見田先生にされてました(涙)
 見田先生は大胆に使われているなぁと思いましたが、拡散しないためにはいいのかな。私はもう少し経済学寄りに考えていました。でもやっぱり、すごいなぁ。
 公共性についてもとても参考になる文章でした。本気で民主主義の立て直しを考えていらっしゃることがよくわかります。

 そのうえ、人間が《世界-内-存在》であること、ローギッシュとオントローギッシュについてを民主主義から考察するなど、すごくイメージをもらいました。

 ぜひぜひ、読んでくださいませ。

yokosawa さん>

いつもありがとうございます。ちょっと週末バタバタしておりまして(ある発表原稿にめちゃめちゃ苦労していて)、お返事がおくれました

=====

なんという偶然でしょう!
『atプラス』を先週まとめ買いしたばかりなのです!
まだ読んでいませんが、月曜の昼、大学の研究室に届いてるはず

ぜひ読んでみますね
そして、ぜひ議論いたしましょう

=====

見田先生のおっしゃろうとしていること、僕にもわかります
そして、中沢先生も ちょうど同じようなところを見ていることも
yokosawa さんの表現も 僕にはよくわかります
「自己の中にも不変であるがゆえに、自己の意識の深くに隠されている」

諸星画伯はどうか それはちょっと分かりませんが (笑)

閑話休題――
諸星画伯の『西遊妖猿伝』、うちの史学科のY先生が
ちょっとしたアドバイザをやってらっしゃるんですって
この夏、画伯と編集者とお会いになって
その後、諸星作品がどっさり贈られてきているんだそうです
「諸星さんは、ホントによく勉強なさっている」
と 言っておられました

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