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2010年2月28日 (日)

《近代》 をこそ まずは徹底的に考察することの必要

前便 「鈴木謙介による 「近代(性)」 定義」 より つづく

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前便 にて

  • 芹沢一也・荻上チキ (編) + 飯田泰之・鈴木謙介・橋本努・本田由紀・吉田徹 (著) 『日本を変える 「知」: 「21世紀の教養」 を身に付ける』 (光文社, 2009年5月)

所収の

  • 鈴木謙介 「日本ならではの 「再帰的不安」 を乗り越えて」 (225-80頁)

より 氏の 近代 (性) 定義を長めに引用しました

それへのコメントをば ちょっとしておきたいと思います

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鈴木謙介さんの近代 (性) 定義に

僕は どうもすなおに うなずけません

間違っている、 ということではないのですが

あまりに 簡略化されすぎ、 否さ より精確にいえば

《表面的すぎ》 だと思うのです

簡素化というのなら かまわないのです

なぜなら、 鈴木さんがこの論考で主題化しているのは

「後期近代」 (レイトモダニティ) と 「脱近代」 (ポストモダン)の二つ

付言すれば、 「脱近代論」 と区別されたものとしての

「脱産業 (脱工業) 社会論」 (244頁)も含めて三つ

の概念だ、 といえるからです

前便 での引用からもわかるように、 鈴木さんの「近代」 定義は

あくまでも そうした2ないし3の概念をめぐる

主題的議論の導入にすぎません。 だから

《近代 (性)》 定義は簡単にすませざるをえない――

ふむふむ なるほど…

そこだけを見れば まさにその通りでしょう

しかし! 本当にそうなのか…? と 僕は思うわけです

《近代 (性)》 理解/定義が 表面的なままで はたして

「後期近代」 や 「脱近代」 が ちゃんと語れるのでしょうか

だって 《近代》 あっての 「後期」 だし 「脱」 でしょう…?!

その後の議論のためにこそ、 《近代》 について

徹底的に考察しておくことが肝要なのではないでしょうか

それを あまりにも表面的なレベルで済ましてしまうのは

議論のデザインとして 明確な破綻なのではないでしょうか

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この点についての実際の判断は

全文を読んでみてから しなくてはいけません

やっぱり 《近代》 論は あの程度でよかった のか――

やっぱり 《近代》 論の不十分さが 議論を空回りさせている のか――

ちなみに 僕の判断は後者でした

どこが悪い、 間違ってるというんじゃないんですが

各所各所でネジが 少しずつ弛んでいて

全体として ガタガタ ユルユルしてしまっているなぁ、 と

皆さんがどう判断なさるのか、 お聞きしたいなぁ と思ったりします

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