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2010年11月30日 (火)

斎藤環 『戦闘美少女の精神分析』 より

去年の夏から 早1年数か月

《想像力》 について具体的に考えてみたくて

現代日本のアニメやマンガについて 色々な方から教えを得てきた

そのなかで、 複数の方がたから紹介された本がある

  • 斎藤環 『戦闘美少女の精神分析』 (ちくま文庫, 2005[原2000]年)

である

読みだしてみると、 すごく面白い指摘がいくつもあった

たとえば、「おたく」と「マニア」の違い、 とか

その中でも とくに面白いパートがあったので

長くなるが、 ぜひ引用紹介させていただきたいと思います

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以下引用

 この年 [1987年] にはまた荒木飛呂彦の代表作 『ジョジョの奇妙な冒険』 の連載がはじまっている。 本作品もまた戦闘美少女が登場しない名作として取り上げるが、 これには私的な思い入れもあってのことだ。 以前私は 『ユリイカ』 誌上で荒木にインタヴューしたが、 そのさい、 さまざまに興味深い事実があきらかになった。(6) まず、 荒木がおたく的なものを意図的に排除しようとしている点である。 荒木が連載を持つ 『少年ジャンプ』 は目下、 子供向け、 おたく向け、 一般向けといった複数モードの作品が入り乱れる状況にあるが、 彼はとりわけ 「おたく向け」 の絵柄を平板なものとして退ける。 戦闘美少女をほとんど登場させないのもそのゆえであろう。 荒木が愛好するのは映画・小説・ロックであり、 いずれもおたくの苦手科目ばかりである。

(6) 荒木飛呂彦、斎藤環 「書き続ける勇気」 (対談) 『ユリイカ』 二九巻四号、 青土社、 一九九七年。

 荒木の絵柄は 『JoJo 6045』 といった作品に見られるように、 イラスト作品としても鑑賞に耐える陶酔的なまでに見事なものだ。 あらゆるアイディアを可視化しよういう荒木の欲望は、 私の知る限り、 メジャーな作品としては漫画史上もっとも複雑なパースと視点の変換を駆使したトリッキーな漫画に結実した。 しかしそれのみでは漫画としてのリアリティを維持できない。 戦闘美少女ものが、 次章で述べるように少女のセクシュアリティをリアリティの核に置くとすれば、 荒木漫画の核となるものは何であろうか。

 荒木は多大な影響を受けた作家の一人として、 梶原一騎の名を挙げている。 意外な名にも思えるが、 科白や情念の表現には、 たしかに梶原作品の名残がみてとれる。 そう、 荒木が意識的に作品の核に置くのは、 梶原作品に由来する情念、 パトスの表現である。 一見グロテスクな伝奇ものにもみえる本作は、 こうした荒木の作家意識ゆえに、 実は少年漫画の王道たりえているのだ。 後述するアニメ作品 『新世紀エヴァンゲリオン』 をきっぱり否定する彼の作品は、 アニメ的な自意識の葛藤を回避すべく、 圧倒的な情念描写を前景化させるという古典的技法によって支えられる。

 しかしその荒木自身が、 かつて 『ゴージャス☆アイリン』 (一九八五) という小品を描いていた事実も見落とせない。 ストーリーは不幸な生い立ちの無垢な少女 (記憶喪失!) が、 友情を示してくれた男性を守るべく、 化粧によってセクシーな女戦士に変身し、 キメ科白とともに戦闘を開始、 敵 (しばしば成人女性、 ただし化け物) を 「死のメイクアップ」 によって倒す、 という 「変身少女系」 の定番である。 変身シーンでの彼女の発生は、 この系列における変身の意義を全く見事に言い当てている。 そう、 「少女の変身」 ――それはしばしば、 ヌードのシルエットを通過して起こる―― はあくまでも性的恍惚として表現されなければならないのだ。 アニメ的ではない絵柄がむしろ新鮮な佳作であるが、 荒木自身は本作によって 「自分には女の子が描けない」 と悟ったという。 この断念の意味は、 きわめて重い。 われわれはここで、 アニメ的表現というものが単なる絵柄の問題ではなく、 作家の嗜好のありようにおいて成立している可能性を念頭に置く必要がある。

 おそらく映画や小説の良いユーザーでなくとも、 優れた映画や小説を作ることは可能だ。 例えば映画監督 ・ 北野武や小説家 ・ 中原昌也の創造性は、 彼らが映画や小説の歴史ないし文脈に無知であることによって成立しているようにすら見える。 しかしアニメの伝統や文脈に無知な非おたく作家には、 決して良質なアニメ作品が作れないだろう。 アニメ作家であるためには、 この平板な世界に耐え、 むしろそれを偏愛する才能を必要とするのだ。 そして、 この才能を育む契機となるのが、 アニメに 「萌え」 るという行為である。 すでに宮崎駿について指摘したように、 アニメを愛することはすなわち、 アニメの美少女を愛する (萌える) ことなのだ。 外傷体験としての 「萌え」 が契機となってアニメ作家が生まれ、 彼が創造したヒロインに次の世代のファンが萌える。 こうした外傷としての 「萌え」 の連鎖が今日のアニメ文化の底流にあることを、 私はほぼ確信している。

引用おわり―― 『戦闘美少女の精神分析』 218-221頁 注も原文のまま

なお、 引用文中にある 『JoJo 6045』 なる作品だが

引用者が調べたかぎりでは 同題のものは見つからなかった

『JOJO6251』 という画集はあったのだが…

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文庫版で3頁ほどのこのパートには、 本当に多くのことが言われている

いちいち指摘はしないが、 お分かりの方には すごくよくお分かりだろう

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