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2010年1月 2日 (土)

ベクトルだけをつなぐ

前便 「父親と母親の両機能」 より つづく

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  • 日本的想像力と成熟 中沢新一インタビュー
    (聞き手・ 東浩紀 + 白井聡)

前便 で いかにも “本質主義的日本論” なコトバを

中沢先生のものとして引用してしまったので

どういう風に考えられているのか 紹介いたします

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以下引用 (23-24頁: 「大域」には「グローバル」のルビ)

中沢  [前略] そう考えてみると、 僕はドゥルーズ哲学はなかなかおもしろいなと思っていて、 あの哲学は微分係数でできているんですね。 微分係数というのは、 瞬間瞬間のベクトルの力、 力動線の流れで、 局所的な情報しかない。 全体の大域構造なんてわからないんですよ。 ドゥルーズは局所構造だけ、 微分係数だけで哲学を形成できると考えていた。 つまり、 微分係数だけを考えていると、 大域構造が必然的に出てくるということを考えていたんじゃないでしょうか。
  僕の日本的想像力を扱う方法もこの考え方に影響を受けていて、 たとえば 『アースダイバー』 (講談社) という仕事をしましたけれども、 東京の現在を大域構造として見ると、 すでに壊されて、 なくなってしまったものがたくさんある。 ところが、 微分として残っているものがあって、 そういうものが土地に付着しています。 たとえば渋谷という土地にも、 微分係数として付着して残っているものがあるのですが、 ただ、 大域構造として見たら、 そんなものは見えやしないんです。 アースダイバー地図に書いてあるような東京なんてどこにも存在しない。 ところが、 微分係数だけを見ていると、 そこにそういう地形があって、 その地形は必然的にそういう思考方法を生み出したろうというものが見えるんじゃないか。 それが 『差異と反復』 (河出文庫) から学んだ手法です。 そういう意味で、 見えない東京をベクトルだけをつなぐことによって構成しようということを意識的にやったんです。
  日本的想像力を扱う人たちの多くは、 同一性を持ったイメージから出発したがります。 たとえばゴジラといったら、 ゴジラというひとつの主体、 個体で扱う。 あるいはイメージ、 言語概念として扱って、 そして想像の日本というものをそれによって構築しようとする。 僕はこれは悪しき日本論だと思っています。 だって、 そんなものは実在しないんですから。 自分の想像力の中でいくらあると思い込んでも、 それは現実の世界の中では具体的な力とはなってない。 だけれども、 微分係数としては存在しているということです。 日本について書いた 『精霊の王』 (講談社) もそうですけれども、 全部そういう微分化された力動線だけで書けないかという試みなんですね。 なかなかそういうところは理解されないので、 「おまえ日本主義者だろう」 と言われるんですけど。

白井  ドゥルーズが言う潜勢力を読むということにもなるわけですよね。

中沢  そうです。 その潜勢力は微分係数ですか出てこないんです。

白井  いま中沢さんのおっしゃった方法論的なものと、 今日、 クールジャパンとしてひとまとめにして言われてしまう現象とは、 相当に違うんじゃないかなという気がするんですね。 中沢さんの方法論は非常に微妙で繊細なものだと思います。 日本的なるものは存在すると同時に存在しない。 言い換えれば、 「存在する」 ということそれ自体の概念を改変するということにもなるのだと思います。 ここで違いが出てくる。

引用おわり

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僕がお薦めする中沢本は次の三冊

そのうちの二冊が ここの段落に出ていますね

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長々と紹介してまいりました 「中沢新一インタビュー」

引用紹介は 本便で終了です

お付き合い ありがとうございました m(_ _)m

いろんな意味で なかなか興味ぶかいテクストです

ぜひ 全文をお読みになってみてくださいませ

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04A 連載 中沢新一論」カテゴリの記事

コメント

あけましておめでとうございます。
 今年もよろしくお願いします。

 私は今日からもう仕事で、自分的にはぶーぶー文句言ってたんですが、仕事に行って改めて、自分に必要な人との接点について思い知りました。
 若い人たちに就労の機会を与えるというのは、本当に大切なことなんだなぁと感じます。

 
東 (略)つまり、人間というのはものごとを選択しているんじゃなくて、設計された中でしか選択できないし、その設計条件さえ変えれば、人間の自己決定はいくらでもいじられてしまうというタイプの議論が、実証的にも論理的にも出てきている。この融合は、それが思想史的にもフロイトやマルクスから懸け離れているし、実際にその担い手はフロイトやマルクスをむしろ軽蔑しきっているがゆえに、おもしろいことだと思うんです。思想史的にみると、かなりハイブリッドな形で新しい唯物論が出てきている。僕の人間観の基本は、人間は自分のやってきていることを全然わかってないし、コントロールもできないというものです。そのときの僕の表現が、「動物」であり「アーキテクチャ」だったんですね。
中沢 よくわかります。僕自身が対称性人類学という考え方で展開しようとしているのも、外生的な原理を第一に据えたときに、経済、宗教、内的な心的構造に至るまで、これを記述できるかということに挑戦しているようなものです
(『思想地図vol4』p35 )

