信仰と開発、 あるいは経済と宗教
« 何も作れない焦りと不安 | トップページ | 《外部》 の体験、 その聖と俗 »
「01A 宗教学」カテゴリの記事
- 20世紀における「反近代」の変容(2016.02.24)
- 島薗進 『ポストモダンの新宗教』 (2001)(2016.02.17)
- [ワークショップ] オタクにとって聖なるものとは何か(2016.02.27)
- ヒンドゥーの霊的原初主義(2015.12.17)
- 映画上映会 『マダム・マロリーと魔法のスパイス』(2015.11.11)
「01C 宗教と世俗のあいだ」カテゴリの記事
- 芸術宗教、もしくは世俗化した世界の宗教的感受性(2016.03.10)
- [ワークショップ] オタクにとって聖なるものとは何か(2016.02.27)
- ヒンドゥーの霊的原初主義(2015.12.17)
- 宗教者と無神論者の双方に関わる問題、あるいは信への転回(2015.06.01)
- 世間とは何か(2015.05.07)
「03C 開発と開発学」カテゴリの記事
- 映画上映会 『マダム・マロリーと魔法のスパイス』(2015.11.11)
- 死、社会貢献、祖霊(2014.12.02)
- 路上の神様―祈り(2014.11.30)
- インド研究者がインド時評を書くという課題(2010.04.08)
- 【講演会】 国家をまもれるエリートは出現するか(2010.02.09)
コメント
この記事へのコメントは終了しました。
トラックバック
この記事へのトラックバック一覧です: 信仰と開発、 あるいは経済と宗教:
» [topologue][mono]いつから対立するようになったのだろう。。。 [はかとも(無縁彷徨)]
近藤光博さんのブログに興味深いエントリがあった。 信仰と開発、 あるいは経済と宗教: Buddhi Prakash エントリのタイトルにあるように、「信仰/開発」あるいは「経済/宗教」が対立項として扱われている。ところで前近代社会*1では、開発を進めるためにこそ要請された信... [続きを読む]
>馬頭観音の霊力は 経済力学に勝てるだろうか
結局そういうことですが、宗教的施設の完全撤去や転用は、なんとなく(←ここを明確にするべきでしょうが、祟りが怖いとか)嫌だというのが人間で、経済的にやむにやまれなければそのままにしたい。
L.A.で小さなモスクを売りに出したとき、交渉がまとまったのは(買い手として喜ばれたのは)キリスト教会でした。世俗の肉屋などになるより良かったんでしょうね(笑)。
投稿: Mark Waterman | 2010年2月 8日 (月) 13時34分
Waterman さん>
久々のコメント 本当にうれしく思います
今度は ツイッタ―流れですからね、 また新しい側面も見えてくるや、と
宗教施設(含む “塚” “碑”)の撤去――という局面について
これだけで どれほど立派な 宗教民俗(族)学のモノグラフが書けることでしょう…!
投稿: コンドウ | 2010年2月 8日 (月) 13時44分
とても興味深い内容です。。
ツイッターの方では、これに触発されて宗教経済学なんて考えてしまいましたが、
人類学的モノグラフとして、宗教と経済と(そして開発人類学とも!)
切り結ぶような形にすれば成功しそうですね☆
この問題、またWatermanさんの言及しておられる問題とも合わせて
非常に興味深く思います!!
keikogk
投稿: 馨子 | 2010年2月 8日 (月) 16時33分
Grace 馨子 keikogk さん>
コメント ありがとうございます
経済にそこまでの関心がおありだとは 知りませんでした
この領域は かなり成功の確率が高い! と踏んでおります
手前みそながら、 「宗教政治学」は ここを射程に入れないわけにはいきません
投稿: コンドウ | 2010年2月 8日 (月) 16時38分