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2010年1月 5日 (火)

詩情・心理学的機制・神秘体験

以前 「詩はどこへ行ったのか」 という記事のなかで

朝日新聞に載った 谷川俊太郎さん のインタビューを

紹介しました

その中に 次のようなやり取りがありました

―― ことばじゃないものにも詩情があるということでしょうか。

「ぼくが生まれて初めて詩情を感じたのは、 小学校4年生か5年生くらいのころに隣家のニセアカシアの木に朝日がさしているのを見た時です。 生活の中で感じる喜怒哀楽とはまったく違う心の状態になった。 美しいと思ったのでしょうが、 美しいということばだけで言えるものではなかった。 自分と宇宙との関係のようなものを感じたんでしょうね」

こうしたコトバを足掛かりに

「芸術と宗教」 なんていうエントリまで行き着き

芸術体験と宗教体験の通底 (あるいは同一性) を

ほのめかしました

====================

しかし、 そんな通底可能性なんぞは 実は

宗教学者の妄想なのかもしれません

次の文章を お読み下さい

  • 呉智英 「懐かしさと不気味さと: 諸星大二郎の 「原風景」」 『ユリイカ 2009年3月号』 (特集: 諸星大二郎, 第41巻第3号, 通巻563号, 2009年3月, 87-9頁)

「私の故郷」 シリーズは、 『週刊漫画アクション』 (双葉社) 誌上で一九八一年に始まった。 「人気漫画家競作シリーズ」 と副題されているように、 著名なマンガ家たちが自分の故郷、 幼い頃の自分をカラーで描いた折り込み口絵のシリーズであった。 その多くが、 というよりも、 諸星大二郎を除いた全員が、 自分の育った地方都市を、 田園を、 下町の風景を、 懐かしく美しく描いていた。 ところが、 諸星だけは、 異様な光景を描いた。 一九八二年三月四日号である。 諸星が描いたのは、 彼が幼い頃過した東京足立区の荒川土手の風景であった。 それは、 当時の荒川土手を知らない私にも、 激しく郷愁をそそられるほど懐しく、 それでいて異界へ誘い込まれるような不気味さを湛えていた。 感受性豊かな少年は、 自我が芽生えだした頃、 周りの風景が奈落のような深みに浮いているのを見ることがある。 恐らく、 自立し始めたばかりの自我が外界の遠近法をとりそこね、 不安定な孤絶感を味わっているからであろう。 そんな幼い自分と故郷を、 まるごと懐しんで描いているのであった。 (88頁)

諸星大二郎画伯 による 「異様な光景」 の一幅

「異界へ誘い込まれるような不気味さを湛えていた」 風景画

これは 谷川さんの 《ニセアカシア体験》 と同様のものでしょう

「私の故郷」 に少年時代の懐かしさと異界への不安を見た私の直感

とも書かれています (89頁)

しかし、 僕とは違って

呉智英さん は この体験を 完全に心理学的なコトバで

説明しさります

それは、 宗教体験への通底可能性を回避した説明です

《詩情》 《心理学的機制》 《神秘体験》

この三者を どう構成するか―― そこが問題なのです

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01C 宗教と世俗のあいだ」カテゴリの記事

01D 世俗の宗教学」カテゴリの記事

01E 宗教学の積極的解体」カテゴリの記事

コメント

 先生のはじめの宗教を学ぶとはどんなことかという課題で、私が宗教と哲学と心理学の3方向モデルを提示した時、開口一番「そんなのまとまらないからやめなさい。」と言われてしまった。
 実は私はあれを今でもあきらめきれないんですよね。

 それぞれが宗教的なものの説明をしているわけで、その力関係と時代性をかんがえるとすごくおもしろいし、宗教を学ぶ上で、宗教学的視点(神学的視点)、哲学的視点、心理学的視点から見るのはすごく大切だと思うのです。

 しかし、心理学は心理学と臨床心理学が仲が悪すぎですよね。ピアジェもほんとおもしろいんですが、ユングとピアジェがいっしょに考えてくれたらって願ってしまうんですよね。より科学的な目で見てくれないと心理学でなくなるけど、心を扱っているんだから大胆に推理する力量もたいせつだろう。
 そんな仲の悪いのいやねぇなんて、今年の夏ある先生と話ができたのは楽しかったです。たぶん、若い先生たちはもっと広いところでものを考えたがってるんだろうなぁと思いました。

 ところで河原の話ですが、私は自分ちの近所の川でハゼ釣りなんて夏から秋にかけての大好きな遊びでしたし、自転車でどこまでも遡ったり、海まで行ったりしたので、たぶん東京のそのくらいの川事情は分かっているほうだと思います。その当時の川は本当にすごくドロドロしたところでした。だから、心理学に説明できない部分ももちろんたくさんありました。

 私は勝手に、川上からいろいろな命を吸い込んでここまで来ているからこんな風なんだろうと思っていました。そのうえ、死体が上がるなんてしょっちゅうだった気がしたし、同和の部落跡なんかもあったりして、いろいろな意味でほんと呪われてる感じでした。父は私が川で遊ぶのを嫌がりましたし、今でもあまり好きではありません。それは東京大空襲を知っているです。(これは隅田川だから荒川とは別ですが・・・)

====

 先生はインドに行かれるのですね。やっぱり、現地に行かれるとすごく勉強になるんでしょうね。がんばってください。

 全然関係ありませんが、遠藤周作つながりで、私は長崎に一人で行った時、黒崎教会に行ったことがあります。今みたいにきれいになる前であちこち改修工事中で、それを知ってかバスで1時間もかかるからか、あたりには私一人しかいなくて、なんだかタイムスリップしたみたいな感覚になりました。
 そうして、なにより、海が深くて黒いのです。
 
 平戸の明るくて美しい海を知っている私は、余計に声も出ないほど、ひきつけられて恐くなりました。

 きっと、ここだから書いたんだと思いました。


 

yokosawa さん>

覚えてます
「哲学・心理学・宗教」の三者の 統合的理解
そのようなことを 課題としてかかげる、とおっしゃったこと

そして、僕が「それはでか過ぎますよ」 と言ったこと

あれから1年以上経ちまして、こうして yokosawa さんの勉強具合や
お考えなどをうかがった今でしたら
ぜひやってみましょうか、と 申し上げるところです

ただしこの場合も、具体的な対象と切り口が必要だ、と思います

たとえば、僕が紹介させていただいているような
現代日本の芸術作品と作家活動のいくつかを通して
「詩情・心理学的機制・宗教」の相互構成を明らかにする
といったことです

理論的な課題に 抽象思考で応じるためにこそ
こういう具体的な対象を ギリギリと詰めていくのが
必須だ、と思うわけです

僕としては、ぜひやってみたい、と思っています
僕のなかでこれは、「宗教政治学」確立のために必須の課題です

いわゆる「政治」を裏から照らし出し、支えるのが
この領域だ、と見通しているからです

=====

そして、心理学的機制というとき
まさに yokosawa さんがおっしゃるとおり
科学的アプローチが 絶対必要ですね

ピアジェからさらに先に行って、大脳生理学や解剖学
生化学、生物理学などまで
現代の思想家は ゼッタイに 知っておかなくてはいけない

あぁ、しかし、これは なんて大変な課題なんでしょうか
気が遠くなります

=====

隅田川体験、黒崎の海体験のお話は とても興味深いです
こういうのはもはや感性のレベルですから
なかなか わかってもらえないんですがね (笑)

ただ、「心理学に説明できない部分」というのは
具体的に なんでしょう?
心理学的説明は 相当なことまで 全部説明しさることができますが・・・
そこからも “もれることのできる部分” とは?

