« 地域生活の宇宙の不易流行、 そしてそこに生ずる「力」 | トップページ | 堂々たる想像力の燃え、 あるいは 《メタファー・ファンタジー・性欲》 »

2010年3月 9日 (火)

宗教哲学と「ザ・思想」

帰宅したらば、 日本宗教学会 の学会誌

『宗教研究』

の最新号 (第363号, 第83巻, 第4輯, 2010年3月)

届いていた

昨年9月 京都大学で行われた

「第68回学術大会紀要特集」 である

====================

巻頭に 今回の公開シンポジウム の記録がある

テーマは

思想としての宗教

ご発表は 高田信良、 杉村靖彦、 西平直各先生

コメンテータは 深澤英隆先生

(深澤さんには 「先生」 と呼ぶな、 と言われている 笑)

司会は 氣多雅子先生 だった

====================

2009年9月11日に開催されたシンポジウム――

僕には初めてのことだったが、 ちゃんと最初から

最後まで 参加した。 それぐらい関心を引いたのだ

今回の記録を 一読、 当日会場で感じたよりも強く

あぁ 自分がやっているのは 宗教哲学なんだなぁ

との感想をもった

京都大学の宗教学には 圧倒的な宗教哲学の伝統がある

言うまでもないことだ

このシンポジウムでは

その批判的継承・発展がどう行われているか

その一端を分からせていただいた、 と思う

宗教学は 「ザ・思想」 へと再突入すべきである――

僕はこれまであちこちで、 そう主張してきたのだが

京大宗教学からは きわめて多くのことを

学ぶことができる、 との確信を僕は得た

旧 「京都宗教哲学会」、 改め 「宗教哲学会」 は こちら

東京大学系の宗教学は とにかく宗教哲学が弱い!

社会学や歴史学のアプローチが しっかりしているのは

とてもよいことである。 また実際のところ

教官も学生も 宗教哲学には一家言をもっている

皆がそうだ、 と言ってもいいぐらいだ

最近では、 鶴岡賀雄先生 が その任を担っていらっしゃる

しかし、 それは学説のレベルで ちゃんと議論されている

とは言えないかもしれない。 たとえば

院生部屋での駄弁りで 宗教哲学を真正面からたたかわせた

そのような記憶が 僕にはほとんどない!

東大宗教学の宗教哲学とは……

僕自身 ちゃんとやっていきたい課題なのである

« 地域生活の宇宙の不易流行、 そしてそこに生ずる「力」 | トップページ | 堂々たる想像力の燃え、 あるいは 《メタファー・ファンタジー・性欲》 »

01A 宗教学」カテゴリの記事

03A 思索」カテゴリの記事

コメント

宗教哲学、ですか。
実は去年あたりから壁にぶち当たってます。
「中観」や「唯識」についてほんをよんでいると、自分は何を勉強してるんだろう?という気分になるんです。
仏教を信じたいので仏教を知ろうと思うのに、これってなあに?信仰と哲学と*@&*・・・

みーたんさん>

佐藤啓介さんという 若き宗教哲学者がいらっしゃいますが
氏のサイトで 「私の現代宗教哲学」という頁があります
http://www.h7.dion.ne.jp/~pensiero/study/religionsphilosophie.html

そこでは
宗教的哲学(religious philosophy)と宗教哲学(philosophy of religion)
の違いについて触れられています

みーたんさんがおっしゃるのは、前者の「宗教的哲学」
ということになるかと思います
伝統的な教義から直接、 その枠組みをとても重視しながら
思索をつくりあげる、ということですね

一方、 僕が関心をもっているのは、後者の「宗教哲学」です
教団が保ってきた思想的伝統を尊重はしますが
その外側(教団型宗教性の外側)で発展してきた「哲学や思想」に
非常に多くの注意をはらい、 どちらかと言えば その枠組みを重視する
という立場です

ちなみに、 本記事でご紹介した 京大でのシンポでは
そのいずれかの筋に属する発表が どちらも含まれていました

ご丁寧な解説有難うございます。
そうなんですか、「宗教的哲学」と言うのですか。
佐藤啓介さんのサイトを拝見して見ます。

みーたんさん>

再コメント ありがとうございます

「宗教的哲学」というのが、どこまで一般的な表現なのか
実は そっちの専門でもない僕には わかりません
とりあえず、佐藤さんの用語法 ということで ご了解くださいませ

宗教哲学は分析力を前提にした思想で、悟りには直結はしない点は

ありますが、客観的にあまねく知的認識を哲学の形而上として構築

されたものではありますが、玉石混交が多く、まがい物の石を選び出

すか、はたまた、玉の部分を選び出すことが必要であります。

玉石混交のままの宗教哲学で良いとなさる方々は真理の探求者とは

いえないのであります。

白蓮さん>

コメント ありがとうございます

「真理の探究者」という像には とても強いあこがれがあります、個人的に

ただし、その像を掲げ仰ぎ見て歩むことは、私のようなものには
実際のところ、とてもしんどいなぁ、と思うことしばしばです

知(さまざまな位相の《知》)の界隈での玉石混交は
ほとんど宿命的といえるほど、常態化してきました(今もしてます)ね
宗教哲学にかぎらず、ということです

私自身、「玉」を見抜くことのできるものになりたいと思っています
もうあまりに明々白々に 私ごときでは不足ばかりなのですけど…

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/137899/47763195

この記事へのトラックバック一覧です: 宗教哲学と「ザ・思想」:

« 地域生活の宇宙の不易流行、 そしてそこに生ずる「力」 | トップページ | 堂々たる想像力の燃え、 あるいは 《メタファー・ファンタジー・性欲》 »

サイト内検索
ココログ最強検索 by 暴想

Twitter


読書メーター

  • mittskoの今読んでる本
  • mittskoの最近読んだ本

鑑賞メーター

  • 最近観たビデオ
    mittskoの最近観たビデオ
2016年7月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

イーココロ

無料ブログはココログ