 共産党の文化運動のような方向性とは対極にある(スピノザの)野生の思考。
 いにしえのアーキテクチャの中から、現前する野生の思考を明瞭に析出し、その野生の思考で社会・文化を再構築する。
 中沢氏の挑戦が東さんと明らかに違うのは、自己の(人間の)存在についての地に足のついた思考だと思います。
 まず自己存在という部分の定義が十分でなければ、どのような考察も机上の空論となる。

 中沢氏はもっと大きなスタンスでお考えのようですが、《経験的思考》という個々の極めて限定されている《内的思考》の在り方を統率し、それを万人の思考として受け入れられるものに変質させるような《外的思考》が《野生の思考》ではないかと私は考えています。


小泉 (略)それから、渡辺さんも『神話論理』につながる重要な筋だとされている「自然との支配的な接触」ですが、これもおそらく、人間を自然の支配者に見立てていく『方法序説』関係があります。ただし、このdominationは、われわれが通常考えるような「支配」とは異なっています。神学的で哲学的な伝統におけるドミナチオは、神による自然の支配を意味するわけですから。とはいえ、当時のフランス語文脈ではどうかということもあって、渡辺さんも読みに苦慮されているように見えるのですが、少なくともレヴィ=ストロースは社会主義活動家でありながらも、自然との関係でモラルを考えようとしていたという筋を取りだそうとしているわけですね。
渡辺 デカルトについては小泉さんの指摘になるほどと思いました。自然に対する捉え方には、エンゲルスの『自然の弁証法』などを踏まえているのかと考えていたのですが、おそらくそうした短いスパンでは収まらないのでしょうね。
(渡辺公三・小泉義之 レヴィ=ストロースの問いと倫理 『現代思想1月号p119)


 (略)自然は純粋な対象であり、即自的な存在であり、ここにすべての存在するものが含まれているとされる。しかしこれは人間の経験のうちに見いだすことはできないものである。というのは、人間の経験こそがこの純粋な対象に形を与え、これを変形してゆくからである。自然は人間の経験にとっては、まるで強迫観念のように、どこにでもあり、どこにもないものである。だからこの問題を解明しようとすることは、歴史から遠ざかることではないのである。
 じつのところ、この問題に少しでも取り組み始めると、主体、精神、歴史、さらにすべての哲学がまきこまれる謎に直面することになる。というのは、自然とはたんなる対象ではなく、認識のうちで意識という相手と対面する存在ではないからである。自然という対象は、人間が立ち現れた場であり、人間が生まれるための条件が少しづつ形成され、やがてある瞬間にこれが一つの実在として結ばれた場であり、人間を支え続け、人間に素材を与え続けてきたものである。誕生という個人的な事実にせよ、制度と社会の誕生にせよ、人間と存在との根源的な関係は、対自と即自の関係ではない。これは、知覚するすべての人間のうちで維持されている関係である。人間の知覚は、歴史的な意味を過剰に背負いこんでいるとしても、少なくとも事物を提示する方法と、その曖昧な明証性を、原初的なものから借り受けているのである。ヘーゲルについて述べながら、リュシアン・ヘールは「はじめに自然ありき」と指摘した。自然とはつねにわたしたちに先立って存在していたものであり、しかもわたしたちのまなざしにおいてつねに新しいものととして登場する。自然においては、現在のうちの存在する太古のものが示され、現前する太古のもののうちに新しいものが呼び出されるのであり、これが反省的な思考をとまどわせる。この思考の前では、それぞれの空間の断片は自立的なものとして存在する。これらが共存するのは、この思考のまなざしのもとで、このまなざしを通じてだけである。
(モーリス・メルロ=ポンティ 自然について 『メルロ=ポンティコレクション』pp170-171)

 自然との関係でモラルを考えるレヴィ=ストロースの《野生の思考》。
 その自然との関係を「はじめに自然ありき」という考えから出発しなくてはならないと、思考の在り方を戒めるメルロ=ポンティ。
 私はこれらの考えに著しく同意し、ここから始まる思考を自らのものにしたいと欲してしまいます。そして、この思考の在り方に未来を見出し、重ねてしまうのです。

 年初にむけて

 

yokosawa さん>

僕は今日から仕事がはじまりました
と言っても、授業はすぐ終わりますので、まずは成績づけ
そして、大学行政関係の仕事、その他の仕事です
授業が休みの期間が われわれの「研究」の時期です
今年は 久々にインドに行けそうで、とても嬉しいです

=====

「野生の思考」について yokosawa さんが
ここまでしっかり思考をなさっているとは
気づいておりませんでした

僕は この筋で考えたことはなかったので
純粋に 勉強させていただいております
ありがとうございます

こうした文脈や関心というのは
広義の近代批判ということになるのでしょうが
宗教(中沢発言のなかにおける語の意味で)と
宗教的なもの/神話的なもの(例の《体験》の在り処)とが
どのように議論されうるのか――
宗教学者としては そこが勝負です