 今でもはっきり覚えてますが、先生はそんな言い方ではなくて、今すぐそんな考えは止めなさいみたいな勢いで、全否定したんですよ。
 私は、私が宗教について大きく見誤っているかすごく悩みました。それによって宗教学という学問について嫌疑的になったことは否めません。
 まあ、くよくよする性質ではありませんが。

 心理学(特に臨床心理学)が説明できるのは、ある個人の一瞬にしかすぎず、その一瞬でさえありとあらゆるフィードバックループを説明している訳ではありません。
 それでは、例えばある人物に対して、優れた科学で解明した一瞬と一瞬を(つまりベクトルを)繋いで一個の推定された人格が作り上げられたとして、それは本物の人格になりうるでしょうか。

 私は答えは否だと思います。

 人が人について完全に説明することなど、自然についてと同じでできるはずはないのです。
 そしてそれは、現場の先生たちが一番御存じなのではないかと感じます。聞いてみるといいですよ。

 先生はなぜ宗教を勉強されているのですか?
 ひとのこころの解明がしたいのなら心理学を学ばれたらいい。
 政治について詳しく知りたいのなら、政治学を学ばれたらいい。

 私が宗教に興味があるのは、そこにひとが希望を見いだしているからです。
 「信じる」という行為について、私には理解できない部分、説明できない部分が本当に多いからです。

 信じる価値とはいったいなにか。
 信じる価値によって得られるものは何か。
 信じられない恐怖が人をどう変えるのか。
 そして、宗教によってその恐怖がどのように乗り越えられるのか。

 これが心理学に説明できると思いますか。

 以前にも書きましたが、私は脳について非常に懐疑的です。脳は全てのものを説明するために、ありとあらゆるものに記号を付けて簡略化し整理をしようとしてきた。
 それが本当に正しいのか、それさえもわからないまま、理解できるという支配的な快楽のために。

 私は細胞は思考していると信じていますが、細胞は常に破壊と再生によって作り代えられています。新しいものに生まれ変わり、新しい何かを考えられるようになること。以前考えていたものは体ごと捨て去られること。  ― この重要性

 私の友人があるラボで実験助手をしていて、そのラボではなぜ細胞が破壊される必要があるのかという、細胞破壊のメカニズムを研究していて、再生のシステムよりも今はそちらが重要視されているという話を聞きました。

 何度も何度も生まれ変わる地球上のすべての生き物の細胞。
 そして、破壊される一方で、再生することのない肥大する脳細胞。

 人は物語のように、自己の中で生き死にする身体を捨てて、脳だけで生きていけるものでしょうか。

 私の河辺と黒崎の経験は、周囲の世界を自分のすべてで感じ取った世界観です。
 それをおいそれと説明されては困る。
 結果に説明を付けるのは簡単ですが、それを大多数の人がなるほどと思うことと、実際では大きな差がある。
 むしろ、経験者の体験の中にはえぇっと思う何かが起きているはず。

 そうでなければ、創作活動なんてものは、つまらないものになり下がるのではないでしょうか。


 
 

そうでしたね
もっとキツい言い方だったですね
失礼しました

教育者としては まだまだ修行が足りませんね

=====

僕は 宗教学をやっているわけではないのです
なんか 前にも書いたような記憶がありますが
僕がやっているのは 《ザ・思想》
《人間=社会=歴史・学》 です

この領域の入り口が宗教学であり
現在の職業が宗教学者であるので
宗教という切り口、 宗教という実態ではなく
宗教というコトバで呼ばれるところのものを足掛かりに
やっている、 ということです
(これは結果的に、 宗教学の刷新につながるでしょう)

=====

僕は yokosawa さんほどには
《心理学で説明できないもの/すべきではないもの》 を
強く、 またナイーヴに 想定できません、 残念ながら

個人的には そういった体験や感覚があります
ありますが、 それを学的な、 一般的なコトバで
語ることに 躊躇があります

そこの 純粋素朴な直観と 理性的/左脳的な説明とをつなぐ
上手なやり方をもっている人として
中沢先生に注目しています

 やっぱり先生は私に悪いことしたって思っていますね。
 それは間違えです。

 たしかに私は宗教学という学問に、こいつは確信犯だ的な見方のレッテルを張ってしまいました。しかしそれによって、自分と違う見方で世の中は回っているということを知ることになったし、自分という人間が考える宗教について、別方向から深く考察しなおす機会が与えられた。
 たぶん勉強とは、そうやって自分を見直す作業の繰り返しであり、私が私の師匠に言われた「自分の嫌いなものを読む」本当の目的であろうと今は思うのです。
 そうでなければ、私は私以上の私になれはしないのですから。

 若い学生さんの中には、それで自分を否定して素直に宗教学を学ばれる方もいると思いますが、それはそれで、いつか気付けばいいことです。
 独学じゃなく大学に行って勉強する意味は、自己否定される環境でしょう。まあ、社会に出たらもっとかぁ・・・。
 それでは、いい教育者は否定しながら肯定できる環境を提供するんでしょうね。難しそうだけど。そうしたらいい社会人が育つかもしれません。

====

 先生と中沢氏との完全な違いは、宗教に対する姿勢です。先生は宗教と対峙した経験があるのに、学問としての宗教との対話は拒んでいる。
 中沢氏は宗教から得たモノを糧に、魔術師になって社会システムを構築しようとしている。
 二人が同じ言葉でものを語れるはずがない。

 かたや利用者ですから。しかも魔術として。

 たぶん、宗教は入り口で済むような簡単お気楽なものじゃありません。その人の人生を180度変えるほど、常にすべてに影響できるものなのですから。
 ですから書かれたものの中にもずっと宗教の血が流れてしまう。

 やはり宗教というものの意味の捉え方だと思うのですが、システムとして宗教が担ってきたことだけにスポットを当てるのではなくて、精神的なことにまできちんと考えようとするならば先生の踏み込み方では無理な気がしてしまうのです。

 たぶん先生のしようとしていることは、《ザ思想》じゃなくて、《ザ科学》。
 それはそれで、学的には意味深いことだとは思います。

=====

 今日見た『クレムリンを揺るがしたビートルズ』というドキュメンタリーは面白かったです。
 1965年以降、停滞するクレムリンやその支配に嫌気がさした若者たちは、見たこともないビートルズとその音楽に世界を作って逃げ込んだ。様々な弾圧を乗り越え、全てがビートルズによる世界になっていった。

 まるで宗教だった
 神聖な革命だった

 あるはずのないビートルズの伝説が次々と生まれた。

 2003年。ソビエト崩壊後、赤の広場で行われたポール・マッカートニーのコンサート。そこで歌われた「バック イン ザ USSR」。
 
 大規模な宗教の集会のようだった
 神聖な式典だった

 私はあんまり宗教と音楽(とくに現代の)は繋がらないし、ビートルズは好きだしその影響は認めるけれど、宗教じゃないでしょ・・・と思っていましたが、政治や思想や共同体と直接つながるきっかけを与えられた時、宗教になることがあるのかもと思いました。
 目から鱗でした。

yokosawa さん>

yokosawa さんほど思想に興味をもっておられ
実際に勉強している、学界外の方のお会いしたのが
何しろ はじめてだったもので、 上手に対応できなかったなぁ
という反省が それでもやっぱり 僕にはあります

まぁ こうしてブログを通じて交流ができたので
多少なりと ホッとしているところではあります

=====

僕の考えでは・・・

音楽は 無条件にすべての音楽が、ということではありませんが
音楽は ある条件のもとで (僕のコトバでは「準備」ができたとき)
明らかに 《宗教的なもの》と同様の機能をはたします

もちろん 宗教音楽というジャンル、宗教儀礼で使われる音響
ということではなく
「世俗の」音楽、現代音楽においてすらそうだ、ということです

その働き方としては、深い浅いはもちろんあるわけで
とくに「深い」ところをエグるとき
音楽は かなりすごいことを ヒトの内部にまきおこすことができる
そのように思っています

