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2010年3月 6日 (土)

近代論はどこまできっちりやらなければいけないか

前便 「《近代》 をこそ まずは徹底的に考察することの必要」 より つづく

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前便 にて

  • 芹沢一也・荻上チキ (編) + 飯田泰之・鈴木謙介・橋本努・本田由紀・吉田徹 (著) 『日本を変える 「知」: 「21世紀の教養」 を身に付ける』 (光文社, 2009年5月)

所収の

  • 鈴木謙介 「日本ならではの 「再帰的不安」 を乗り越えて」 (225-80頁)

の近代論にイチャモンをつけたわけですが

その追補です

(1) 鈴木さんから さらにもう一節を引用し

(2) 別の議論をそれに対比させてみたいと思います

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(1)

前便 までの 近代 (性) 定義のあと、 鈴木さんは

次のような 近代性定義とも読めることを口にします

 近代というのは時代概念じゃなくてモデル概念なんだと先ほど言いましたけど、 こうした 「古い要素が新しい要素に置き換えられ、 後戻りはできない」 という発想で世界を見るとき、 そこには 「近代化を成し遂げた国は、 時代の発展の先頭に立っている」 という考え、 そしてそうした 「発展の度合い」 に基づいて、 複数の社会が比較可能であるという立場が、 存在しています。 つまり、 日本は西洋に比して 「遅れている」 とか、 中央アフリカの国々よりも南アメリカの国々の方が 「進んでいる」 という、 一つのモノサシが成り立つ。 これが 「近代」 の考え方なんですね。

236-37頁

この説明に異議はない。 その通りだろう

しかし、 あっさりし過ぎなのだ

なんだか ユルイ のだ

そのことはたとえば、 次のような課題設定と対比すれば

一目瞭然になる

そこでしっかりと設定される課題は

世界でもまだ誰も仕上げていない!

なので、 ユルユルっとは説明できないはずのものだ

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(2)

  • マルセル・ゴーシェ 『民主主義と宗教』 (伊達聖伸+藤田尚志訳, トランスビュー, 2010年2月)

所収の

  • 藤田尚志 「訳者解説Ⅱ フランス現代思想におけるゴーシェの位置」 (209-27頁)

より 引用なのですが

もうすっかり長くなったので 次便にて

もったいぶって すいません

できるだけ短いエントリを、 と心がけておりますので

あしからず

<つづく>

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