地域生活の宇宙の不易流行、 そしてそこに生ずる「力」
- 長澤壮平 『早池峰岳神楽: 舞の象徴と社会的実践』 (岩田書院, 2009年5月)
社会解体や神事の客体化などのように外的諸要素が干渉してくる次元とは別に、 多くの神事が所属する空間上の拘束性、 限定性、 固有性、 および持続性や不変性といった、 地域社会に伝承されてきた神事に特有の内的閉鎖性の次元があることを忘れてはならないだろう。 近現代における日本の地域社会が、 国家によって上から制度化されたものにすぎないこと、 そしてその気象・地理条件の強い拘束力によって科学技術による自然の支配が限界づけられていることなどによって、 前近代的な共同体の人間的つながりはいまだ残存している。 上に述べたような神事システムは、 固有な場所において一定の持続性のなかに息づいており、 とりわけ社会結合という機能や、 地域固有の資源配分の点において重要な意義を擁している。
固有性や持続性は、 地元の人々の身体について考えるうえで重要になる。 彼らは、 地域に固有のものを、 持続的に、 繰り返し、 身をもって経験してきた。 それは、 外部の人々による言語的構築とは異なる次元のものだ。 ひとりひとりの身体に、 神楽の祭りが、 人と人との絆が、 そして早池峰山が刻み込まれ、 それらはもはや意識にも上らないほどに当たり前のものとして、 非言語的・非反省的に身をもてtr会される。 こうして理解される認知的意味が行為をうながし、 神事システムを実現しているのは、 地元の人々がそもそも純粋素朴ではありえないのと同様に明白なことであろう。
ii-iii頁: 傍点は太字で示した
[…] 神楽と人は相互作用する。 この相互作用における 「演じられている型」 に、 主観的経験の力動性のパターンが立ち現われる。 岳神楽は中世にはじまる長い歴史のなかでこの相互作用を維持し、 そこにおける 「演じられている型」 に仮託された主観的経験の力動性のパターンの蓄積と棄却を繰り返してきたとと推測される。 たとえば、 中世における神仏習合の教義と信仰から近世における唯一神道のそれへ、 そして近世中期から末期における民衆心理の変動といった歴史的変容は、 「演じられている型」 に仮託された 主観的経験の力動性のパターンの変容をも引き起こしただろう。 こうした幾多の変容を経ながらも、 主観t値き経験の力動性のパターンは、 伝統的習得過程によってなおも一定の歴史的連続性を保ち、 その奥行きを抱え込みながら、 「いま」 生きられる 「演じられている型」 として表現される。 これが現在の上演の場に居合わせる人びとの体験へと展開し、 同時に人々を結びつけるのである。 いい換えれば、 「演じられている型」 は、 歴史的な過程と蓄積をもつ人々の主観的世界を、 現在の人々のそれと重ね合わせながら、 現在の上演の場の人々へと伝達する。 そして、 過去の人々と現在の上演の場に参与する人々は、 「演じられている型」 のもとに結びつけられるのである。
269-70頁
本書もたしか
信頼すべき書評家 ソコツさん の紹介で知ったと思う
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