しかし、この局面は まだまだ謎が多い
ちゃんと調べて考えてみるプロセスが必要です
自分でやる余裕が、正直どうしてもないので
後輩で、そういうことをやる学者が ぜひ出てきて欲しいものです

=====

僕の宗教学については どうも説明がむずかしいです

これは、僕自身が まだうまく それを定式化できていないからです
学会関係者にも、いつもそこらへんをつっこまれてばかりで・・・
「コンドー君は 結局なにをしたいわけ・・・?」
いやはや、まったくその通りなんです

学問というアプローチは、僕個人にとっては必然的なものでした
事情説明は 直接お話ししたこともありますので 省略しますが
ともかく 宗教という主題と 学問というアプローチは
僕にとって 必死に生きてきた末の着地点でした

加えて、学問は ある種のエクスタシー(忘我)に通じることも
僕は知ってしまいまして、今現在 まさに 主体的に
学的なものを体得しようと 修行をしている最中――
そんな過渡性が 「一体あんたは何なんだ・・・?」
という疑問を 耳を傾けていただける方には もたせるようです

宗教学は 宗教の実践ではありません
宗教を どこまで合理的に説明できるか
理性という能力を活用して 宗教という主題をどこまで論じられるか
それが 宗教学の中心的な課題です

だから、宗教の実践者からは 宗教学はいつも疑われます
「こいつらは 一体なんなんだ」と
これは、僕個人というよりも 宗教学というものの性質です

宗教という主題を理性的に論じる(つまり、分析し構成しなおす)――
繰り返しますが、これが 僕と宗教学全般がしようとしていることです

さてしかし、ややこしいのは 宗教という主題が
そうした合理主義アプローチを いつもゆるさない、ということです

いつも申し上げていることですが
あらためて 言わせてください

なぜなら、「宗教」というカテゴリーは
近代世界において、ゴミ箱としてできあがってきたからです
非合理的というレッテルが貼られるものが
宗教そのもの、あるいは宗教と関係深いものとして範疇化される
これが 近代性の常である、ということです

これに対して宗教学者はいろいろな対応をしてきました
この辺りで、宗教学者の多様性が出てきます
完全に「科学主義」でやる人もいますし(友人のS君など)
浪漫主義的な世界観を掲げる人もいます(エリアーデ、中沢など)

僕自身の研究の筋との関係では
宗教社会学的アプローチと
宗教現象学的アプローチということですが、さてしかし
僕は こうした問題の立て方は 実はもうどうでもいいのです
まずやりたいことを やりたいようにやってみて、それが
どのようなブレンドになるか
どのような立場性を担うようになるか
それはもう 後からわかるだろう、と

「宗教」というコトバに担わされてきた多様なもの
合理的なもの+非合理的なもの
それを 直接に主題歌してみたい、と
それが《ザ・思想》というコトバで指し示す
主題のレベルです

アプローチはたしかに合理主義を重視しますから
《ザ・科学》というほど大したものではないにせよ
実証的で、理性的なものになるでしょうが
それによって、《宗教というコトバが届く深いところ》を
主題的に論じてみる
そのようなものとして、僕は自分の学問を構想しています

まぁ 死ぬまで出来上がらないとは思いますが
それでも 何とか できるところまでやりたいと思っています

 『けれども重要なことは、「領域横断的」であるということではないのです。「越境する知」というのは結果であって、目的とすることではありません。何の結果であるかというと、自分にとってほんとうに大切な問題に、どこまでも誠実である、という態度の結果なのです。あるいは現在の人類にとって、切実にアクチュアルであると思われる問題について、手放すことなく追求しつづける、という覚悟の結果なのです。近代の知のシステムは、専門分化主義ですから、あちこちに「立入禁止」の札が立っています。「それは○○学のテーマではないよ。そういうことをやりたいのなら、他に行きなさい。」「××学の専門家でもない人間が余計な口出しをするな。」等々。学問の立入禁止の立て札が至る所に立てられている。しかし、この立入禁止の札の前で止まってしまうと、現代社会の大切な問題たちは、解けないのです。そのために、ほんとうに大切な問題、自分にとって、あるいは現在の人類にとって、切実にアクチュアルな問題をどこまでも追求しようとする人間は、やむにやまれず境界を突破するのです。』
   ( 見田宗介 『社会学入門 -人間と社会の未来』 pp7-8 )

 先生のスタイルは間違っていないとして、先生の《切実にアクチュアルな問題》が何なのかということですね。
 きっとそれがもっと具体的に説明できたら、理解してくれる人も増えるのでしょう。
 私が《学的な宗教との対話》としているのは、宗教家のしているそれとは違います。自己の宗教概念の確立というか、私と宗教の立ち位置の確認みたいなものです。それがぼんやりしているから、周辺もぼんやりしてしまうんじゃないかなと。
 先生にはおそらく外側に宗教をおいて《文系科学》として宗教学をとらえるのが向いているような気がするのですが、内側をも理解したいと思っている。だから、問題提起の時点でぐちゃっとした感じがしてしまう。
 たぶんそれは先生と宗教の関係そのものだから、それが整理されない限り、すっきり説明するのは難しいのではないか・・・、と思うのです。

 でも、大方の日本人にとってぐしゃとした状態がふつうであろうから、そちらから攻めるやりかたもあるのかなぁ。
 
 なんて、偉そうに言ってすいません。

 そういう私は、語ることと沈黙することで悩んでいます。
 学者はもちろん説明できてなんぼですが、人々にとって説明されることが必要なことなのか。それよりはむしろ、沈黙して繋がることこそが一番必要なのではないか。
 
 でも、沈黙して繋がることの重要性なんて、どう説明できるのでしょう。昔から沈黙について、その重要性を説いた言葉はたくさんあるけれど、今は情報を得ることこそが繋がることと信じられているのだから。
 
 沈黙についてもいろいろと考えてしまう。
 沈黙して考えたらだめなのか。
 沈黙したうえに考えないなんて普通にできるのかなぁ。

 と、こんなふうに先生以上に混乱している感じです。

yokosawa さん>

僕の状態について、はい、もうおっしゃるとおりなんです
よくぞ ここまで分かっていただけているなぁ、 と ビックリです
いつもお付き合いいただいているおかげです
なんか嬉しいです。 ありがとうございます

ついでと言ってはなんですが もうちょっと
自分語りをやらせてくださいませ

1)
宗教学者として 僕は 外からの分析と 内の理解
この二つを もうすでにもってしまっているわけで・・・

論文ではこの二つを混ぜて書くことは (まだ?) できないので
外からの分析のものばかりを書いてきました

はてさて これが今後 どうなることやら・・・

2)
学者なんてものとしては 見田先生がおっしゃるような
《切実にアクチュアルと思える問題》
これが 僕の中で 収斂されていない――
これまた おっしゃるとおりです

非常に大事と思われるテーマが 複数 バラバラしたまま
頭のなかに浮かんでいる、 といった感じであり
yokosawa さんはじめ、 話を聞いていただける方に
なんとも 歯がゆいものを感じさせているんだろうなぁ、 と・・・

=====

すいません、自分で自分の整理をするための 単なる 自分語りでした

=====

沈黙は まったく一つの正解ではないでしょうか

しかし、思考の回路がまわり始めてしまったら もう
とことんまで行くしかないかもしれませんね
沈思黙考というのもありますが、 一般的には 表明と意見交換
これが 思考の深化には とっても大事ですよね
その二つの思考のパターンを グルグル行き来する、という

