鈴木謙介による 「近代(性)」 定義
- 芹沢一也・荻上チキ (編) + 飯田泰之・鈴木謙介・橋本努・本田由紀・吉田徹 (著) 『日本を変える 「知」: 「21世紀の教養」 を身に付ける』 (光文社, 2009年5月)
所収の
- 鈴木謙介 「日本ならではの 「再帰的不安」 を乗り越えて」 (225-80頁)
より
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以下引用
さて 「後期近代」 って、 最近の社会学者がよく使う用語なんですが、 その前に、 そもそも 「近代」 って概念も、 その定義があいまいなところがあります。
時代概念としての近代は、 1648年のウェストファリア条約あたりをメルクマール (起点) にしますが、 実は社会学では 「近代」 をそうした 「何年から何年までが近代」 という時代概念として捉えていません。 「近代性 (モダニティ)」 というモデル概念だと考えるんですね。 というのも、 近代化は世界で同時に起きた現象ではないからです。 「あるモデルが当てはまる社会のことを 『近代社会』 と呼びましょう」 というお約束ごととして考える。
そのモデルとは何か。 一般的にいうとまず、 個人の自意識の存在、 つまり自立した個人を前提にするということです。 これは基本的人権の基礎となる発想です。 次に民主主義の理念と制度が定着していること、 それから高度な資本主義の存在。 大体この三つが出そろった社会のことを 「近代」 と呼ぶわけです。
もちろん個別には、 「高度な資本主義」 ってどのくらい高度なんだとか、 そういう問題は存在するんですが、 そのくらいあいまいな定義だからこそ、 「近代」 は汎用的な基準になり得ていたとも言えるわけです。
引用おわり
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この 「近代 (性)」 定義については
ちょっとばかし 言いたいことがある
しかし、 もうすっかり長くなったので 次便にて
<つづく>
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