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2010年3月 5日 (金)

「活元」 的なものを詐術に接木すること

<連載 見田宗介/真木悠介論>

前便 「神秘的ではまったくないが、 強烈に非日常的な肉体の体験」 より つづく

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  • 伊東乾 『さよなら、 サイレント・ネイビー: 地下鉄に乗った同級生』 (集英社, 2006年11月)

「見田ゼミ」 合宿における 「活元」 体験――

このことを伊東先生が 念入りに述懐するのは

それが 「宗教的経験に代わるものとして」

伊東先生の中にあった、 ある 「渇望」 を満たし

それゆえに 「豊田」 とは異なる人生を歩むことになった

という理解を表明するためである

 この1987年の7月の経験は私にとって、 ある意味で 「信仰」 獲得に近い意味合いを持った。 つまり、 特定の神を仮定しなくても、 これらの生命にとって本質的な現象を、 唯物的、 生理学的に理解するという体験自体が、 宗教的経験に代わるおのとして、 私の中にあった、 ある 「渇望」 を満たした。 もしこれが、 「オウム神仙の会」 であったなら、 そして脊髄の反射なのではない 「シヴァ大神」 などで説明されて納得してしまっていたら、 私は間違いなく別の人生を、 しかもかなり強力に歩んでいたに違いない。 生理的な現象はそれとして存在する。 それを詐術に接木するかどうかは、 まったく別の問題なのだ。

235頁

伊東先生によれば、 見田宗介先生は

「詐術」 の使い手では 決して!! なかった!!

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伊東先生にとって、 それは きっとその通りなのだろう――

ここまできてやっと僕は

以来、 ずっとやってきた連続投稿の最初の問いに

立ち戻ることができる

  1. 伊東先生以外の方がたの その後はどうなったのだろう…?
  2. 見田先生ご自身は こうした実践についてどう総括しているのだろう…?
  3. そもそも 総括の必要を認めているのだろうか…?

ポスト・オウムの宗教学者として 僕は

このことを問いかけた上で、 あらためて

見田先生を引き継ぐ宗教学

を 構想してみたいと思うわけです

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