ところで
まさに この点で 僕は 中沢先生に対する 例の疑問を抱くのです

沈黙というので もういいんじゃないかなぁ、 先生ぐらいだったら・・・
なのに なんでこんなにコトバを生み出すんでしょうか・・・?
と 思うわけです

 『ここに語られていることを、認知論的な表現に移し替えてみよう。イスラームはスピノザ哲学のように、全存在者を横断して、ただ一つの力の流動がおこなわれていることの認識から出発するのだ。「至高の神」と呼ばれうるのは、ただこの一つの流動する力(実体)だけである。この流動する実体だけを「神」と呼ぶ。すると他のもろもろの神々などを、「神」と呼ぶことは否定される。このような「多神教の神々」は、各任地領域を隔てる隔壁部分におこっている力のメタルフォーシスの現象を、宗教的な表現に転移したものにすぎないが、一神教にとっては、その力のマタモルフォーシスをおこしている「横断する流動的力」そのもののほうが、ずっと根源的なのである。だから、「至高の神」は唯一でなければならない。
 しかも、諸存在物を横断して流動するこの力(実体)には、内部構造がない。単純きわまりない、単一の実態として、いかなる構造もトポロジーも考えることができないのだ。』
 ( 中沢新一 『緑の資本論』 pp82-83 )

 『マナ型の諸概念は、名状しがたい感情をかきたてる対称に出会ったときとか、あたりを霊威がみたしている状態とか、あるいはもっと俗なケースでは「ゾクッとくる女」に出会った場合とか、とにかく背後に力や威力が働いていることを感じさせる対象に対して用いられる、きわめて普遍的な概念である。これらのケースでは、シニフィアンとシニフィエの間にずれがおこり、過剰したシニフィアンが意味の支えを失って浮遊しだす状況がおこっている。世界中で、いろいろなタイプの「霊」の発動がおこっているとき、どのケースでもシニフィエとの結合をなくしたシニフィアンが、ありあまる力を帯びて、人々の間を流動しているのが観察される。そればかりでなく現代人でさえ、すぐれた芸術・詩・神話を体験しているときに、浮遊するシニフィアンと一体になって流動する力の実在を、感じ取れるのである。
 魔術という行為は、流動するこのシニフィアン=力を操作する能力のことをいう。またそのような浮遊するシニフィアンが宿っている物や人物には、不思議な感覚や霊威が宿っているように感じられ、そうした対象に対する「フェティシズム」の欲望が、私たちのなかにかき立てられる。このような直感にもとづいて、マルクスは商品には呪物崇拝に人を誘う力がある、と書く。』
 ( 同 pp121-122 )

 もう眠いのでつづく・・・

 大変失礼いたしました
 バタバタ書いたので間違えだらけでした(恥)

 訂正
 
 各任地領域 → 各認知領域
 メタルフォーシス・マタモルフォーシス → メタモルフォーシス

 対称 → 対象
 浮遊するシニフィアン → 浮遊シニフィアン
 流動するシニフィアン → 流動するこの浮遊するシニフィアン

 申し訳ありませんでした。

=======

 中沢氏も先生と同じで、自分の中に点在する宗教についての確信をそれぞれ思考するうちに繋がったのが今の状況だと思います。

 すべてを繋ぐもの、見田先生の言うところの《シンフォニシティとシンフォニシティに対する人々の認識と知覚》は《流動的知性と対称性無意識》であり、私が前にも言った通り、それは人々の思考において発現するのは難しいのだから、説明しても説明しても伝わらない。なによりご自身が伝わっていない実感をお持ちなのでしょう。だから納得できない。なにより魔術師である自身の肯定ができないのです。
 ひょっとしたら、私が小学生に問われた『存在意義』の問題なのかもしれません。

 だから先生も、とにかく内でも外でもまとめてみなければ。それぞれが独立しているようでも、繋がる何かが見つかるはずです。
 でも、その何かにぶつかった時、本当の苦しみがあるんですね。
 しかも、中沢氏の二番煎じにならないようにですから、大変でしょうね。

 後半部分では構造主義の形をとりながら、構造主義批判をしていますね。構造主義ではダメというのは先生と同じ意見じゃないですか。
 まあ、先生はまとめより基ができないと・・・。
 
 それと、この前私が指摘したオルガスムス。これも違いないと思うのです。
 もっとも、エクスタシーとの差はと言われればうまく説明できませんが、とにかく中沢氏は野生なのかなと。
 
 よくわからないのは、イスラームについて、一神教の中の一神教だからこそ、多神教につながるみたいなことをこの前のインタビューで話していたのに、そしてこの文章を書いていた時にはすでに気付いていたに違いないのに、その部分には触れない点です。
 やはりまだ問いの段階なのでしょう。

 あとはですね、私にはイスラームの神の根源である流動する力を、知性ではなくて力と言っている点、そこがあやしいと思える。
 力と平等は繋がらない言葉ではないですか。
 イスラームでは本当に万民が平等に生きられるかといえば、りっぱに王様が居て、王族は財産を独占してはならないと言われながら、その財産を運用しても文句は言われない。
 世界の長者番付で一世を風靡したあの王子のドキュメンタリーを見ましたが、月に一度か何かの謁見で、民の訴えを聞いて、その民の願いをきかなくてはならないシーンはすごく俗的で、すごいなぁと思いました。朝まで続くその謁見中、王子は何度もディーラーと連絡を取り合っているというシニカルなその場面は、きっと西洋人が作った場面を、西洋人が皮肉っているんだけれど、日本人の私はウームと思ってしまうのでした。
 この辺も突っ込んでくれたらおもしろかったのに、そういうことはしないですよね。中沢氏。

yokosawa さん>

そうですね、ずっと言われている 本を書くこと!
さすがに 最近、書かなきゃなぁ、という気になっています

インドもので二冊分は、少なくともあるわけですから
いずれも「外」からの「分析」ということになるでしょうが
これは書いてしまわなければ、という思いが ちょっと湧いてきてます

年貢の納め時のようです (笑)

=====

「力」は 究極の平等なんじゃないでしょうか
シシガミ(@もののけ)のようなものとして!

インド世界も どうもそういう感じがあります
諦念という風に、西洋人にはみえるようですが、そうではなく
ある宇宙的な力の遍在のなかで それぞれの生が
グニュリと出来上がっているというような・・・

中沢先生は、その感覚を言おうとしているのではないでしょうか

もちろんそれは、リベラル・デモクラシーの平等観とは
完全に異なるわけでありまして、そのあたりがややこしいな、と

 よかった、よかった。それはよかった。
先生の論文は、ありとあらゆるインド論文(政治・宗教・法などなど)に顔を出すのに本になっていないという、今や私の中の不思議ちゃんに仲間入りしている物の一つだったので、不思議ちゃんが減るのはちょっと残念な気もするけれど、うれしいです。
 ところで、私はテキストに好かれているというか、必要なテキストが向こうからやってくるみたいな体質なんですが、インドについて書かれた日本語の適当なテキストは本当に少ないです。
 ちょっと勉強するかと思って、去年の6月に三省堂に行って、3時間かかってやっと1冊見つけました。これはもう、本当に異常です。こんなことはめったにない、というか初めてです。
 おかげで店員さんにあやしい人だと思われました。
 それと本屋に住んでいるんだろうなぁと思われる人と仲良しになりました。

========

 《力》については、やはり《知性》との比較の問題で、私の主観が察知したものにすぎません。
 私にとって《流動的知性》と思われるものは、人と人、人とモノをつなぐ緩やかな細い光の糸のようなイメージで、『緑の資本論』で説明されているものとはまさに対極にあるような気がしたのです。もし同じものだとしたら、あの細い糸を宗教というブラックボックスにぎゅうぎゅう詰め込んだら、違うもの《力》になって勢いよく飛び出してきて、人という人に影響してしまったという感じがしました。
 やさしいつながりではなく、絶対的な支配を携えて。

