« 2010年7月 | トップページ | 2010年9月 »

2010年8月の記事

2010年8月25日 (水)

世俗概念にまつわる言説空間 イントロ①

2010年9月4日 (土) 日本宗教学会の学術大会 にて

研究発表をやらせていただきます

タイトルは

世俗概念にまつわる言説空間 ―現代日本の場合―

去年の発表 のフォローアップになります

イントロだけ、 とりあえず ほぼ完成させましたので

公開させていただきます

good こちらからダウンロードできます

下から3番目にある

「世俗概念にまつわる言説空間 宗教学会10 公開用イントロv.1.pdf」

というファイルがそれです

ご意見ご感想などお寄せいただければ、 とてもうれしいです

なお、 発表当日までにはまだちょっと時間がありますので

マイナーチェンジがあります

まだ入れ込んでないデータとかありますもんで…

2010年8月13日 (金)

仏像が彫刻になるのは昇格なのか降格なのか、あるいは芸術と宗教

ツイッターで 美術家の 大村益三さん

大変興味ぶかい囀りをなさっていた

この前期、 「芸術と宗教」 という授業をやっておりました

この囀りが あと1ヶ月早ければ

迷うことなく重要資料として 学生さんに配布したでしょう

敬して 引用させていただきます

====================

氏のツイッタIDは @omuraji です

■ 共に 「人形 (ひとがた)」 であるものの、 時に 「人形 (にんぎょう)」 の髪の毛が伸びる事はあっても、 「人体彫刻」 の髪の毛が伸びる事はない。 「人形 (にんぎょう)」 には 「念」 が宿りもするが、 「彫刻」 に宿る事は無い。

■ 仮に、 駅前や広場など、 街中に林立している 「人形 (ひとがた)」 としての 「彫刻」 の一つ一つに 「念」 が宿っているとしたら、とてもではないが、 「怖く」てその近くを通る事など出来ないだろう。

■ しかし 「彫刻」 からは、 制作時からして予め 「念」 が追放されている為に、 その前を無防備に通っても「安心」である。 「人体彫刻」 は 「人形 (ひとがた)」 の様に見えて、 全くそうではない。 「人体彫刻」 からは 「人形(にんぎょう)」 の様な 「怖さ」 が丁寧に払拭されている。

■ この時期、 「プリミティブ」 な 「形」 の茄子や胡瓜の動物に 「霊」 は乗せられても、 「彫刻」 の動物に 「霊」 が乗る事はまず無い。 「盆送り」 に 「彫刻」 の馬が使われる事は無いし、 「彫刻」 の馬には 「霊」 は乗りたがらないだろうとも。

■ 「呪いの絵」 という存在が無いではないが、 しかしそれは 「美術」 的には、 どこかで 「美術」 から 「降格」 したものとして扱われる。 「念」 が宿る事で 「昇格」 するケースは 「美術」 的にはまず無い。

■ 「仏像」 が美術館で展示される場合、 「魂抜き」 や「 御霊抜き」で、 「魂」 を抜いて、 「彫刻」 にする儀式が欠かせない。 仏具店に並ぶ 「仏像」 も然り。 「仏像」 が 「彫刻」 になるのが 「昇格」 なのか 「降格」 なのか、 美術館で見る 「阿修羅像」 が、 「美術」 に 「昇格」 したのか 「降格」 したのかは判らない。

■ 某国の国立美術館で見た風景。 展示されている 「仏像」 に深々と一礼をし、 手を合わせて拝み、 それから再び深々と一礼して去る女子高生。 それはその場では全く 「例外」 的ではなかったが、 しかしそれは、 「美術鑑賞」 からすれば、 「昇格」 だろうか 「降格」 だろうか。

■ 「礼拝」 と 「鑑賞」。 それらは、 峻別されるべきものだろうか。

2010年8月12日深夜の囀り

=====================

2010年8月 5日 (木)

《事実》 に向かい合うこと、 あるいは宗教概念における 《さらにその先》

 容赦ない “事実” を突きつけること、 それを無理やり観客に認識させること、 それがラングの描写である。 登場人物への思い入れがサスペンスが持続させるとしたならば、 ラングのサスペンスとは持続ではない、 むき出しの恐怖の突出である。 ラングの画面はただ鉄格子を捉えただけで凶々しくく恐ろしい。 まるである種の恐怖症患者の眼に見える世界のように。 そこでは世界は慣れ親しんだはずの秩序を失い、 事物はにわかに攻撃の様相を帯びる。 何が安全であり、 何が危険であるか、 いたん秩序を失った人間は生まれたばかりの赤ん坊のように無防備であり、 硬直するしかない。 “事実” に向かい合うとは本質的にこういうことだ。