そして、ここが全然できてません
僕だけでなく、世界中の宗教学者は!
がんばります
今年も よろしくお願いいたします

 私は先生方と違って、何の制約もなく言いたい放題な訳でして、まったくそんな風に先生に扱っていただけるものではありません。その辺は重々承知です。
 ですからどうか、ここ変じゃないって言ってくださいね。

 先生に勧めていただいて読んだ中沢新一の中は、どこもかしこも野生の思考でいっぱいでした。でもそれは、どの説明によってもつかみどころのない、空のような存在にしか私には感じられなかった。まさに、「どこにでもあり、どこにもないものである」
(メルロ=ポンティはほんとすごいですよね。まわりくどいけど。)

 《はじめに自然ありき》という姿勢のもと、自然との関係によって成立していた外的思考である野生の思考を否定し、あるとき人間は経験をもとに自分の力で外的思考を作り始める。
 《はじめに神ありき》の自然を統べる一神教的宗教、そしてさらに《はじめに人ありき》の資本主義・共産主義体制というシステムの構築です。
 
 それでも、自然からの恵みを尊いものとし、自然との関係をまだかろうじて繋げていた外的思考宗教から、全世界を人が統べる資本主義・共産主義というシステムに移行した時、ひとは自然の一部である自己の存在をも否定したことになってしまった。

 生活の安定は衣食住の確保からのみ得られるものでなく、人の精神には自然からの恵みである外的思考の中の何かが必要不可欠であり、それを無くした時極端に不安定になって、より価値のあるものを過大に求めるようになる。

 共産主義はシステムとしては完璧であったから野生の思考の排除に正解して崩壊した。
 資本主義はその不完全さから野生の思考が入り込む隙間ができていて、かろうじて生き残った。しかし、資本主義がシステムとして完成した時にはまた崩壊するであろう。

 そうなる前に、もはや野生の思考では生きられない私たちはどのようなシステムを構築できるのか。

 たぶん、思想につきつけられている現状の課題はこんなところだろうと推測します。

 中沢氏の言っていた等価交換ではない世界はいい線いっていると思うのですが、それはすでに等価交換がメインテーマである『鋼の錬金術師』でエドが言っていました。
 「等価交換なんて、くそくらえだ。」
※この部分はまだコミックになっていないうえ、ガンガンを暮れにまとめて捨てたので表現は曖昧です。あしからず。

 日本のマンガはすごいなぁ。荒川先生ははじめからこれが言いたくて書いてたんですよね。ほんと下手な教科書より勉強になる。

 ちなみに、コードギアスもすごく好きだし、セカンドシーズンであんなにやってくれるとは思ってませんでした。
 でも、思想家にいじられすぎてわけがわからん。
 純粋にルルがやれることやって、妹のために親友に自分を殺させるラストが一番いいと、私は思ってしまいます。

 もちろん先生はみてないですよねぇ・・・。

yokosawa さん>

別におだてているわけではないんですよ
ホントに すごいなぁ、と
学者、学者といってとにかく偉そうにしてられません、僕らは!

=====

中沢先生の資本主義論は 僕もお気に入りのところです
『カイエ・ソバージュ』の説明より、『緑の資本論』のほうが
よいと、僕は思います

基本図式は、両書ともまったく同じですが
説明のあり方が 『緑』のほうが しっかりしているからです
『カイエ』だけ読むと、よくわからないかもしれません

価値の増殖の原理はどこに・・・?

多くの思想家が取り組んできた課題ですが
非常に独自な説明を
当否は別にして (というか、当否を判定できないので、別にして)
与えてくれていると思います

しかも、それが宗教論になっているという

授業では紹介したことがありますが
これを、論文という形で どう引き受けるかは
相当むずかしいです、たしかに

=====

ハガレンもコードギアスも すいません、観てません

評判ですね。きっとよいんでしょうね

コードギアスの方が、僕の好みに合ってはいそうですが
いずれにせよ 長い・・・!

もっと短く、やっぱり せいぜい2時間ぐらいで
バチッと切り取ってくれるなら、ぜひ観たいのですが
なかなかシリーズ全部を観ようという「気」になりません

=====

《野生の思考》 と呼ぶにせよ 《自然の問題》 と呼ぶにせよ
そうですね、その辺りこそは 21世紀の問題ですね

かつて宗教学は まさにそうしたものの担い手として
中心的な役割を担ってきました
民俗学、人類学などと一緒になって、です

しかし、そこで出されていた図式が、まだまだ甘かった
僕のコトバで言うところの 《お手軽お気軽 反近代》 だった

だから、低迷していったのだ、と思います
民俗を調べたり、「未開社会」を調べたり、宗教を調べたり
そういうトピックと対象領域だけで 自己規定をするようになった

それはそれで悪くはないのでしょう
学問としてはまっとうなことなのでしょう

しかし、僕のような人間には それには満足できません
「ザ・思想」と僕が呼んできた思索レベルへの
直接的な参画こそが 僕には、必要と思われるのです

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