学者の業(ごう)
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昔から不穏に思ってたことだ
学問への真摯さは
真剣さ、真面目さとは 全然違う
厳密で隙のない論証への執心は
美学的「センス」に由来する
それは万人が有する資質ではない
そして、大衆が求める美徳でもない
学的構成物のあの美は
それに憑かれた者にとっては
呪い以外のなにものでもない
亡きS君と僕はそれを「業」(ごう)と呼ぶことを好んだ
S君は その業に取り憑かれたまま 死んだ
そして、その業を背負ってはいない人が
非致死性の悩み事を抱えて寿命を全うする
かつて僕はそのことに 真正面から怒っていた
不快でたまらなかった
今は、無情を感じる
僕は僕の、あの人はあの人の
それぞれの業を背負って 生きていくだけなんだナァ、と思う
その上にきっと 分かり合いの場ができるだろう
不当で不適当な事柄が ここには無数にあるけれど
それらは決して許しされてはならないけれど
ギリギリのところで触れ合い分かり合おうとするのは
そんなカナシミの自覚がある機だけだ
不器用でクソったれな真人間たちを 僕は真っすぐに愛す!
みんな がんばれ!
オレも がんばる!
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