 でも、よくよく考えてみたら、あの私が感じている細い光は思考なのでしょうか。神的なものの中の一部(つまり宗教)なんだろうか・・・。

 そんなことを考えていたら、まさに今日やっと購入できた(特集が「あこがれの老年時代」だったからか)『考える人』で、茂木健一郎がスピノザについて考えた文章に、うーんと思わせるテキストがありました。


 『さらに、私は下で、この命題の助けを借りることなく、「知性」や「意思」は神には関係ないということを示す。神の性質に、至高や知性や意思が関わると考える論者がたくさんいることは認識している。彼らは、単に、人間の中でもっとも高い完成を見ている属性を、神に帰属させるという発想しか持たないからである。
― 『エチカ』第一部 命題17、ノート

 絶対的に無限な存在である「神」については、そもそも、「知性」や「意思」といった概念が適用できないとするスピノザの議論。ここで、死活的に重要なのは、「知性」や「意思」という概念が、そもそも「有限の立場」からしか生まれてこないということである。』
(茂木健一郎「偶有性の自然誌 第9回 スピノザの神学」 『考える人』pp164-165)


 ここで引っかかっていた私の問題が表出する。
 あのつながりは有限なものと有限なものの間にあるときのみ意思を持つ。無限のものとのつながりは沈黙の中にしかない。

 宗教の《内》を考える時、何を言っても言い表せないという先生の感覚は正しいのです。私も実は言葉にしたとたん嘘が表出し、その嘘を否定するとまた嘘が表出するジレンマは十分感じています。

 でもそれは、テキストを読み解くときもいっしょですよね。全ての解釈学が抱えているジレンマ。そのジレンマを超えるためにはなにが必要か。

 それこそが見田先生が言うところの「現在の人類にとって切実にアクチュアルであると思われる問題について手放すことなく追求し続ける覚悟」である。

 でも、わたしにとっては、皆と同じ言葉でつながることも重要なのです。
 自分を理解してもらえること、そして皆を理解すること。
 そのお互いの理解の中に共通する言葉を紡ぐ。

 したがって私の論理は絶対的なものとはほど遠いものになるかもしれません。
 それでもそれが私の解釈学であり、私が流動的で皆が流動的である限り決して固定されることはないのだけれど、その中にある、本当にコアな部分にある揺るぎのない何かを、恐れることなく見つけてみたいと思うのです。

yokosawa さん>

やっと見つけたインド本一冊というのは 何ですか?!

それは スンゴク気になります (笑) 教えてください

=====

それにしても、インド本は 学的な意味でいいのはあるんです
歴史学とか人類学とか 経済学とか社会学とか 政治学とか
そしてもちろん 文献学! これらの分野では
世界レベルの研究が ふつうに 日本語で出されています

しかし、「ザ・思想」的な意味での深みをもった作品は
これは なかなか見つかりません

原因はいくつかあると思います

第一に、インドの《現実》が 形而上学的思考をゆるさないこと
むき出しの差別と貧困がありますからね、やっぱり
現象学的=形而上学的な存在論は 《インド哲学》という
あまりに特殊化された領域に あずけられがちです
むしろ、マルクス主義とか 自由主義とか、そういった実績ある
近代的な政治思想・社会思想・経済思想に 可能性を見いだすのです

第二に、《神秘のインド》ということで、既成概念が強すぎること
上のことと関連しますが、南アジア研究に入ってくるときには
多くの学生さんが 少なからず 《神的なもの》への感性を
もっていないことはないのですが、研究をすすめる過程で おのずと
それが減滅されていく、外的圧力や内的変遷のゆえに、です

こういうところが、思想的な南アジア理解、インド理解を
専門家ほど やりにくくなっている、という現状があります

宗教学でインドをやる、という人が 極端に少ないのも
そのあたりに関係があります

=====

「無限のものとのつながりは沈黙の中にしかない」
まさに否定神学の悟りですね

それは、僕自身の実感にも とてもよく合います

=====

《流動的知性》は 僕には 《チカラ》のイメージが強かったです

わざわざそれを 中沢先生が「知性」と呼ぶのは
神話の知的側面を強調しようとするところからですね

しかし、ここで「知性」とは かなり《野生》ですから
生き死にを あまり重要視しないという、アンチヒューマンなところがある

それを ポストヒューマニズムとして称揚しようとする筋が
中沢先生の「ニューアカ」だったわけですが
オウムでつまずくことになりました

この筋の人たちは今、《日常的なもの》の原理的な肯定に
可能性を見いだそうとしているように思います
(中沢先生も、細野晴臣も 笑)

パンクでエッジなものを 《日常性》とどう原理的に両立させるか――
そういった課題ですね
マルクス主義者を冷笑することで、より精確には マルクス主義の真髄を
マルクス主義者は全然わかってなくて、自分たちはわかっている、と
高みに立つことで、 自らの思索と活動に意義を見いだしてきた
この筋の人たちは、いま あらためて そういう段階に至っている――
そんな風に 僕には見えます

=====

最後に、現在の僕の感覚では 語らないほうが
みんなとの 《つながり》 はむしろよく保たれるんじゃないかな、と

精確にいいますと、「ザ・思想」のレベルでは
ギリギリまで語らないことで
ポテンシャルを十分に引き出されたコトバたちと そのシステムだけが
語られるに足るものじゃないかな、と

《つながり》 はもうすでにそこにあって
それは意外と 多くの人たちに (無意識的であれ) 気づかれていて
学的なアプローチをとろうとするからこそ
それが いかにも 捕捉困難であるものに見えてるだけなんじゃないか、と
そのように 直観したりするわけです

 つながりについてなんて、ほとんどの女性は当たり前だと思っているので、そんなこと御もっともに学的に語ろうとしているオトコの学者なんか、バカだなぁと思っている・・・というのが事実だと思います。
 このバカだなぁ観は常に女性の中にあって、この前、上のの同級生だった存在意義の男の子(当時5年生)のことを話題にした時、うちのは両方「男子はバカだからほんとは何も考えてなんかないんだよ。漫画の読みすぎなんじゃないの。」と言っていました。
 それで、私は一昨日読んだ重松清の『小学五年生』に、すごく感じ入ってしまうわけです。
 女の子にとってはなんでもない、それは《生む》という宿命によって自然につなぎとめられているせいなのだけれど、そんな理由は関係なく分かっていることを、分からない、分からないと5年生から探しまくって、悩みまくって、挫折しちゃったりする男子ってバカなんだろうか。                        そんな男の子が作っている世の中だから、駄目な世の中になってしまって、もうほおっておけないから女子がどんどん社会を作りかえるべき?

 そこで、よしながふみの『大奥』なんてすごい漫画が出てくるんですね。
 よしながさんは全世界の男を4分の1までに減らしてしまった。これは、自然がもたらした(正確には熊が媒介だった男性にしか感染しない死に至る疫病・はじめに感染した男の子の母親は山の神の祟りと気付いた)人口調節です。
 私はきっとよしながさんの中で、実際に男性と見えるオトコは4分の1になっているということじゃないかと思うわけです。まあ、そこまでじゃないけど、もうすぐそうなるかもね・・・というか。
 将軍も死んで、春日の局の陰謀によって女の将軍を立てることになる。初めこそ男装させたり、隠したりするんですが、他の藩の跡取り問題もあってもういいじゃないということになってしまう。
 そうして、世の中は種馬となって大事に家に囲われる男性と、社会を自らの手で構築していく女性で出来ていく。
 幕府の中なんかは、大奥をはじめ、まだ男性が居る世界ですが、市井の世界は女性がすごくがんばる。でも、本当に女性が恋焦がれるのは《子を産む》ことである。
 1巻こそ、恋愛が成就する、愛するということにスポットが当てられていますが、この線で話が受け入れられると確認された2巻以降がすごい。
 聖職者を堕として大奥に入れて、将軍という名の少女の救いについて、そして、女性と男性の性差と必要なものについての考察が始まります。

 さて、男性について、女性について、本当に必要なものってなんでしょう。
バカな男子に代わって繋がりを知る女子が作る世の中はいいものなのでしょうか。

 私は私なりに考えがあり、先生には以前お話したことがありますが、ここでこのことを考える意味は、特に女性にとって大きいと思います。

======

 ししがみは本当に力でしたか。
 力になったのは、人の手が加えられてからであり、その前は透明で光を透す、あるともないとも区別のつかないものではありませんでしたか。

======

 本については秘密です。
 素人の私が、インドの現状と課題について知ることのできる良書ですが、学者が書いたものでも、作家が書いたものでも、評論家が書いたものでもありません。
 ただ、インドと日本のために奔走した、そして、普通に政治や宗教や時勢に翻弄された人の実際の話でした。

なるほど、アレかなぁ、、、という本 一冊心当たりがあります

鹿児島関係? でしょうか?