「異常なドラマツルギー: ラング 『死刑執行人もまた死す』」 169頁

====================

  • 高橋洋 『映画の魔』 (青土社, 2004年10月)

このような 《事実性の現前の体験》 は

宗教論にとって きわめて核心的なのであるが

《宗教性》 の観念は おそらくそれで尽きることはない…

ここが 本当に 気が狂いそうになるところだが

宗教学者は ここに踏み込む勇気をもたないといけない、 はず…

2010年8月 4日 (水)

ホラー・劇・非人間、あるいは僕がオバカ映画ばかりを観る理由

僕はなぜ BC級映画ばかりを観るのか…

アホでグロで ナンセンスでオカシイ映画ばかりを観るのか…

しかも 年に 350本以上も!

これは 僕にとって大きな謎だった

自分でもよくわからない情念がそこにあるのはわかっていたが

それがどんなものなのか、 さっぱりわからなかった

だから 「死・破壊・笑い」 なんてエントリを 書いたりした

今、 この本を読んで その謎がとけはじめている

  • 高橋洋 『映画の魔』 (青土社, 2004年10月)

====================

 喜劇は世界を根本からバカにすることによって、 悲劇は運命の冷酷さを触知することによって、 そしてメロドラマは人間の度し難い情念にトコトンつき合うことによって、 ある突出を、 逸脱を体験する。 私の感覚では、 ホラーとはこの窮まった果てに、 新たに創造され、 呼び寄せられたジャンルなのだ。 つまり、 ホラーとはかつて悲劇や喜劇がメロドラマを産み出したように、 現代に向かって吐き出された、 ジャンルが産み出したジャンル、 必要に迫れられたジャンルなのではないか。 その現在進行形の現場に我々は立ち会っているのではないか。

 ホラーの根本に横たわっているのは人間の否定である。

 人間はそこではただの物質とみなされる。

 その意味で、 ホラーとは現代における、 俗悪で野蛮な悲劇であり、 喜劇なのだ。

 おそらくホラーは “劇” を “非人間” の領域から出発させた古代の人々の感覚に近い。

 『悪魔のいけにえ』 にあっては、 人間はもはや悲鳴を上げる機械に過ぎない。 襲いかかるレザーフェイスもまた、 頭のいかれた人間であるにもかかわらず、 人間ならざる領域に逸脱してゆく。 人間臭い行動をとればとるほど、 人間には見えなくなるという天才的な (おそらくはトビー・フーバーの才能を超えた) 事態が進行している。

143頁

====================

2010年8月 2日 (月)

経済学者でもない者が資本制についてどうやって勉強していったらいいか…

先ほど、ツイッターで こんなやり取りをしました

某氏: そうは言っても、変な単純化はよくないのですが、この類の「近代の呪われた部分」は良くも悪くも最近の市場経済に組み込まれてしまってるような・・・。隠されているとか転覆する力の潜在とかいう表現を聞くと、実はなぜか虚しくなってしまう・・・。

コンドウ: そうっ!だから、資本制に関する原理的思考が 不可欠なのです!

某氏: そうなんですよね。でも人類学者は特に市場経済が駄目で・・・。資本制についてどうやってやっていったらいいかも分からないのです。論文になると全く専門用語が分からないですし、分かり易い経済の仕組みの本はどこまでがガチガチのイデオロギーか分からないですし。

んで、これはまさにガッチガチの素人として

右往左往でコツコツ勉強してきた僕は

氏のちょっとは先輩なのですから

本を紹介しなくちゃいけないなぁ、と

ヘンな使命感に駆られまして(笑)

思いつくまま、 次の6冊をあげたのでした

====================

  • ウッド 『資本主義対民主主義』 『資本主義の起源』
  • ウォーラーステイン 『入門・世界システム分析』
  • 見田宗介 『現代社会の理論』 『社会学入門』
  • 中沢新一 『緑の資本論』

サイト内検索
ココログ最強検索 by 暴想

Twitter


読書メーター

  • mittskoの今読んでる本
  • mittskoの最近読んだ本

鑑賞メーター

  • 最近観たビデオ
    mittskoの最近観たビデオ
2016年7月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

イーココロ

無料ブログはココログ