ファンタジー・コモンセンス・宗教
昨日 つぶやいたこと ――
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サブカルとして範疇化されるファンタジーと
知=権力におけるコモンセンスと
《宗教》の世界観=価値観とは
何が違うというのか…
これら三者の根拠はいずれも!
人間一般にとっての広義のアフォーダンス
アプリオリよりはまだ歴史的=生物学的な与件…
そこにある という断言から
人間学を組み上げなおすべきなんじゃないか
だから僕は オタク論壇に期待する
ファンタジーの哲学に期待する
一介の印度研究者には手に負えない
この大変な問題への解を聞かせてほしい
固有名と大きな物語を失った現実世界の中で
キャラと構造と記号が織り成す VRを
したたかに 必死に生きる、と…?
そんな切込口で
皆な ホントに納得してるのか?!
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ファンタジーについて最近書かれた本を読んでいないので、最近では何がファンタジーと呼ばれて何と区別されているのか、私にはよくわからなくなっています。そもそもそのあたりの区分けがファンタジーブームとともに分かりにくくなっているのでしょう。
空想小説がファンタジーなら、ほとんどの小説がファンタジーのわけで、ファンタジー批判は全ての小説批判に。現実的にありえない事象が当たり前の世界が描かれているのがファンタジーなら、現実世界の定義が正確になされない限り、ファンタジーと非ファンタジーとの区分けどころか、現実とファンタジーの区分けも難しい。
《私たちが住んでいる世界のことを、私たちがすべて理解できるわけではない》 という立場に立って宗教を見ると、「そうだね。それでも君は守られている。だから信じて生きなさい。」ってメッセージが見えてくる。そして、それこそが人に必要なんだろうなぁと感じるのです。
私が知っているファンタジーは、そこのところを補てんする材料です。より人に近い立場に立って、人は不完全な生き物だけれど、《何かの力》によって支えられて、不完全さを乗り越えて生きるんだってことを物語を通じて人に訴えかけるもの。そうして、ファンタジーか非ファンタジーかの違いは《何かの力》が何なのかで決まる。
それが人同士の《友情》や《愛情》だったらファンタジーなんて呼んではいけない。そういう行動が人の現実をけむに巻く。私たちの存在自体をファンタジーにしてしまう。そういう意味で私にとってはハリポタはファンタジーではない。魔法を使える人の物語。
人間が人間以外のものに支えられるファンタジー自体は特に欧米ではもう衰退してしまったんだろうな。アスランはもういないんだ。
でも、それについて、人々は不満に感じている。不安にも感じている。
それが、クールジャパンや宮崎アニメが欧米でもてはやされる理由の一つなんだろうと思う。
一方日本では、土着の共同体の崩壊を感じた(特に都会に住む若者が)自分を支える優しい場所を求めて放浪している。ファンタジー(と呼ばれるもの)と恋愛を重ねて満足を得てみたり、仮想友人たちとの友情を温めたり。
でもそれじゃ生きていけないことは多くの若者には気付かれていて、彼らは飛び出してきている。飛び出してきた世界で彼らを支える支度を大人はもっと真剣に考えなくちゃいけない。
仮想青年の事を考えるくらいなら、現実青年のことを考えるべきだ。なんでこんな世界になったのか、何一つ反省もせず、批判して、禁止するなんて、この世界を駄目にした大人の行動そのものだ。
世界が必要としているものについて、日本のアーティストは敏感に感じ取ることができる。そのことは、僕らが自慢に思っていいことだ。
そして、日本発のファンタジーが世界を救えるって言う夢を持って行動するっていうのも、いいのじゃないのかなぁと思ったりする。
そして、そのときのファンタジーを支える《何かの力》を何に見るか。それが未来を変える鍵だと思う。
(先生が居ないブログで書くのは、味がないなぁと感じながら書く!)
投稿: u.yokosawa | 2010年3月20日 (土) 09時46分