《外部》 の体験、 その聖と俗
前便 「自分の仕事がこの世の現実に対してしっかりと立っていられるものなのかどうか」 より つづく
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- 田中ユタカ 『愛人-AI・REN- 上 特別愛蔵版』
- 田中ユタカ 『愛人-AI・REN- 下 特別愛蔵版』
前便につづいて 再び
作者 田中ユタカさん のコトバを 引用させていただきます
一つの物語を長期間かけて描くというのはボクにとっては 「愛人 [AI-REN]」 が初めての経験です。 やってみてわかったのですが、 長い物語を長い時間をかけて描くという作業は、 予め決められた予定を順次消化していくような行為とはまったく違ったということです。 それはむしろ発掘作業に近いと感じました。 きっとここにはこういう素晴らしいものがあるはずだ、 と信じて少しずつ少しずつ注意深く掘り出していく。 もちろんそれが大体どんなものかは分かってはいる。 だが、 この手で掘り出してみるまでは本当の姿は分からない。 おかげでボクと担当の中澤さん (ショーちゃん) は大発見を信じる砂漠の考古学者の有様です。 また、 こんな感じでもあります。 どんなに悩んだ時でも、 その言葉や絵や展開が 「正しい」 かどうかというのは瞬間的に厳然として分かります。 頭の中のランプがオール・グリーンに変わって 「それが正解だ!!」 と教えてくれます。 まるでどこかの空間に 「愛人 [AI-REN]」 最終話までの厳密な設計図がすでにちゃんと用意されているんじゃないかという感じで。 逆に台詞一つでも間違うと 「違う!! 違う!! それじゃない!!」 と警報が発せられます。 その警報は強烈でとても無視して作業を続けることが出来ないほどのものです。
しかも、 その設計図は意地が悪く、 決して積極的に正解を教えてくれたりはしない。 正解かどうかの判定を無慈悲に下すだけです。 どうやら今のところ設計図からは外れていないみたいです。
下巻 「愛 [AI-REN] 人3巻のためのあとがき」 84頁
旧版第3巻 (2001年7月) に 作者 田中ユタカ氏 が寄せた
「あとがき」 が 上記 『愛蔵版』 下巻に再録されている
そこからの引用でした
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ギリギリのところまで 自分を追い込みながら
何かのモノを作り出す作業をしたことのある方なら
皆さん 共有されている感覚であり、 体験でありましょう
一介の無名学者である僕にすら これは強烈にあるぐらいですから
田中さんのコトバで 宗教学者として注目しておきたいのは
創作活動 (まったく 《世俗的な》 概念です) の極点における
自己の 《外部》 の体験 です
もうすでにそこにあって、 掘り出されるのを待つ 「素晴らしいもの」――
正しさを 「教えてくれる」 何か――
どこかの空間に用意済みの設計図というイメージ――
無視できないほどに強烈な警報――
こちらに対して 「判定を無慈悲に下すだけ」 の何か――
《外部性》 の体験は こうしたコトバに鮮明です
では、 いつも掲げる問いを ここでも
この体験と いわゆる 「宗教体験」 は同じなのか、 違うのか?!
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