異界の構造と変わっていく神話
前便 「共同体の開かれ、 あるいは外部への憧れ」 よりつづく
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何の気なしに読みはじめた
- 『ユリイカ 2009年3月号』 (特集: 諸星大二郎)
思いのほか面白く、 記事を重ねてしまいました
最後に 所収のエッセイのなかでも
とくに面白かった一本
- 石岡良治 「異界の構造と変わっていく神話: 諸星大二郎の 『マッドメン』 について」 (149-57頁)
から 一節をご紹介します
諸星大二郎のマンガにおいて、 知的探求と創造力の展開は切り離しがたい連関をなしている。 だが神話や説話などについての知識そのものが重要なのではない。 トリヴィアルな細部についての衒学趣味は最小限にとどまり、 それよりはむしろ、 ある物語の謎を追跡していると、 いつのまにかその物語が再演されてしまうという構造が頻繁に現れる。 重要なのは、 物語が強制的に信仰するメカニズムの驚きなのだ。 ゆえに異界がひとたび完全に展開されるならば、 その構造は可視的になり、 謎もまた消失してしまう。 例えば 『闇の客人』 において、 稗田礼二郎は誤った町興しが招いた災厄に立ち会ったあと、 祭りの永遠の終わりを宣言する。 東北の 「かくれキリシタン」 と思われた一族の信仰が、 実際には旧約聖書における生命の木の実に関連していたという衝撃を残す 『生命の木』 の物語も、 村の消滅という結末を迎えるのだ。
153頁
もう一節。 最終二段落です
日常語における 「~神話」 という用法に顕著だが、 多くの場合 「神話」 は所与の社会構造を静態的に反復するものとみなされる。 だが 「呪的逃走」 とは、 異界からの帰還によってその構造を変動させ、 新たな時代を画する行為に他ならない。 もちろん呪的逃走の説話自体が定まった 「構造的な枠」 を有しているため、 この説話からの逃走それ自体もまた、 もう一つの 「呪的逃走」 としてプロット化されていると考えることもできるだろう。 「閉域を打破する物語」 という閉域である。
『マッドメン』 はこの神話の射程と限界を正確に辿っているのみならず、 諸星大二郎作品における異界の構造を可視化している。 そして諸星のマンガがすぐれているのは、 以上のような構造的認識が、 クライマックスに現れる超越的なヴィジョンをもたらす想像力と厳密に共存していることである。 よって物語の最終ページに、 バートンによって幻資されたコドワと波子のイメージが現れるのはほとんど論理的な必然と言って良いだろう。
156頁: 注記は省略した
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「アレレ」 と思わされるエッセイもありましたが
上記のものは 読んでいてとても楽しかった
コンパクトで上品な掌編 といった感じです
そのほか 面白かったものとして
- 諸星大二郎 「硬貨を入れてからボタンを押して下さい」
- 竹熊健太郎 「ワン&オンリーな作家」
また すでに紹介した
- 夏目房之介×都留泰作 「徹底討議 不定形な世界に魅せられて: 諸星大二郎の うまさの底にあるもの」
これも面白かったです
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最後に やっぱり この動画の埋め込みをば!
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