「宗教の復権」 ならぬ 「宗教の根源的変容」
前便 「《内的世俗化》 が徹底した今という時代」 より つづく
前便 に いろいろと注意書きをしました
そちらをご覧のうえ、 以下 お読みくださいませ
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- マルセル・ゴーシェ 『民主主義と宗教』 (伊達聖伸+藤田尚志訳, トランスビュー, 2010年2月)
《世俗化》 が行くところまで行く、 すなわち
《内的世俗化=宗教の個人主義化》 がデフォルト化して
「宗教」 自体が それに意義をとなえられなくなる――
ゴーシェの (フランス) 社会に対するこのような診断が正しいとして
では、 「宗教」 (主たる内実は 《フランス・カソリシズム》 ) には
どのような 「仕事」 が残されているのか、 いないのか
と、 そういう話題で本便へ という流れになっています
ゴーシェ曰く
だが、 宗教にはやはり、 宗教にしかなしえない仕事が残されている。 宗教は神に準拠しているため、 神なしですます思想よりも、 すぐれたよき生をもっていると主張することができる。 神に依拠してよりより生を説くことには、 それなりの輝かしい未来がある。 厳密に言えば、 俗なる倫理と聖なる教説のかつての対立は、 今や収束している。 だが、 競争はある。 したがって、 宗教が倫理の方へと向かう動きがいくら重要なものだからといって、 神学的なものは倫理的なものへと解消される傾向があると、 いささか性急な結論をそこから導いてしまっては勇み足だろう。
160頁
現在の宗教論が直面する根本的な困難とは
「宗教」 の言説論的布置があやふやになっていること
そこに起因する
ゴーシェの上のような整理は、 そうした曖昧さに
一定の見通しを与えるという点で、 とても重要だ
しかし、 簡単に誤読されてしまいそうである
これは 「宗教の復権」 を言祝ぐ理論では まったくない
「宗教」 の根本的変容について、 フランスの事例をもとに
ある一般的な見通しを与えようとする――
とても冷静で、 ある意味 冷徹な観察者のコトバである
かつて偉大な思想家たちは、 人びとを迷妄から覚めさせようとして、 宗教は人間の精神が生み出した産物にすぎず、 現世的な目的のために存在しているだけなのに、 その真の姿を隠蔽していると言って非難したものだが、 今日宗教的意識は、 まさにそうした真の姿になろうとしている。 ただ、 疎外からの救済を説いた哲学者たちは、 このような距離が内側から取れれば、 宗教的意識は消滅すると考えていたが、 今日ではそれどころか、 その距離によって新たな正当性が可能になっている。 信仰の原動力は人間に発し、 人間に帰する―― だが、 こう言うだけ、 信じるための理由がひとつ加わるのであり、 それがひょっとすると最良の理由かもしれない。
160-61頁
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