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2010年1月10日 (日)

共同体の開かれ、 あるいは外部への憧れ

ヒトの 「成熟」 に関する現代日本の代表的な思索には

どうも いつも違和感がある

「成熟」 を語る思想家が まさに未成熟なのではないか…

オトナになれないオトコが ごちゃごちゃ語って

背伸びをして 足掻いているだけなんじゃないか…

この疑惑が 重大なのは 僕みたいな者から

それが提出されているから に他ならない

僕こそ他人のことは言えないトッチャンボーヤで

だから 学者なんていうのをやっているわけで

ホントに アホなピーターパンみたいな人間なのだから

そんな僕に その未成熟を疑われる思想とは…

====================

ということで、 次の文章を読んだとき

僕は わが意を得たりとばかりに 膝を打ったのでした

  • 中田健太郎 「共同体の開かれ: 無為なるものへの想像力について」 『ユリイカ 2009年3月号』 (特集: 諸星大二郎, 第41巻第3号, 通巻563号, 2009年3月, 165-75頁)

諸星大二郎の短篇

  • 「夢の木の下で」 (『夢の木の下で』 所収)
  • 「塔に飛ぶ鳥」 (『私家版鳥類図譜』 所収)
  • 「城」 (『ぼくとフリオと校庭で』 所収)
  • 「流砂」 (同上)

などを評する文脈での文章です

 共同体の外部への憧れについて書きすぎることは、 時宜をえないことだと思われるだろうか。 実際、 そうなのかもしれない。 だれもが、 共同体・国家の管理機能について語っている現在である。 共同体内での権力闘争をうまく乗りこなすことが、 ある種の文学論や人生論のモチーフとして (「成熟」 の問題として) 流行しているというのも、 おそらく本当なのだろう。 もちろん、 共同体の内部について語ることは、 意味のないことではない。 しかし、 言うまでもないことだが、 包摂と排除にもとづく共同体は必然的に外部をもつものであり、 その意味でも共同体をめぐる議論は、 外部への想像力を欠いてはならないはずである。 だから、 共同体の外部への視線を失い、 内部の権力闘争と規律管理だけを問題とするような反動的な思考には、 ここではっきりと否定の意志を示しておきたい。

167頁

「内部の権力闘争と規律管理」 には

「アーキテクチャ的支配」 を加えてよいでしょう

次の段落には こうあります

 外部への憧れを捨てることを 「成熟」 と呼ぶほど、 幼い思考もないだろう。 生きることと諦めることを、 混同する必要はないのである。 もちろん、 人は自分の共同体を捨て去るべきだというのではない。 そうではなくて、 他の共同体へと思いを馳せる想像力を保ちつづけることで、 つねに自分の属する共同体を、 そして自分の生を、 相対化していくことこそ、 変わらぬ成熟のかたちなのである。

168頁

こういう文章を読むとき

僕の共同体内在的な即自性を揺るがし壊してくれた

インドをはじめとする 数々の外部との出会いに

アリガタヤの感情をおさえることができません

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