《あちら》との境域を指示するのに用いられる 「通俗」 概念、 あるいは映画の獰猛さについて
- 高橋洋 『映画の魔』 (青土社, 2004年10月)
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映画は徹底して通俗なのである。 通俗とは本来、 既存の通念の枠内に収まることを指すのだろうが、 私はあらゆることを “出来事” 化し、 つまり見世物化する映画の獰猛さを通俗と呼びたい。 見世物という通念の側から観客を撃ち、 あのカタマリを、 天国から地獄までをまるごと触知させる、 その可能性をこめた通俗に私は賭けたいと思っている。 映画はそれ自体として決して仰ぎ見るものではない。 “出来事” という通俗の地べたをはいずり回るものだ。 映画をめぐる一部の言説は、 時として映画を仰ぎ見るものとして抑圧的に働いてしまった。 私がいちいちスピルバーグに難癖をつけるのは、 彼が映画を仰ぎ見てしまっているからなのである。 だがそこでスクリーンに投影されるのは、 映画を愛する自分への自己愛だったのではないか。 そのことがネガティブな意味において彼の映画の通俗性を保証してしまい、 彼以降の映画を (これまた一見実に派手なエンターテインメントでありながら) 細々としたものにしてしまったのではないか。 私は映画なぞ仰ぎ見ない。 私は映画のただ中にいる。 そして私は、 もはや映画とは言えぬものの予感に身を焼かれるのだ。
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