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2010年6月22日 (火)

最も単純な歓びの源泉

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 生きることが一切の価値の基礎として疑われることがないのは、 つまり 「必要」 ということが、 原的な第一義として設定されて疑われることがないのは、 一般に生きるということが、 どんな生でも、 最も単純な歓びの源泉であるからである。 語られず、 意識されるということさえなくても、 ただ友だちといっしょに笑うこと、 好きな異性といっしょにいること、 子供たちの顔をみること、 朝の大気の中を歩くこと、 陽光や風に身体をさらすこと、 こういう単純なエクスタシーの微粒子たちの中に、 どんな生活水準の生も、 生でないものの内には見出すことのできない歓びを感受しているからである。 このような直接的な歓喜がないなら、 生きることが死ぬことよりもよいという根拠はなくなる。

見田宗介 『現代社会の理論 ―情報化・消費化社会の現在と未来―』 (岩波新書, 1996年) 141頁

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この文章を読んだ まさにその日

彼の自死の知らせをうけた

彼の毎日の生活と これまでの人生のなかには

こんな 「単純なエクスタシーの微粒子たち」 が

「生でないものの内には見出すことのできない歓び」 が

「最も単純な歓びの源泉」 が欠けていたのか

―― そんなことを思った

冥福を祈ります

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03A 思索」カテゴリの記事

04E 連載 見田宗介/真木悠介論」カテゴリの記事

コメント

 われわれは「世界」のなかに生きている。けれども「世界」は一つではなく、無数の「世界」が存在している。「世界」はいわば、〈世界〉そのものの中にうかぶ島のようなものだ。けれどもこの島の中には、〈世界〉の中のあらゆる項目をとりこむことができる。夜露が満天の星を宿すように、「世界」は〈世界〉のすべてを映す。球面のどこまでいっても涯がなく、しかもとじられているように、「世界」も涯がない。それは「世界」が唯一の〈世界〉だからではなく、「世界」が日常生活の中で、自己完結しているからである。
 ドン・ファンの思想(=生き方)はまず、この「世界」からの超越(彼岸化)と、この超越に媒介された、「世界」への再・内存化(此岸化)という、上昇し下降する運動を内にもっている。同時にこれはべつの次元で、〈世界〉からの超越(主体化)と、この超越に媒介された〈世界〉への再・内存化(融即化)という、やはり上昇し下降する運動を内包している。

 真木悠介『気流のなる音』pp43-44

 完結された「世界」から上昇し下降することは、ある人たちにとっては至極必要なのに、簡単にはできなくなって窒息する。そうすると限りなく彼岸か此岸に引き寄せられる。そういうことなのかもしれないなぁと思います。

yokosawa さん>

コメント ありがとうございます

『気流のなる音』は 文学ですね
(そして 文学なら もっともっと もっともっと面白い作品がたくさんあると思うのですが)

『時間の比較社会学』以降の 真木先生の仕事が
とても貴重だと思います

文学=宗教的感性を 《学問》 と 《哲学》 のディシプリンで
なんとか表現しようとしているからです

僕自身、そういう仕事がしたいなぁ、と あこがれます

 見田先生は社会学者であり文学者ではないので、文学と宗教という側面で見田先生の文章を読み取る場合も、社会学的に展開されているという観点に立つことが優先されるべきだと感じます。

 そして、近藤先生も社会学寄りなので見田先生と相性がよいのでしょうね(笑)

 社会学という観点からたった宗教と文学については、おそらくいろいろな方が研究されているのだと思いますが、最近読んだ『想像の共同体』の宗教共同体と文字の関係の記述はおもしろかったです。

 つまり、ラテン語という特殊な言葉によって崇高さを維持し、特別な人たちによって堅く守られていたキリスト教が、出版と利益追求による一般言語の普及によって地に下りてきたということなんですが、それによって想像の共同体もより人々の生活に近しいものになり、《聖なる共同体》から国民意識への高まりへのステップを踏ませたということです。

 しかしながら、私たちの意識から《聖なる共同体》へのあこがれはおそらくは消え去ることはないのでしょう。私たちの意識の中の聖属性の部分を刺激する文章が《ファンタジー》=《神話》であり、そこに《聖なる想像の共同体》を見出しているという説明も可能かと思いました。失った聖属性の奪還です。

