« 麻原か 見田宗介か その分岐である | トップページ | まさかの 「死因ったー」 でゾクリ »

2010年3月 3日 (水)

神話の頽落と神話への憧憬

カテゴリ <連載 宗教学のための映画>

====================

以前のエントリ

  • 「クジラの島の少女」 (ニキ・カーロ,2002年)

が 宗教学にとって とても大切な映画だ、 と書いた

そして そのようにシンポジウムで発表もした

映画を教材にして比較宗教の理論的課題を明らかにする ご参照くださいませ

としたところ…

宮台真司先生 も ほぼ同じ評価を、 しかし

宗教論としてはまったく別の角度から、 そして

「神話の歴史を熟知している」 との自認のうえで

神話論としては僕なんぞよりはよっぽど行き届いた評価を

この映画に与えているのを見つけた

ご紹介させていただきます

====================

以下引用

 『クジラの島の少女』 は、 英雄譚の条件を全て満たす。 母と死に別れ父に捨てられた 「印付き」 少女が、 一族滅亡の兆である打ち上げられたクジラを海に戻す 「障害克服」 を達成、 族長に即位するという 「幸福劇」 を通じて、 共同体に 「縦の力」 を与える――。

 先に触れたが、 お話のパタン自体は、 今日の童話やアニメやゲームに頻出する。 だが、 神の振舞いで偶発性を必然性へと転換される共同体なくしては、 神話は神話であり得ず、 英雄の振舞いで 「縦の力」 を与えられる共同体なくしては、 英雄譚は英雄譚であり得ない。

 [中略]

 では、 私たちは自分たちの英雄譚を描けるだろうか。 現在の日本 (米国、 英国) を舞台に、 こうした図式を持つ英雄譚を実写できるか。 むろん否。 それを皆が知るからこそ、 もはやあり得ない 「表出の連鎖」 を憧憬し、 喪失のリグレットに胸を抉られ、 嗚咽するのだ。

 なぜ否か。 現代の祭りが眩暈感を欠くのは深みがないからだと先に述べた。 深みがないのは、 過去のリソースに支えられているとの感覚も、 自然の循環的時間に規定されているとの感覚もなく、 共属意識が深みを欠くからだ。 英雄譚を不可能にするのも、 同じ理由だ。

348頁

 確かに、 私たちは、 神話や英雄譚から疎外されてある。 『クジラの島の少女』 や 『英雄 HERO』 [チャン・イーモウ, 2002年] に揺さぶられるのも、 疎外が関係する。 しかし、 どこぞの愚か者が叫ぶのとは違い、 単に神話や英湯端を回復すれば済む話ではない。 歴史を学ぶとはそれに気づくことだ。

350頁

引用おわり

====================

  • 宮台真司 『絶望 断念 福音 映画: 「社会」 から 「世界」 への架け橋 (オン・ザ・ブリッジ)』 (メディアファクトリー, 2004年8月) [書名の 「オン・ザ・ブリッジ」 は 「架け橋」 に付されたルビ]

« 麻原か 見田宗介か その分岐である | トップページ | まさかの 「死因ったー」 でゾクリ »

04C 連載 宗教学のための映画」カテゴリの記事

映画・テレビ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/137899/47637205

この記事へのトラックバック一覧です: 神話の頽落と神話への憧憬:

« 麻原か 見田宗介か その分岐である | トップページ | まさかの 「死因ったー」 でゾクリ »

サイト内検索
ココログ最強検索 by 暴想

Twitter


読書メーター

  • mittskoの今読んでる本
  • mittskoの最近読んだ本

鑑賞メーター

  • 最近観たビデオ
    mittskoの最近観たビデオ
2016年7月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

イーココロ

無料ブログはココログ