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2010年2月24日 (水)

交響するコミューン・の・自由な連合

前便 「われわれにとって好ましいものである限りのコミューン」 より つづく

====================

見田/真木先生のコミューン論――

前便 で引用した文章に 直接つづく部分です

引用をつづけさせていただきます

以下引用

 いっそう具体的な仕方で展開しておくならば、 それは個々人が、 自在に選択し、 脱退し、 移行し、 創出するコミューンたちである。 このようにユートピアたちを選択し、 脱退し、 移行し、 創出することの自由は、 再び外域の市民社会の、 ――正確にいえば、 ユートピアたち相互の間の関係の協定 agreement としての―― ルールのシステムによってはじめて現実に保証されることができる。

 市民社会のルールの海の中で、 コミューンは自由なものでありうる。 実質の価値という方向からいいかえるなら、 〈関係のユートピア〉 たちの自由を保証する方法としてのみ、 〈市民社会〉 のミニマルなルールのシステムは、 構築されるべきものである。

 だからわれわれの社会の構想の一般的な形式の表現としての、 〈関係のユートピア・間・関係のルール〉 ということは、 二重の仕方で徹底された自由な社会〉 の構想としての、 積極的な実質のイメージをこれに代入して定式化しておくなら、

 〈交響するコミューン・の・自由な連合〉 Liberal Association of Symphonic Communes

として表現しておくことができる。

引用おわり: 182-83頁: 傍点は太字で示した

  • 見田宗介 『社会学入門: 人間と社会の未来』 (岩波新書, 岩波書店, 2006年4月)

このようなコミューン論に 異論はない

ここで あえて問題にしておきたいのは

前便 で書いておいたように

〈交響するコミューン・の・自由な連合〉 Liberal Association of Symphonic Communes

という構想が 見田先生ご自身の実践における

建設的、 破壊的な諸結果を どのように総括

しているのか、 していないのか―― ということである

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04E 連載 見田宗介/真木悠介論」カテゴリの記事

コメント

 『自分を限定しないために何もしないことを受け容れる無限の力としてある「民衆」の現前。思う時代において、まぎれもない民衆の現前の確かな例として、黙々と身じろぎもせぬ、無数の群衆が、シャロンヌの死者たちの野辺送りのために集会し、卓越した規模でその圧倒的な姿を現した時にまさるものはなかった。計量すべくもない厖大さ、そこに何を付加することもできなければ、そこから何を差し引くこともできなかった。彼らは数量化しうるもの、数えうるものとしてではなく、また閉じた全体としてでもなく、集団全体を超え彼ら自身を超えて、そこに静かに場を領する総体として、そっくりそのままそこにいたのである。崇高な力、というのもこの無数の群衆は、自分が弱められたと感じることなく、潜在的で絶対的な無能力をおのれのものとして抱え込んでいたからであり、そのことは、彼らがもはやその場所にいることのできなかった人びと(シャロンヌの犠牲者たち)を継承するものとしてそこにいたのだということを、みごとに象徴していた。有限なものの呼びかけに答え、それを引き継いで有限性に対抗した無限なもの。そのときそこには、私たちがすでにその性格は定義ずみだと考えていたものとは異なる共同体の一形態があり、共産主義と共同体が結びついて、ふたつながら実現されるやたちまち消滅していくことをそれら自身が知らずにいるのを受け容れるという、稀有な瞬間があったのだと私は確信している。持続してはならない、何であれ持続に加担してはならない。そのことがこの例外的な日に聞き届けられた。誰ひとり解散を指令する必要はなかった。人びとは、無数の人を集会させたその同じ必然性によって散って行った。またたく間に散ってゆき、何も残さず、闘争グループの形でそれを存続させると称して真実の示威行動を変質させてしまう未練がましい徒党を組織するということもなかった。民衆とはそのようなものではない。彼らはそこにおり、もはやそこにいない。民衆は彼らを固定化するような諸もろの構造を無視するのだ。現前と不在とは、混合されるものではないとしても少なくとも実質的に入れ替わり合う。だからこそ、民衆を認めえない権力の保持者たちにとって民衆はおそるべきものなのだ。民衆を把握することはできない。民衆とは社会事象の解体であるとともに、それらの事象を法が囲い込むことの至高性〔主権性〕-至高性とは、あくまで法の基礎でありながら法を締め出すものである―において社会的事象を再創出しようとする頑なな執着ともいうべきものでもある。』
(モーリス・ブランショ 『明かしえぬ共同体』 pp68-70)

