官僚制的同胞主義の体制
《宗教/世俗的近代性》 の日本的組成について
いくつも特徴があるわけだが、 そのひとつに
ハードな 《世俗》 概念が 確立していない――
ということがあげられる
《世俗の宗教学》 を追究すべき現代宗教学者にとって
この特徴は 大きな障害である
しかし、 手掛かりがないわけではない
たとえば、 社会哲学者 橋本努 は 次のように述べる
- 芹沢一也・荻上チキ (編) + 飯田泰之・鈴木謙介・橋本努・本田由紀・吉田徹 (著) 『日本を変える 「知」: 「21世紀の教養」 を身に付ける』 (光文社, 2009年5月)
所収の
- 橋本努 「誰もネオリベラリズムを全面否定できない」 (281-342頁)
より
以下引用
僕が現在考えているのは、 ウェーバーの 「中間考察」 を拡張するかたちで現代 [日本] の体制を把握することです。 一言でいえば、 現体制を 「官僚制的同胞主義」 として把握するものです。
ここで僕が 「官僚制的同胞主義」 と言っているのは、 人々が一定の同胞倫理 (仲間意識) を共有しながら、 市場取引関係については、 これを政治工学的に再設計するという企てです。
この体制は、 一方における宗教上の 「カリスマ支配から祭祀的教権者支配への移行」 と、 他方における財配分上の 「市場経済の設計主義化」 という、 二つの源泉から生まれてきました。 その典型は、 19~20世紀における 「キリスト教社会主義」 の企てでしょう。
けれども、 キリスト教の祭祀的教権者層が支配しない社会においても、 近代の国民国家は、 これに代替する機能を果たしてきました。 近代の国民国家は、 教会における祭祀的教権者層の機能を、 エリート官僚へと代替したもの、 と言えます。
官僚たちは、 旧来の 「魂の救済」 という課題を、 「ナショナリズムの愛国心」 として読み替えて、 国のために仕える人々は、 その人生が報われる、 とみなすわけです。 そのような救済の倫理を担保したうえで、 近代の国民国家は、 経済関係を即事象的 (ザッハリッヒ) かつ合理的に組織化していきました。
引用おわり: 330-31頁
現代日本において 《世俗》 とは何か――
それは 官僚制的同胞主義の体制、 およびその力場である
<つづく>
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