ファンタジー,メタファー,リアリティ
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窓は開けられ、6月の風が白いレースのカーテンの裾を静かに揺らせている。 かすかに潮の匂いがする。 海岸の砂の感触を手の中に思い出す。 僕は机の前を離れ、 大島さんのところに行って、 その体を強く抱く。 大島さんのすらりとした身体は、 なにかひどく懐かしいものを思いださせる。 大島さんは僕の髪を静かに撫でる。
「世界はメタファーだ、 田村カフカくん」 と大島さんは僕の耳もとで言う。 「でもね、 僕にとっても君にとっても、 この図書館だけはなんのメタファーでもない。 この図書館はどこまで行っても――この図書館だ。 僕と君のあいだで、 それだけははっきりしておきたい」
「もちろん」 と僕は言う。
「とてもソリッドで、 個別的で、 とくべつな図書館だ。 ほかのどんなものにも代用はできない」
僕はうなずく。
「さよなら、 田村カフカくん」 と大島さんは言う。
「さよなら、 大島さん」 と僕は言う。 「そのネクタイはとても素敵だよ」
彼は僕から離れ、 僕の顔をまっすぐ見て微笑む。 「いつそれを言ってくれるか、 ずっと待っていたんだ」
村上春樹 『海辺のカフカ (下巻)』 (新潮社, 初版, 2002年) 424‐5頁: ルビは省略
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上の引用はハードカバー版より。 下は文庫版へのリンクです
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コメント
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『1Q84』に関する批評は必ずしもいいものではないことの最大の理由は、村上春樹が今まで築いてきた深層へのコミットメントの薄まり、つまりねじまき鳥で言う井戸へのこだわりを無くしてしまったと読者が感じていることだと思います。
東「虚構と現実の関係をいかに再構築するか。それはほんとうに難しい。もともとその断片はオタクの特徴だったわけですよ。いまやその意味ではみなオタク化している。」
宇野「だから、一億総オタク化ってまさにこの意味です。」
東「そう。タコツボ化だけじゃないんですね。現実と虚構を無関係に受容し消費するようになってしまった。」
思想地図vol.4pp281~282
この部分は、婚活とボーイズ・ラブを引いてきて、虚構と現実が相互作用を起こさない二分化した世界と関係性の文学について書かれた部分です。ここでの斉藤環的な関係性の文学についての解釈が私と東とはまったく違っているので内容は違ってしまうんですが、現代日本の思想がこのような現実を抱えていることは事実として認識できることだと思います。
私がそこに感じるのは、あまりにも多くの人が自己の精神の奥深くにコミットメントすることへの願望を持ちすぎてしまって、物の本質から遠のいてしまっていることへの不安です。本質というよりも身体性というべきかな。
深くコミットメントすることは、個人を重視する。つまり、孤独を推し進めることであり、現実世界から自分を遠ざける。このことの危険性について、村上はこの作品で訴えたかったのだろうと思うのです。
そして、その危険を回避するには僕と対等な君の存在が必要なわけです。
僕と君になれば、お互いがお互いのことを思う分、深みには入れない。しかし、こんなに簡単に異世界に入り込める世の中になってしまった以上、そのような人間間の関係性だけが、人が安全に生きていくための手段なのではないかということです。
村上 そうですね。善とか悪とかいうのは絶対的な観念ではなくて、あくまで相対的な観念であって、場合によってはがらりと入れかわることもある。だから、何が善で何が悪かというよりは、いま我々に何かを「強制している」もの、それが善的なものか悪的なものかを、個々の人間が個々の場合で見定めていかざるを得ない。それは作業としてすごく孤独で、きついことですよね。自分が何を強制されているのか、それをまず知らなくてはならないし。
もう一つの問題は、システムは、それがどのようなシステムであれ、個々の人間が個々に決断を下すことを、ほとんどの場合認めないということです。
考える人No.33 p34
村上 そうです。そういうことは、みんなが考えているよりずっと簡単に起こりうるんです。青豆は、自分の周りで世界を閉鎖させるまいとする意思がきわめて強い女性です。子どものころ、彼女は親によって「証人会」という宗教団体の世界に閉じ込められ、信仰を強制されていた。でも十歳のときに天吾と手を握り合ったことがきっかけとなって、そこから抜け出そうと心を決めます。そのときサーキットが開けるんです。彼女は「開けて出て行く」という感覚を鮮やかに持ちつづけている人です。彼女が生きていくにあたって、それが何より重要な資格になります。自分の頭で考え、自分で判断を下すことが。
同p35
私たちがどのような世界に生き、そこで生きるために必要な資質と、その得方についてきちんといわれている部分だと思います。
これが『1Q84』の根幹にあるものだと。
と、今日はすっかり晩くなりましたので、ここまで。
投稿: u.yokosawa | 2010年7月23日 (金) 01時59分
B 宮崎さんは映画製作の佳境に入ると「脳の蓋を開けた」状態になると、よく表現されていますが、それは感覚として、そうなるということなのでしょうか。
M 違います。経験のない人にはちょっとわからないと思うんですけどね。人間の内面の奥の方には、何か混沌としたエネルギーやら個人の記憶を超えた記憶のようなものがあるんだと思うんです。それに従うわけです。社会生活を営んでいく上での道徳とかルールに従うのとは別に。だから、日常の生活をやっていくには極めて困難な事態が発生するんです。蓋が開いてしまうと、やっていいことといけないことの境目がなくなってくるんです。作品というのは全部理詰めで作るとつまらないんです。理屈ではこうだけど、どうしてもこれではおかしい、これじゃつまらない、じゃあどうするか。理詰めじゃないものが出てくるには、本当に困らないとだめなんです。とにかく追い詰められるしかないんです。ものすごく。どれだけ自分を追い詰められるか。アイディアとかじゃないんです。・・・・そして、一度開けた蓋は自分で閉めなきゃいけない。でもこれがなかなか閉まらないんです。日常に戻っていくのが大変なんですね。最低でも半年、3年はかかる。」
ブルータス2010年8月1日号 p86
宮崎駿のこの言葉で、実際のコミットメントの大変さがよくわかります。彼の作品の《現実よりもリアルな虚構》はこのようにして出現する。
一方で同じような虚構を積み上げて物語を作っている村上春樹は、ここまで蓋を開け放っていない。彼は積み上げ型の作品の作り方をしていますよね。そこは本当に作家としてあちら側に持っていかれない賢い作り方だと感心するところです。もし宮崎と同じように作品を作り続けていたら・・・と思うと怖くなります。
以前先生とは文学の怖さについてお話したことがありますよね。作家は作品の中に出てくる世界に住み続けるわけには行かない。現実と虚構の狭間で綱渡りを続けるうちに、狂ってしまうこともある。
そして、その狂気は宗教と同じところから発生している。
今日@tonton先生とtwitterでお話させていただくうちに、いろいろと考えさせられました。まだまだ勉強不足で申し訳ないのですが。
蓋を開けてあちら側から持ってくることの出来る稀有なアーティストのなかの二人。その作品のなかの《あちら側のもの》について、もう少し掘り下げたいですね。
本読めましたか?(ほんと、いつもぎりぎりす・・・)
ちゃんとレス書いてくださいね!
投稿: u.yokosawa | 2010年7月24日 (土) 02時29分