フランスにおける形而上学的な意味での民主主義者
フランスについて――
およそ一九七〇年頃以降、 私たちは知らず知らずのうちに、 神的なものの軌道という従来の道筋から逸れ、 たとえ遠くからであれはたらいていた神の引力から外れてしまった。 もはやどの市民も、 自分は超越的なものによって規定されていると思うことができなくなっている。 「人の国」 は人間の作品なので、 人を結びつける秩序や分裂させる無秩序を説明するのに神の視点を入れることは、 わが国で最も熱心な信者の目には不敬虔に見えるようになっている。 要するに、 私たちは形而上学的に民主主義者となったのだ。
ここには転換が隠されている。 天を信じる者と信じない者の関係が完全に変わってしまった。 いや、 変化したのは校正の配分だけではない。 公的なもの [共和国] についての考え方全体が、 現在の変動に巻き込まれているのだ。 形而上の存在に依存することに反対して市民が打ち立てたものが、 ことごとく土台から崩壊しようとしている。 いかなる年譜にも記載されていないこの密かな出来事、 間接的にしか探り当てることができないこの密かな出来事。 ここに、 フランス史におけるひとつの深い断絶がある。 以来、 私たちは、 優に二百年に及ぶ政治的思考の遺産から切り離されつつあるのだ。
31頁
- マルセル・ゴーシェ 『民主主義と宗教』 (伊達聖伸+藤田尚志訳, トランスビュー, 2010年2月)
(1)
1970年という 具体的な日付を特定できるところに
フランスを事例とした、 この分野の研究の強みがある
たとえば日本で、 あるいはインドで
このような 「転換」 は あったにせよ さほど劇的ではなかろう
(2)
《形而上学的な意味での民主主義者》 ――
この観念は もっとも肝要だ!
この複雑なうえ、 従来のコトバでは記述がとても難しい
《宗教の政治史》 において
「民主主義」 という概念を帰着点としてもってきたところに
ゴーシェの議論の 最大の価値がある
日本の、 あるいはインドの 同様の歴史過程は
おそらく 「民主主義」 の歴史としては
帰着させられえないだろう
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