「至高体験は超常的な現象ではない」 という見方
『スポニチ』 のサイトで
という記事をみつけた
山川あずささん がお書きになったもので
2009年2月23日付 である
山口さんのサイト 「Love&Light」 を拝見するかぎり
氏は 広い意味での スピリチュアル・リーダーのお一人のようだ
「カバラ」、 「ヌメノノロジー」、 「タロット」 そして
「オーラソーマカラーセラピー」(?) なるものなど
その手のキーワードがずらりと並ぶ
さて、 「至高体験」 (the peak experience) とは
たしかに 超常的ではなかろう
では、 「神秘体験」 「宗教体験」 と呼ばれてきたものと
「至高体験」 とは 果てさて 同質なのか、 異質なのか・・・?
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以下引用
http://www.sponichi.co.jp/society/special/yamakawa/yamakawa/KFullNormal20090223140.html
人はふとした瞬間に世界と溶け合って一つなるような体験をしてしまうことがあるようです。 いわゆる 「宇宙との一体感」 といわれるような体験は、 何も超常的な現象ではないようです。
アスリートのインタビューを聞いているとそのような体験をしたという事をよく聞きます。 シンクロナイズドスイミングの小谷実可子さんが経験した話を聞いたことがあります。
その日は大切な世界的な競技会だったそうですが、 プールサイドに立つ前から、 不思議と観客との一体感があったそうです。 体が内側で震えるほど喜びのエネルギーが湧いてきて顔が自然に笑ってしまうのを押さえられないほどだったそうです。
水に入ってからは、 無心。 いつもなら 「ここのポイントは審査の対象だから気をつけて」 とかいろいろなことが頭の中を巡るのですが、 この時は完全に体と水が一体化して自然に体が導かれるように動いていくのだそうです。 呼吸も全く苦しいということがなく、 心が落ち着いてまるでひとつひとつがスローモーションの瞬間、 瞬間のように感じられたそうです。
その大会ではみごとに優勝したそうですが、 なによりもその不思議な一体感がとても印象的だったと語っていました。 彼女はその体験をピークエクスペリエンス (至高体験) と呼んでいました。
同じようにアスリートで、 トリノオリンピックで見事に優勝を果たしたアイススケートの荒川静香さんもきっとその体験をしたのではないかと思います。 これは、 あくまでも私の推測になってしまいますが、 トリノオリンピックで最後の演技をしている瞬間、 彼女の中には、 金メダルのことやライバル選手のこと、 審査員のことなどまったく心の中にはなかったであろうということが伺えます。 彼女は完全に観衆の中に音楽の中に溶けていました。 喜びと美のエネルギーが輝きとなって彼女からほとばしりでているような感じでした。
テレビで中継を見ている私でさえ、 共感して鳥肌が立つほどでしたから、 その場にいた観衆がスタンディングオベーションになるのも無理はないでしょう。 うまく滑ろうとか、 点を取りたいという欲もすでにすっかり抜け落ちて、 その瞬間を味わいつくし、 満喫しているようすが手にとるように伝わってきました。 ああいう瞬間は、 見ている者たちをも至福の体験へと連れ去ってしまうのでしょう。
しかし、 至高体験は、 なにもアスリートの人々にのみ起きることではありません。 先日 「奇跡のリンゴ」 という本を読みました。 青森のリンゴ農家のおじさんが、 無農薬でリンゴがつくれないものかと、 研究に研究を重ね、 苦悩と葛藤の末に一つの答えを見出していったという実話です。
彼はある日、 無農薬りんごの栽培があまりにもうまくいかない事に絶望し疲れ果て、 自ら命を絶とうと、 ロープを持って山に入ったのです。 しかし、 そこで一本のどんぐりの木と出会います。 人の手が全く入っていない自然のまんまのこの木にはなんでこんなにたわわに実がなるのだろう? その瞬間、 彼の中で何かが変わってしまうのです。 彼の心を覆いつくしていた黒い霧がすーっと晴れ、 ぴかっとひらめきを得るのです。
彼は、 自分というめがねをかけて物事を見ていたことに気が付きます。 彼が闘い続けてきた 「害虫」 が、 自然の中で必然として存在している虫に変わります。 必要の無い虫も草もありません。 雑草ということばも人間が勝手につけた呼び名です。 必要の無い草など一本だってないのです。 世界がつながりあって一つの命となっている。 害虫も益虫もなく、 雑草も狸やきつねもバッタも小動物もみんなで調和しあって自然が営まれていることを悟るのです。 彼の場合、 一体感はその摂理を理解するという形をとって訪れたのでしょう。
ここに挙げた3人の共通点は、 「一心不乱に一つのことに打ち込んだ」 ということでしょう。 一つの道を究めるとそこに至高の状態、 宇宙との一体感が姿を現すのです。 それが究極の真理だからということもできます。 人間がいろんな道を通して最終的に到達しうるひとつの気付き、 それが至高体験なのかもしれません。
映画 「禅 zen」 で道元禅師も至高体験にいたります。 彼は一心不乱に坐禅に打ち込んだ人です。 打ち込むものは何であれ、 人が行き着く答えはたった一つなのかもしれません。
[ 2009年02月23日">]
引用おわり
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