« 《事実》 に向かい合うこと、 あるいは宗教概念における 《さらにその先》 | トップページ | 世俗概念にまつわる言説空間 イントロ① »

2010年8月13日 (金)

仏像が彫刻になるのは昇格なのか降格なのか、あるいは芸術と宗教

ツイッターで 美術家の 大村益三さん

大変興味ぶかい囀りをなさっていた

この前期、 「芸術と宗教」 という授業をやっておりました

この囀りが あと1ヶ月早ければ

迷うことなく重要資料として 学生さんに配布したでしょう

敬して 引用させていただきます

====================

氏のツイッタIDは @omuraji です

■ 共に 「人形 (ひとがた)」 であるものの、 時に 「人形 (にんぎょう)」 の髪の毛が伸びる事はあっても、 「人体彫刻」 の髪の毛が伸びる事はない。 「人形 (にんぎょう)」 には 「念」 が宿りもするが、 「彫刻」 に宿る事は無い。

■ 仮に、 駅前や広場など、 街中に林立している 「人形 (ひとがた)」 としての 「彫刻」 の一つ一つに 「念」 が宿っているとしたら、とてもではないが、 「怖く」てその近くを通る事など出来ないだろう。

■ しかし 「彫刻」 からは、 制作時からして予め 「念」 が追放されている為に、 その前を無防備に通っても「安心」である。 「人体彫刻」 は 「人形 (ひとがた)」 の様に見えて、 全くそうではない。 「人体彫刻」 からは 「人形(にんぎょう)」 の様な 「怖さ」 が丁寧に払拭されている。

■ この時期、 「プリミティブ」 な 「形」 の茄子や胡瓜の動物に 「霊」 は乗せられても、 「彫刻」 の動物に 「霊」 が乗る事はまず無い。 「盆送り」 に 「彫刻」 の馬が使われる事は無いし、 「彫刻」 の馬には 「霊」 は乗りたがらないだろうとも。

■ 「呪いの絵」 という存在が無いではないが、 しかしそれは 「美術」 的には、 どこかで 「美術」 から 「降格」 したものとして扱われる。 「念」 が宿る事で 「昇格」 するケースは 「美術」 的にはまず無い。

■ 「仏像」 が美術館で展示される場合、 「魂抜き」 や「 御霊抜き」で、 「魂」 を抜いて、 「彫刻」 にする儀式が欠かせない。 仏具店に並ぶ 「仏像」 も然り。 「仏像」 が 「彫刻」 になるのが 「昇格」 なのか 「降格」 なのか、 美術館で見る 「阿修羅像」 が、 「美術」 に 「昇格」 したのか 「降格」 したのかは判らない。

■ 某国の国立美術館で見た風景。 展示されている 「仏像」 に深々と一礼をし、 手を合わせて拝み、 それから再び深々と一礼して去る女子高生。 それはその場では全く 「例外」 的ではなかったが、 しかしそれは、 「美術鑑賞」 からすれば、 「昇格」 だろうか 「降格」 だろうか。

■ 「礼拝」 と 「鑑賞」。 それらは、 峻別されるべきものだろうか。

2010年8月12日深夜の囀り

=====================

« 《事実》 に向かい合うこと、 あるいは宗教概念における 《さらにその先》 | トップページ | 世俗概念にまつわる言説空間 イントロ① »

01C 宗教と世俗のあいだ」カテゴリの記事

00B 授業」カテゴリの記事

04B 連載 宗教学こぼれ話」カテゴリの記事

01D 世俗の宗教学」カテゴリの記事

01F 藝術の宗教学 改め Economimesis R&D」カテゴリの記事

コメント

「昇格」「降格」、面白い見方ですねえ。
仏像は魂を抜いて展示するって、仏教に詳しくない人は知らないと思います。
仏像ブームで、ただ、仏像を見るのが好きという人が増えてるようです。
去年から今年の4月まで各地で開催された「聖地チベット天空のポタラ宮と至宝展」の時も、チベットサポーターの動きをそう言って迷惑がる人たちもおられました。

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック

« 《事実》 に向かい合うこと、 あるいは宗教概念における 《さらにその先》 | トップページ | 世俗概念にまつわる言説空間 イントロ① »

サイト内検索
ココログ最強検索 by 暴想

Twitter


読書メーター

  • mittskoの今読んでる本
  • mittskoの最近読んだ本

鑑賞メーター

  • 最近観たビデオ
    mittskoの最近観たビデオ
2021年10月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

イーココロ

無料ブログはココログ