=====

シシガミは やっぱり「チカラ」だと思うんですよね
もちろん「ヒカリ」を透す、あるともないとも区別のつかないもの
でもあるんですが、やっぱり「チカラ」ではないか、と

もちろん ここでの「チカラ」は威力とか暴力ではありません
重力とか磁力とかのような「チカラ」です

もちろん 人間/文明の破壊的介入が その「チカラ」を
むき出しにしたわけですが
その前にもですね、 アシタカは生かしたのに
ナゴノモリがたたり神になるのには介入しませんでした

そして、シシ神の森に出入りする いろんなモノどもが
シシ神に対するときの所作には 畏敬がみられる

そんなところから、僕はあそこに「チカラ」を見るのです

=====

女性はすでに大事なことを完全に知っている――
そして、男は単なるバカだ――

これは、授業でもくり返しくり返し 申し上げましたように
僕の完全なる確信であります (笑)

ちなみに ガンディーは 完全なる女性化がないかぎり
(この場合の「女性」は、彼の時代の実在する「女性たち」です)
非暴力の実践は不可能だ、と
言い換えれば
非暴力の実践とは 「女性原理」の体恤である、と
そう述べておりました

山折哲雄先生なんかが とくに注目してきたポイントです

 本についてははずれです。
 出身地は存じ上げませんが、生活母体は東京の人です。
 彼は長年仕事としてインドで活動していた人だから、もちろん他者からの分析はよくできているし、内側に入り込んで人とよく接点を持つタイプの人なので、内側からの分析もよくできている(と思う)。
 ただ、先生のようにインドに対する愛情を政治や思想や経済面でお返ししようなんて考えについてはもっとシンプルで、日印双方が有利になる経済政策に置き換えられている。
 だから、先生の論文を全文読んだわけじゃないけれど、先生の論文とは全く違うんだろうなぁと思います。
 根底に流れるものは、文章に出るものですから。

=========

 力についての解釈は、パワーとフォースの違いなのかなと。この使い分けは難しいですが、(たとえば「パワーポイント」なんて使われ方も)きちんとされるべきですよね。

 中沢氏の死の軽視化は私もすごく感じていました。atプラスで山折先生も言われている通り、死に直面する人間がその恐怖から回避するための宗教の役割は重要ですし、死が尊厳されない場面では生もまた尊厳されなくなる。
 個人的には死に対して恐怖しない中沢氏に共感できないでもありませんが、それでは一般的な理解の度合いを超える場面が多くなることが避けられなくなります。まあ、理解できないやつは理解しなくてもいいよというなら別。

 それと、パンクでエッジな精神が、私の中では政治とはどうしても繋がりません。そもそも、パンクな思想ってどんな思想でしょう。あまりにも抽象的すぎやしませんか。それを、もがき苦しんで体系化したマルクスと並べるなんて言語道断。まじめに思想研究してる人に怒られます。まずパンクの定義から始めてください。

=======

 なぜわかっていることに思想が必要なのか。
 なぜ説明されなくてはならないのか。

 それは、言葉にしなければ武器にならないからです。
 武器がなければ、人の口に食物は与えられない。

 女性は自然に近いし、わかっているのかもしれませんが、実生活の糧になる所からは一つはなれたところにある。
 実生活に応用し、それによって価値を得るためには、わかっているだけではだめなのです。
 そして、わかっているからその必要性を無視したり、説明されることをばからしく思うのは間違っている。

 男性と女性については、まだたくさん考えていることがありますが、きりがないのでこの辺で。

yokosawa さん>

パンクというのは、 もちろん 僕の最高級のほめ言葉なんですね
http://lizliz.tea-nifty.com/mko/2009/04/post-ce34.html
とか
http://lizliz.tea-nifty.com/mko/2009/09/ayumi-hamasaki-.html
とかでも 「パンク」という言葉を使いました

僕にとって かっちょよくて、深いところで的を射ていて
それでいて 明らかな異形である、と
そんなところが 語感ではあります

=====

「わかっているだけではダメ」――
そうだなぁ、と思い、また、そうかなぁ、とも思います

僕自身は、コトバにこだわらざるを得ない人生を送っていますが
どちらかというと 呪いというか・・・宿命というか・・・
いやさ 「業」 ですね、これは

《チカラあるコトバ》 であればよいのですが
ふつう そういうのは なかなか難しいですね (泣)

いずれにせよ、 精進 精進 です

 そうそう。
 両方必要だから男女差が今でもりっぱに成立しているんだと思っています。
 女性は知ってるから別に言葉にしなくてもよし。
 男性は理解できるようあくせく努力せよ。
 そんなものどうしが、理解し合ってるような、理解できないような関係の中で、お互いを尊重し合えるのがいいんじゃないかな・・・と私なんかは思うわけです。

 ところが、なぜか世の中はそんな風でもなく、男性が女性を求めながら憎み、女性が男性を拒絶しながら憎む。
 なんでそんな風になってしまったのかなぁと。

 私が最近読んだ『神様のカルテ』や『植物図鑑』といった小説の恋は、よろよろしながら生活を生きる男子に、普遍的で直感的どっしり女子という男女設定で、なんとなく感情移入しやすい。
 夏目漱石なんかの男女観も(悲恋や悲惨さに縛られていても)こんな感じだし、そういうのが普通だった。
 でも、村上春樹なんかはもう、女性が倒錯して、普遍ってなに?みたいな感じになっていますよね。そんなの小説だからと思っていたら、同じくらいの年齢の女性からそんな意識を感じ取ったりすることがあります。
 これってなんでなんだろう。
 そんなに男性は女性にひどいことしてきたのか?

 近頃なぜか男女観にかんする情報が頻繁に入るようになって、ほんとうにいろいろな人がいるなぁと感心しつつ、ちょっと危機感を持っています。

======

 成績付けに発表原稿。さぞや大変だと思いますが、締め切り前に余裕を持って、終わらせられるようお祈りしています。

 それと、いつか暇になって気が向いたら、ちゃんとした先生のパンクの定義をきかせてください。

yokosawa さん>

男子カルチャーは 現代日本で 実質崩壊したように感じています
援助交際と熟年離婚が その最後の一撃だったように思います

あらためて、何のために 結婚するのか・・・
男性向け性欲処理産業の発達が極点まで達するなか
男子側としては その辺りが 根底的な疑問になっているように思います

モテ/非モテの問題が 性欲と自尊心と社会化の問題として
多くの男子のこころを 蝕んでいるようですが
それも むべなるかな

家庭と子育てと老後のために 勤労と出世があるという
人生モデルが崩れた――
これは 本当におこってしまった事態だと思うのですが
《近代性》の必然的な帰結であり、なにも 小泉改革のせいじゃない (笑)

女性の大半(おそらくは75%以上あたり)が
夫なしで 子どもを二人以上育てあげることができる
そういった経済システムが完成すれば
(それは 厚労省の目ざすところでもあります)
ますます 男はいらなくなる。労働力としてのみ求められる

