《事実》 に向かい合うこと、 あるいは宗教概念における 《さらにその先》
容赦ない “事実” を突きつけること、 それを無理やり観客に認識させること、 それがラングの描写である。 登場人物への思い入れがサスペンスが持続させるとしたならば、 ラングのサスペンスとは持続ではない、 むき出しの恐怖の突出である。 ラングの画面はただ鉄格子を捉えただけで凶々しくく恐ろしい。 まるである種の恐怖症患者の眼に見える世界のように。 そこでは世界は慣れ親しんだはずの秩序を失い、 事物はにわかに攻撃の様相を帯びる。 何が安全であり、 何が危険であるか、 いたん秩序を失った人間は生まれたばかりの赤ん坊のように無防備であり、 硬直するしかない。 “事実” に向かい合うとは本質的にこういうことだ。
「異常なドラマツルギー: ラング 『死刑執行人もまた死す』」 169頁
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- 高橋洋 『映画の魔』 (青土社, 2004年10月)
このような 《事実性の現前の体験》 は
宗教論にとって きわめて核心的なのであるが
《宗教性》 の観念は おそらくそれで尽きることはない…
ここが 本当に 気が狂いそうになるところだが
宗教学者は ここに踏み込む勇気をもたないといけない、 はず…
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