 村上春樹は3作品読んで傾向が掴めてきました。しかし、そこにはこれとは別の《私たちの居場所》と《いるべき場所》の問題が内示されており、それは必ずしも聖属性ではない宗教性ですよね。そこには、生活の中にあいまいに配置された宗教を感じます。

 文学と宗教性って、ほんとつくづく説明は難しいと思います。

 

yokosawa さん>

御返事がおそくなりました。すいません(毎度のことで、恐縮至極)

おっしゃられる《聖なるもの》の観念が 僕にとっては
そしておそらく 現代宗教学者の多くにとっても
大問題です

それが何なのか―― 僕らはきっと さっぱりわからない
そういうところに いま辿り着いているのだと思います

《聖属性の宗教性》 と
そうでない宗教性(生活の中にあいまいに配置された宗教)
この二つを どう理論家していくのかというのが
とても難しいところですね

 人は証明したいとなったら、なんでも証明してしまう。が、本当に難しいのは、何が証明したいのかを知ることだ。情念と先入見の横行する昨今、それは明々白々な事実といってよく、わたしの見るところ、すべての証明が価値なきものとされているから、あえて非難の声を挙げるまでもない。一方、あらゆる学説を分析して提示するというもう一つの方法は、どんな主題にも使えるものだが、もうずっと前からわたしが言っているように、美学を扱うとなったらそれ以外に方法はない。美学においては、選択がきっぱりとなされてゆらぐことがなく、人が証明したいと思う事柄は―すなわち、作品が美しいということは―、作品そのものによって文句なく証拠立てられるからだ。美を定義しようとするなら、見たとたんに確実に美しいと判断でき、その判断が撤回されないのが美だ、と定義しなくてはならない。いいかえれば、まず美しいという選択があり、それがなされたあとに、なぜそれを選択したのかあれこれ考えることになるが、それで選択に動揺や変化がもたらされることはない。思考へとむかうすべての人はつねに美を求めているが、どんなに強く望んでも、真理がそのまま美になることはない。美は褒美として受けとるものであり、あくまで精神にかかわる事柄なのだ。

 アラン『芸術の体系』(光文社古典新薬文庫)pp14~15

 そういうことなんだろうなぁと思いました。

 ところで、私は自己について考えるときに性的な衝動で考えるのは常々いやだと思っているというお話を以前したかと思います。それで生物学やAIのことを勉強したりしていたところ、ツイ友の@satoru79さんが免疫学をご紹介してくださいました。それは非常に興味深く、他者を認識するためにすべての分析が出来る細胞が自己と違うものを選び出し処理するというもので、自己を表出する他者の説明が非常に納得できるものでした。

 一方で、そのお話から私は自分の中の永遠の輪を回すための他者について考えることができました。それはATCサイクルから引いてきたものです。私たちの中には永遠に回り続ける普遍の輪があるのですが、それは他者がいなければ回らないというものです。

 この二つの自己と二つの他者について考えるとき、他者としての宗教を当てはめると、聖属性の宗教≒自己を表出する他者 生活の中にあいまいに配置されて宗教≒輪を回し続ける他者 なんじゃないかと思ったわけです。

 まだ考え中なんですが、ちょっとおもしろいでしょ!

 P.S/今週号の本田が表紙のアエラは面白かったですね。宗教と票の現在形の関係

yokosawa さん>

コメント ありがとうございます

アランの引用はよく分ったのですが…
生物学の話からもってこられる宗教論が 正直 さっぱりでした

僕が、そのあたりの知識がないからなのかもしれません

たとえば、
※ TCA回路が (永遠ではありえませんが)自動的にまわるために
「他者」が不可欠であるとは…? そうでしたっけ…?(うろ覚え)
※ 「他者を認識するためにすべての分析が出来る細胞」という表現の
「すべての分析が出来る」の意味が よくわかりません
そんな万能細胞が ありましたっけ…?(これも うろ覚え)

ということで、宗教論に連結していく手前のところで
僕の大脳が ストップしている状態なのです

 解りにくい説明で大変失礼しました

 TCAサイクルは高校の生物学でも触るのですが、上のの教科書見たらこんなんだったけってほどわかりにくい説明でした。

 私は大学で栄養学を勉強して(先生も御存じのとおり専門じゃございませんが、学部の性格上けっこうしつこくやらされました)、ちょっとだけ全体が見えてきてるのでこんなこといちゃうのだと思います。