そうなれば、男のアホ犯罪は激増するでしょう
なんとなれば、男は甘えん坊ですから、怒り悲しみを
自分に向けることができないからです

女子が援交という自傷行為に走ったとき
男子はナイフで他人様を傷つけることに走った――
あれが その明確な例証であるでしょうね

その後も 女子の最終的な強さは 健在です
男子は 相変わらず アホであって、何もできないままです

=====

村上春樹の女性観は 僕には全然納得できないです
そんなんじゃないだろう・・・ としか思えません

ちょっとはいい感じなのが、僕が最高傑作と認める『ねじまき鳥』ですね

=====

さて、村上的な女性像は 実在しますね!
僕も これまで複数名にお会いしてきました
要するに、心が病んでしまっている、という感じです

僕もいろいろ考えましたが、結論だけを申せば
《左脳的、大脳新皮質的な内面を 発達させすぎ》
《「ホルモン的」、「子宮的」な内面性を 軽視しすぎ》
というのが 女子カルチャーの問題ではないでしょうか

これが 男による圧力の結果なのの何なのか・・・
そこまではまだ 考えておりませんが
《女性性》は そういう身体的なものに 最大の意義がある、と
そのように思えてなりません

もちろん、それさえあればオールOK なんてこと ありえん!
これはもぉ 言わずもがな、です

 男女の関係が崩壊したかどうかよくわからないです。
 というよりは、明らかに二分してるような気がしています。

 今まさにシーズンですが、一昨年子どもの中学受験の折、付き添いのお父さんの多さに唖然としました。それも、両親揃って来ていたり。休日ではないのに偉いなぁというか、会社は大丈夫というか・・・。おそらく、それなりの企業にお勤めされているのだろうという感じの方ばかりでした。
 福音館の松井直氏の御子息の友氏の、《父親と子どものが受験で絆を深める》みたいな公演を聞いたことがあって、えぇって思ったものですが、この前四谷○○の小学校低学年コースの宿題を電車でしている父子を見かけて、すごいなぁと思いました。
 もちろんいろいろな家庭があると思いますが、うちの子らが通っている学校の親は、父親不在どころか、父親健在な感じです。

 一方、上のは中学は関西の公立中学で、母子家庭、父子家庭なんて当たり前でした。もはや片親だからと言ってPTA役員は待逃れませんっていう話をされました。ここでもけっこうカルチャーショックを受けました。

 こんなふうに、社会が二分してしまっているのです。経済的に余裕があって独身主義者なんて、今時ではありません。『プレジデント ファミリー』とかがバカすか売れているんですよ。
 私の友人たちも、マスコミ関係以外は、みな家族持ちになりました。一部残りもいますが、おおむね恋愛には不自由してない感じです。

 こんな世の中で、親が低所得者で片親で、りっぱに社会に育てられたからと言って幸せになれるのかな・・・。
 そこから成りあがれるほど根性のあるやつが、いったい何パーセントいるんだろう。

 実は私の親友(♂)は、知り合ったころから自分の天職は教師だっていってたのに、大学の時のバイト先だったある施設にそのまま就職してしまいました。

 21歳の夏休み、休みでも親が迎えに来る予定のない子どもを自宅に連れてきて、二人で4歳の男の子の仮想親になって花火を見に行きました。男の子は私たちの手を決して離さないで、土手に座って花火を見ている間中、きらきらした目で「ねっ、ねっ」ってずっと話しながら笑っていました。
 その日彼の家に泊まった男の子は、初めておねしょをしないで寝られたと、後で聞きました。

 大学を卒業してすぐに大勢の子どもの《パパちゃん》になってしまって、夜勤ばかりだし休みもないその職場で、彼は大勢の子どもたちの親として悪戦苦闘していました。
 今では奥さんと3人の子どもたちもいて、その大きな団体の役職もこなしながら、大学の講師なんかも引き受けて、家庭の大事さや、子どもに必要なものを教えているそうです。(全然会えないので話だけ)

 そんな親友もあるので、私は母性や父性について、余計に考えてしまうのです。
 それは、自分のためだけに備わっているモノじゃなくて、ひとの将来を担うためにあるのです。
 だから、せめてもう少し、いろいろな方向から考えてほしいなと。
 
 私の将来と私とつながる沢山の将来のことを。

yokosawa さん>

男女の関係は もちろん崩壊しっこないわけですよね
雄雌の区別と社会形成は ヒトの生物学的な与件ですから

崩壊したのは、従来型の「男子カルチャー」です

おそらくは、戦からの延長上にできあがったそのカルチャーが
ポストモダン社会において 当然 壊れる、と
ただそういう当たり前のことを言ったにすぎません

男子カルチャーが ふにゃふにゃと 無定形のままであるのに対し
女子カルチャーは その流動性と環境適応性をこそ本義としてきましたので
(社会構成上、男の下位に位置づけられつづけてきたのだから)
なんやかんや言って それなりに活性化しております

加えて、高度消費社会/高度資本制のもとでは
消費感性の高い女性は 制度的=物質的に 主役級のあつかいを受けます

ということで、男子カルチャーほど 無用のものはなくなりつつある、と

そうした状況下で、もちろん男女関係/恋人関係/夫婦関係/親子関係は
それなりの、その状況に応じた形態と内容をもって できあがっている
――そういうことでは ないでしょうか

=====

独身は流行らないのは事実で、早婚ブームがあるのも事実です
(まとも、イニシアティヴは女子の側にありますが)

しかし同時に、離婚率の継続的増加
これに注目しないわけにはいきません
たしか、今は 3組に1組が離婚でしたっけ?

何のための結婚か・・・?
そう問いたくなる男子が 増えているのはそのためです
(背後には、近代的な恋愛ロマンス・イデオロギーの普及浸透あり)

実際に結婚したかどうか、ではなく
結婚したことによって どういう人生を送ることになるのか・・・
子育てと夫婦関係は 楽なことでは全く(!)ありませんから
物心の余裕を得て、実りを得るまでの一定期間、それに
耐えていこうとする動機があるのか ないのか・・・

そういったところの未解決問題、いやさ 構造的アポリア
が 僕には見えます

=====

《家庭のあり方が くっきり二分している》
これは 僕もまったく同意です

そして、僕の家庭生活は、東大卒の大学教員という
“華々しい”外観 (笑) とは まったく逆に
下層のほうの人たちとともにあります

僕の周りに 大卒はほとんどいません
この高学歴社会において、ビックリするぐらいそうです
片親が多いです
パチンコが多いです
同棲ばかりです
中退ばかりです

今でこそアレですが、僕自身 そういう環境で育ちましたから
これはこれで シックリきています

=====

ご親友の話は 大変美しく、希望にあふれたものですね
読んでいて、うれしくなりました

もちろん、「愛」こそは答えなのであります!

僕自身、血のつながりなんてなくても 親子になれることを知っています
ここには 本当に、本当に すべての答えがあるでしょうね!

さて、こうした「愛」は どうやって生ずるのか・・・?

個人の才覚によってか・・・?
社会の環境設計によってか・・・?

そこには 真剣に、真剣に 考え実践すべき課題がありますね!

