「政治的なもの」 の生成変化を跡づける
前便 「近代論はどこまできっちりやらなければいけないか」 より つづく
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(2)
- マルセル・ゴーシェ 『民主主義と宗教』 (伊達聖伸+藤田尚志訳, トランスビュー, 2010年2月)
所収の
- 藤田尚志 「訳者解説Ⅱ フランス現代思想におけるゴーシェの位置」 (209-27頁)
より 引用
ただし、 「歴史を介し」、 「時代の観察者」 に徹する以上、 問題となるのは、 近代以降の人間における広義の 「政治的なもの」、 すなわち 「社会的なもの」 と 「心理的なもの」 との同時的な生成変化を跡づけることである。 […]
すなわち、 ルネサンス、 イタリアのユマニスム以来の個人の権利に関する理論的展開、 ルターやカルヴァンらの宗教改革、 そしてガリレイやデカルトによる 「普遍数学」、 ないし機械論的科学の発明を通じて、 ヨーロッパで生じた大変動を本当に理解しようと思えば、 歴史学・政治哲学・宗教学・人類学・社会学・心理学・教育学を総動員しつつ、 人間を同時に社会的側面と心理的側面の両方から、 民主主義の問題であると同時に主体性の問題でもあるよなものとして、 包括的な解明を行わなければならないということである。
216-17頁
僕ならここにはさらに 資本主義の歴史を加える
《資本主義の近代世界システム》
要するに 《世界システム》 の歴史のことだ
つまり ここで僕が言いたいことは
近代論のちゃんとした把握という課題は
世界でもまだ誰も仕上げていない! ということだ
なので、 ユルユルっとは説明できないはずのものだ
さらりと表現しようとしても
今の研究の段階にかんがみ できないものなのだ
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