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2010年3月28日 (日)

「宗教」という語をブラックボックスにしてはいけない

前便 「厳密かつ丁寧な国民国家システム史を構想すること 」 より 直接のつづきです

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前々便 にて 次の引用をしました

  • 島田裕巳 『無宗教こそ日本人の宗教である』 (角川oneテーマ21, 角川グループパブリッシング, 2009年1月)

 このように、 二〇世紀の終わりから二一世紀のはじめにかけて、 世界各地で、 さまざまな宗教を背景とした原理主義が勃興し、 対立と抗争をくり返すことで、 世界平和を脅かすまでになった。 こうした事態は、 世俗化が宗教学の主たるテーマになっていたわずか三〇数年前には考えられないことだった。

106-7頁: ルビは省略

 経済がグローバル化していけば、 相対的に、 国の力は衰えていく。 先進国は、 どこの政府も巨額の財政赤字に苦しみ、 高度な社会保障制度を維持することが難しくなっている。 金利も低下し、 各国の中央銀行は、 金利の上げ下げによって経済環境に影響を及ぼすことができなくなってきた。

 それは、 国民国家の時代が終焉を迎えつつあることを意味する。 国民国家が国民の生活を支えることができたのは、 経済成長が続き、 潤沢な国家の財政を用いて、 社会保障制度を維持できたからだ。 それが不可能になれば、 国民の生活を国家が守ることはできなくなる。 経済格差は拡大し、 低所得者層が増えることで、 生活に不安を抱える人々が増加せざるを得ない。

 国家があてにならない状況のなかで、 人々が頼れるものは宗教である。 宗教は、 人々を結束させる力を持つとともに、 相互扶助の態勢を確立することで、 困窮しても、 国家によって救われない人々に救済の手を差し伸べていく。 さらには、 宗教が提供するビジョンは、 生活が困窮した人々に明日への希望を与えていくのである。

 したがって、 グローバル化が進行していけば、 宗教への期待度はさらに高まり、 その力はより大きなものになっていく。 ここ数十年のあいだに、 宗教をめぐって起こってきたことは、 国民国家の衰退と併行する現象なのである。

108-9頁: ルビは省略

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こうした立論への批判を企てようというわけで

第一の批判を 前便 に書きました

本便は 二つ目の論点です

思わぬ連投になってしまいましたが

よろしくお付き合いくださいませ (=゚ω゚)ノ o(_ _)oペコッ

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【批判 2】

二つ目の批判は ちょっと分かりにくいかもしれない

第一の批判で触れた論点の拡大深化バージョンであるとともに

より直截な 《宗教論》 というカテゴリー内での批判である

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島田先生の理解=説明図式は、 要するに

国民国家 (それについての説明不足は上記のとおり)

宗教とが 「人々」 を媒介にして 反比例の関係にある

というものだ

両者は、 人々の日常的なニーズに応える制度として

競合関係にある

一方の能力と可能性が低下するから、 他方は上昇する

そのようなものとしての 《反比例》 関係にある、 と――

しかし、 この図式は 贔屓目に見積もっても 単純すぎる

==========

(2-1)

まずはっきりと指摘できるのは

「国民国家」 と同カテゴリーに入る 「宗教」 とは

具体的に “何“ を指すのか、 まったく不明―― という点

具体的な複数の教団? あれこれの宗教者 (たち)?

習慣習俗、ひいては古くからの文化や伝統?

(それは 「宗教」 か?)

新しい文化はどうなっているのか?

(たとえば、 「スピリチュアル」 は?)

セイフティネットとして機能するからには

かなり具体的な活動手段を有するべきだが

それらは どう組みあがっているのか?

単なる期待や予期? それとも組織/集団/法人?

疑問は いくらでも湧いてくる

答えられないままの問いがこうも残ってしまうのは

島田先生の図式が 実は

説明すべきところをしないですましているから

ではないだろうか。 すなわち、 その図式は

「宗教」 という言葉を ブラックボックスとして使用し

それらしきものを何でも代入可能なマジックワードにしておいて

その内実 (定義、 とは言わない) を明確化しないことで

「宗教テロ」 や 「宗教紛争」 などとして報道される

具体的な出来事や事件との連関についての説明、 および

「宗教」 と呼ばれてきた/呼ばれているものをめぐる

組織的、 非組織的な構築の力学についての解明

―― これらこそ 真に説明されるべき点なのだが ――

を、 一挙にショートさせてしまっているのではないか

そのようにして 「宗教復興」 なるものの固定観念を

ただ拡大再生産しているだけなのではないか――

このような批判がまずできる

==========

(2-2)

もう一つのことも指摘しておきたい

すなわち

国民国家と宗教とを 素朴な反比例関係において見る図式は

端的に間違いではないのか? という疑義である

この点は

  • マルセル・ゴーシェ 『民主主義と宗教』 (伊達聖伸+藤田尚志訳, トランスビュー, 2010年2月)

で 強調的に主張されていることであり

僕自身 ゴーシェから学んだのだ

ということを明記して

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<次便に つづく>

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