《近代》 をこそ まずは徹底的に考察することの必要
前便 「鈴木謙介による 「近代(性)」 定義」 より つづく
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前便 にて
- 芹沢一也・荻上チキ (編) + 飯田泰之・鈴木謙介・橋本努・本田由紀・吉田徹 (著) 『日本を変える 「知」: 「21世紀の教養」 を身に付ける』 (光文社, 2009年5月)
所収の
- 鈴木謙介 「日本ならではの 「再帰的不安」 を乗り越えて」 (225-80頁)
より 氏の 近代 (性) 定義を長めに引用しました
それへのコメントをば ちょっとしておきたいと思います
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鈴木謙介さんの近代 (性) 定義に
僕は どうもすなおに うなずけません
間違っている、 ということではないのですが
あまりに 簡略化されすぎ、 否さ より精確にいえば
《表面的すぎ》 だと思うのです
簡素化というのなら かまわないのです
なぜなら、 鈴木さんがこの論考で主題化しているのは
「後期近代」 (レイトモダニティ) と 「脱近代」 (ポストモダン)の二つ
付言すれば、 「脱近代論」 と区別されたものとしての
「脱産業 (脱工業) 社会論」 (244頁)も含めて三つ
の概念だ、 といえるからです
前便 での引用からもわかるように、 鈴木さんの「近代」 定義は
あくまでも そうした2ないし3の概念をめぐる
主題的議論の導入にすぎません。 だから
《近代 (性)》 定義は簡単にすませざるをえない――
ふむふむ なるほど…
そこだけを見れば まさにその通りでしょう
しかし! 本当にそうなのか…? と 僕は思うわけです
《近代 (性)》 理解/定義が 表面的なままで はたして
「後期近代」 や 「脱近代」 が ちゃんと語れるのでしょうか
だって 《近代》 あっての 「後期」 だし 「脱」 でしょう…?!
その後の議論のためにこそ、 《近代》 について
徹底的に考察しておくことが肝要なのではないでしょうか
それを あまりにも表面的なレベルで済ましてしまうのは
議論のデザインとして 明確な破綻なのではないでしょうか
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この点についての実際の判断は
全文を読んでみてから しなくてはいけません
やっぱり 《近代》 論は あの程度でよかった のか――
やっぱり 《近代》 論の不十分さが 議論を空回りさせている のか――
ちなみに 僕の判断は後者でした
どこが悪い、 間違ってるというんじゃないんですが
各所各所でネジが 少しずつ弛んでいて
全体として ガタガタ ユルユルしてしまっているなぁ、 と
皆さんがどう判断なさるのか、 お聞きしたいなぁ と思ったりします
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