 私は、この民衆の性格と性質を把握しない限り、共同体について考えることができないような気がするのです。
 また、このような性格を無視して行動を抑制したり強要することで、社会にひずみができるのではないか。しかしながら、この捉えどころのない民衆を、何ものかによって(なるべく)無理のない形で掌握し導くことが可能なのか。私にとってはそこがネックなのです。それは政治によってなのか、宗教によってか、自然法によってか。謎は深まるばかりです。

yokosawa さん>

たまには ちょいと難しいコトバで 書いてみましょうかね…

=====

民衆とはいつも 把握の視点から取り逃がされて、痕跡すら残さない――
そのような性格のことですね

立派な知識人は今もたくさんいますが、 その《知識》の本性からして
この《否定の契機》としてのみある、具体的な人的存在の様態を
知識人は いつも把握しそこねるわけですね
(言うまでもなく、 アーキテクトは もちろん知識人の最たるものですね)

構築する権力の《残余》 《残響》 が それである(!)のですから
「無理のない形で」 の把握は 定義上、不可能なのではないでしょうか

そこに接続するルート (正確には、そのルートの可能性と思しき領域) を
ただ豊かに、 しかして恐るおそる残しておくこと――
それぐらいしか 構成する権力の側にできることはないのではないでしょうか

もちろん、 それは 後ろ向きな営為ではありませんね
そのような領域を、 タメとアソビと 《空》 を 放置しうるのだという
強い自己と世界に関する認識と規律と鍛錬を
構成する権力の側として みずからに与えてやるという
とても困難な 生命的な筋道だと思うわけです

=====

そうは言っても、《残響》 としてぐらいは それを聞きとっておいても
別に問題にはならないでしょう

どこから出発するか ということだと思うのですが
僕の場合、 愚劣で狭小な 愛すべきバカヤローどもを 想定するのです

「パンク」 とか 「バカ」 という 僕の言葉がそれを指示しますから
このブログで紹介してきた具体例としては
「プロレス馬鹿」 「AYU大好きっ娘」 「ギャルファッションの意気」
などのこととなりましょうか
そして、 ブログには書いていませんが
サンボマスターの歌に 熱くなっている奴らも そうです

もちろん このように把握したそばから
《残響》 は消えていきますから、 もうそこには何もありません

でも、僕の場合 そうした個所に 《現代日本の民衆》 の祖形を
ウスラボンヤリと見るようにしているのです

つまり、 僕のコトバや仕事が そいつらにとってどんな意味をもつのか――
そのことばかりを考えているわけです

 へいへい。

 人を結ぶ絶対性の存在と、それを否定的なアーキテクトとして拒絶する人の深層との対立が生む無価値。虚無と無限の創造が人の中で同時に存在することこそが、実は人間を新しい生き物として確立してきた方法であると仮定すれば、その混在の可逆性こそが人の価値である。
 
 そして、肥大した思考と増大した人口はその厖大な可逆性を持てあまし、虚無と創造をITを駆使したブラックボックスに押し込めた。そこで必要となったのが《アーキテクチャー》と呼ばれる人工建築物であった。

 この人工建築物中での存在価値の模索と現実世界での存在価値の軽視化が顕著になったのは、外に出ない人々《inner persons》の増加による。収入・修学のための最低限の外出以外は、快適に整えられた自室にこもって人工建築物の中の存在価値の追求に集中する。

 結果、創造が人工建築物へ、虚無が現実社会に増殖することとなった。

 しかし実際社会が崩壊していないのは、格差に起因するものと考察する。高収入層は現実社会での存在価値が肯定されている。また、低所得者層は就労時間の確保が生存の条件である。この二つの層と、土着による生活を継続している高齢者と人工建築物中での存在を許されない乳幼児。これらが現実社会を構成する新住民としてそれぞれの共同体を構築する。

 innner peoples による人工建築物中での共同体が完成する時、実社会での彼らがどのような存在であるか。そこが今後の日本社会の明暗を掌握する。実社会を彼らが魅力を感じる生活空間として確保できるかのか。

 それを 《twitter》にてちょっと実験中

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