 ATCサイクルは糖代謝の異化作用、つまりエネルギー(ATP)を作り出すシステムの中心です。だから、常に行われていなくては死んでしまう。そういう意味での(生きている限りの)永遠の輪です。
 私たちは光合成できない代わりに、食事によってエネルギー供給しているのですから、他者(食物)がなくては生きられない。私たちの細胞は生死を繰り返し、その都度作りかえられます。そして少しずつ全体が他者によって作りかえられますが、本質が変わるわけではない。
 つまり、豚肉を食べても豚にならないわけです。 
 (そうはいっても体質は食事によって随分変わりますね。このあたりは今後の科学に証明されることが多くありそうです)

 もっと言うと、私たちは食事をしなくてもしばらく生きますが、それは自分自身を分解してエネルギーを得るからですよね。見た目よりもたくさんの内臓が分解されていきます。生命の持続は性優先ですから、脳も分解される。
 ですから、異常なダイエットは取り返しのつかないことになるというのは本当です。私は先生を心配してるんですよ。一日1食しか食事をしないということは、その栄養が摂取される以外は自分自身の分解をしてるんです。脂肪の分解より筋肉や肝臓自体を分解するほうが効率がいいので、こっちが先になったりします。まして、睡眠しないというのは、常にエネルギー高使用状態ですからね。お気をつけなさいませ。

 話が脱線してしまってすいません。

 免疫学方面の説明はsatoruさんにご紹介いただいた近畿大学医学部免疫学教室のホームページの中の『わかる!独説免疫学』というのにあります。私ではとても説明しきれないので、こちらにあるTリンパ球の役割を見てみてください。

 栄養学のほうの参考文献は南山堂の『基礎栄養学 改定7版』です。

 

yokosawaさん>

コメント ありがとうございます。

少しずつ健康に 気を配るようにしています
(煙草もやりますしね)
いつも 叱っていただき、ありがたく思ってます

=====

TCAサイクルの他者が 摂取された食物が分解されたもの
というのはわかりました
広義の「消化」… の問題ですね

このようなものとしての「消化」が
「生活の中にあいまいに配置されて宗教≒輪を回し続ける他者」
というのは、ちょっとわかるイメージです

=====

Tリンパ球については、もうちょっと勉強してみます

免疫系が「他者」の弁別と、それへの対処である――
このことはよく分ります

一方、それが 「聖属性の宗教」なるもの
(記述のとおり、僕にはまだ その概念がピンときていません)
へとつながっていく……

もうちょっと説明がほしいところです

 この一連の考察は、《自己というもの》をクローズアップさせるために始まりましたが、自己というものが自分自身のどこかに(私は脳以外のところにも存在すると考えているため)存在していると仮定して、その役割とはいったいどんなものだろうというところから、自己の統一的なありよう=存在意義みたいなものをまとめられたらと思って考えています。

 私たちの生体で起きている様々な反応が、私を私として身体的にまとめ上げているのだから、それらが行っていると同じようなことを精神面でも誰かが行われていなければ、私は私として存在していることにならないのではないかということを基本に考えているのです。
 そうして、そのような考え方から、今までやこれから考察される様々な自己について、それが生体の化学と合致する場合、否定されることなく自己の一部として内在できる可能性を考えてます。

 分裂されない分裂的な私の存在とそのために必要な多様な他者です

 そこで、Tリンパ球と聖なる宗教の他者なんですが、聖なる宗教は圧倒的な他者、つまり自分と分別されるための他者ではないかと。私たちはそれを愛し体内に取り込んだところで、自分とは違うことを知らしめる、言い換えれば自己反省を促す他者です。

 そんなんで、わかっていただけるでしょうか。

 私も、生体化学なんてほとんどわからないし、先端の研究分野だと思っています。
でも、そこと哲学が繋がっていなくてはならないと、私の中の何かが言うのです。そうすることで、私たちは一本調子に出来上がったのではなく、様々な条件化で必要だから、この体と心を持ち合わせているのだと理解できるのではないかと思うのです。
 そうして、私たちが将来どうすべきかも、見えてくるような気がするのです。

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