 うーん、先生の《男子カルチャー》はあまりに漠然としていて、討論するのはどうかな・・・と思っていました。
 そもそも、男子カルチャーは今まで何によって保たれていたのか。

 戦前の日本の家族関係は、家父長制をとっていながら母性原理優位である形でした。それは、日本の社会的規範というものが言語化された形ではなく、日々の体験の積み重ねから感得するものとして存在していたからです。
 ここではもちろん宗教的なものの影響も大きかったと思われます。

 つまり戦前の日本の家族関係は、国家とか社会に対しては家父長制を中心としたまとまりをもつ存在でありながら、他方では家族が相互のバランスを考える在り方を大切にするという二重構造でできていました。このイエとよばれる永続的家族集団との関わりの中に自己を位置付けることで日本人としてのアイデンティティは保たれ、その存続のために個人が無視されることは当然とされてきました。

 しかし、戦後の民主化によって、家父長の権力を奪って民主的な家庭を作ろうとした結果、イエの構造はそのままに父性が弱体化され、もともと強かった母性が全面に出てくるようになりました。

 そうなると、家庭では母親の支配力が強まって、行き場のなくなった父性は、高度成長期の会社社会に行き場求めます。

 ここまでが、先生の言う男性がなんとか《男子カルチャー》を保てた時代ですかね。それ以降の家族関係はどんな子どもを育てたか。
 
 父親を失った家庭は、子育ては母親がするものという社会常識に縛られるようになります。もともと愛情のうえに成立する母性は、その常識に反感を持ちつつ一方的に子を溺愛するようになります。そして、反感は自然と父親にのみ集中します。

 もともと父と子の関係は、母子の一体感を破り、子どもに他者の存在を知らせ、他者と接していくためにはそこに存在する規範を守らなければならないということを知る為のものです。

 母性にのみに育てられた子どもは著しく社会性を欠き、他者との関係を築けないまま、自分が分かってもらえないという偏った理解をするようになります。

 男性はもともと母性神話が大好きですが、このような状況で育った男子は母性偏愛者になります。

 以上、戦後の家族関係と母性・父性についての考察です。河合隼雄先生の『家族関係を考える』なんかがベースになっています。

 これはあくまで社会病理なんかについての考察で、一般的には例えば父親に代わる男性モデルの存在なんかがあったりするので、もっと広がりを持たせた考察もできるかと思います。でも、先生の言う《男子カルチャー》崩壊の一考察にはなるのではないでしょうか。

 それじゃ、女性は母性はどうなったか。

 それはもう、子育てのための母性に縛られた女性の誕生です。
一見普通に見えるかもしれませんが、母性に縛られた女性は悲惨です。
 すごくいい子が拒食症になり、燃え尽き症候群になり、愛せなくなる。

 これはもうほんとうに病気ですが、女性は家事手伝いとか普通に通用する言葉だったりするので、男性より表ざたにならないのかもしれないなぁなんて思います。

 

yokosawa さん>

戦前・戦中における家庭のあり方:

「家父長制 + 母性原理」
「イエに対する個人の従属」

戦後日本における家庭の変化について:

男性側から―
「家父長制の解体/民主的な家庭の促進」
「父性の弱化/父なる存在の不明確化」
「会社人間の夫」

女性側から―
「男性権威の漸次的凋落による、母性原理の相対的強化」
「主婦=子育て/夫育て係としての母/妻/女」
「そうした役割の押しつけに対する、女性の不満」
「子どもの溺愛 + 夫に対する反感」

―― このような諸点にまとめていただきました

もちろん こうした観測に 僕もはげしく同意です

いくつか論じたいことはありますが、三点だけ

=====

(1)《男子カルチャー》について

このカルチャー(厳密な定義なしのままいきますが)は
こうした変化のなかにあったものですね

戦前、戦中からの連続性(参照枠として、世代間継承として)
をもちつつ、80年代までは まだ存立しえていたかもしれません

この《男子カルチャー》の特徴は、むしろ形式的なもの
にすぎないのかなぁ、と思います。つまり
「女子でなく、男子!」
「女子よりも男子が上!」 という
内容を欠いた、形式だけの優位性の信念と感覚だ、と

=====

(2)夫/父の役割について

フロイト的な父性原理の理解――
普遍的(超歴史的で超地域的という意味で)な理解とは思いませんが
近現代日本の問題を考えるうえでは まだ有効だなぁ、と

実際、多くの家族関係論は フロイト理論に大きく依っていますね

この辺り、yokosawa さんもおっしゃるとおり
まだまだ考える余地がありそうです
例の「男性学」ということになるのでしょうね
僕は、まったくフォローしていませんが

=====

(3)「母性に縛られた女性の誕生」

これは、あらためて伺うと ホントに深刻だなぁ、と

社会のあり方(物質=制度的な条件設定)から
いつの間にか与えられる/押し付けられる要請を
生真面目でしっかりした女性ほど
真正面から受け止めてしまうんでしょうね

ツラいだろうなぁ・・・

 この文章の基礎部分は、いまから5年前くらいにまとめたものです。だからちょっと古臭い感じはしますよね。今は《男子カルチャー》について考えている人がたくさんいて、勤労と家庭生活についての考察、男女関係の考察と調べてみるとなかなか面白いです。
 
 特に大野左紀子さんのブログがおもしろくて、考えさせられました。(ohnoblog2) 上野千鶴子さんと澁谷知美さんの対談も少しだけ見ましたが、フェミニストに同情される《男子カルチャー》ってフェミニズム事態ももう解体するのかしらと感じました。

 そもそも、なんで男子のほうが女子より上なのかという議論では、私は女子の子を産むという価値が貨幣価値に換算できる、つまりモノ化できるものだったからなんじゃないかなぁと思っています。一方男子の価値は力であり、労働力の価値判断は資本主義でされる場合《資本》そのもので、別に位置付けられていた。買う・買われるといった貨幣的な交換様式に結婚がそっくり当てはまってしまった時、女性の価値は買われるもの(買えるもの)になったんだろうと。

 労働という価値が男子から奪われたり、労働する意味自体が問われた時、つまり今現在、男子の価値の危機が訪れているということでしょう。本当につい最近のabcたぶんナイトラインだったと思いますが、家庭での主だった収入が妻による場合の男の立場は・・・みたいな記事がありました。保守王国のアメリカでも問題視されてるのか。あっと保守王国だからニュースになるのか。
 そしたら昨日はうちでたまたま「グラン・トリノ」のDVDを見ていたので、ながら見をしました。クリント・イーストウッドはまさに、男性役割の在り方なんかが言いたかったんだろうなぁと思いました。

 私は5年前の考察では、男性は父性にこだわらずに人間としての生きる価値を示せるように、自分や家族の生のためにがむしゃらに生きる様子を子どもに見せるだけでよいと書きました。そうすれば家族の崩壊はなくなるだろうと。
 今でも概ねそういう意見です。
 しかし、男性が生のためにがむしゃらに生きられる社会の構築はどうなされるべきかを考察しないで、男性にいろいろ押し付けていたなぁと感じました。
 男性でも女性でも、自分の認められるところで生きていきたいと願うのが当然です。大野さんのブログに出てくる有名なニートさんは、ニートでいることで認められている。そんなニートはニートで在り続けるでしょう。
 
 私はどうしたら皆が自分の価値を肯定できる社会になるのか、考え中。
 例えば、今は低価値とされている職業でも、一生懸命働いている人たちがいて、その人の労働がなければ社会が回っていかないのに、そんなことはお構いなしなのはなぜだろう。
 そんな疑問が労働から人を遠ざけているに違いないのに。

 家庭内で妻が夫を、夫が妻を尊敬したり感謝するなんてあたりまえなことが、そして、その存在に依存していることを認めることが珍しがられたり否定されるのはなぜだろう。

 そんな、いい子ちゃん意見といわれるに違いないことが、社会を支える礎なんじゃないなんて思っています。

yokosawa さん>

男性学は あってしかるべきものでした
個人的には 授業でよくしゃべっていたのですが
今やちゃんとした研究が ホントにいっぱいですね

=====

大野左紀子さんは 存じ上げませんでした
ブログを拝見したら、エネルギーがすごくて
心の準備をしてからでないと 読めそうにありません(汗)

=====

「いい子ちゃん意見」―― 大賛成です

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