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2011年2月の記事

2011年2月22日 (火)

映画解釈における社会反映論、もしくは社会文化史的アプローチ

  • 加藤幹郎 『映画とは何か』 (みすず書房, 2001年) より

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以下引用

 安易な社会反映論は映画解釈において厳に慎むべきもののひとつであるが、 しかるべき映画史上の発見の見通しもないまま、 戦略性を欠いた非歴史的・非社会的な御都合主義的 「作家主義」 が蔓延するわが国の映画批評の現状をかんがみれば、 知的代価をできるだけ低く抑えるような社会文化史的アプローチを、 この分野において再構築する必要があるだろう。 この問題については、 この領域における古典的論考 「ごく普通の女店員が映画に行く」 (ジークフリート・クラカウアー,船戸満之他訳,『大衆の装飾』 法政大学出版局,1996年) と最新の成果のひとつ 「文化の詩学をめざして」 (スティーヴン・グリーンプラット,磯山甚一訳,『悪口を習う』 法政大学出版会,1993年) を参照されたい。

引用おわり: 159頁 脚注: 漢数字はアラビア数字にあらためた

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2011年2月21日 (月)

映画館が観客にもたらす唯一最大の効果

  • 加藤幹郎 『映画とは何か』 (みすず書房, 2001年) より

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以下引用

[…] しかしスクリーンを突き破る観客が登場するこの 『田舎者とシネマトグラフ』 The Countryman and Cinematograph, ロバート・ポール, 1901] をいかにも映画揺籃期にありそうな映画として片づけることは厳に慎まなければならない。 なぜならこのフィルムは、 それ以降につづく、 『キートンの探偵学入門』 Sherlock Junior (バスター・キートン, 1924)、 『カラビニエ』 Les Carabibiers (ジャン=リュック・ゴダール, 1963)、 『カイロの紫のバラ』 The Purple Rose of Cairo (ウッディ・アレン, 1985)、 『ラスト・アクション・ヒーロー』 The Last Action Hero (ジョン・マクティアナン, 1993) といった映画館の観客を自己言及的に素描するフィルムの起源と目しうるフィルムだからであり、そしてこの系列でなによりも問題となっているのは、 スクリーンと現実の境界を認知しようとしない田舎者 (虚構の観客) を笑いとばし、 そのことによって都会の (現実の) 観客 (この 『田舎者とシネマトグラフ』 を観ている観客)が優越感にひたることにあるのではなく、 そもそも幻想と現実の間の障壁を積極的に破壊することにこそ映画館最大の関心があるということを、 わたしたちに再認識させることにあるからである。 スクリーンの向こう側に現実の空間がひかえ、 もしかしたらそこを列車が走っているのではないかという疑念からぬけだせないからというよりも、 むしろスクリーン上に巨大な蒸気機関車が疾走していれば、 ただそれだけでその躍動感に圧倒されてしまうナイーヴな観客は、 やがて席を立ち、 舞台にあがりこんでスクリーンを突き破り、 こちら側から向こう側へと旅発とうとする。 観客席からスクリーンの向こうへの、 素朴だが御しがたいこの移動の衝動こそ、 映画館が観客にもたらす唯一最大の効果にほかならない。

引用おわり: 131頁 脚注省略

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2/27 「藝術の宗教学」研究会 映画部門(関東)第2回ワークショップ

「藝術の宗教学」研究会
映画部門(東京) 第2回ワークショップ

―― 《黒沢清マツリ》 終末・寓話・存在 ――

  • 日時: 2月27日(日)15時~19時
    •  15:00~15:10 はじめに
    •  15:10~16:50 DVD上映 『大いなる幻影 Barren Illusion (1999年)
    •  16:50~17:10 休憩
    •  17:10~18:50 DVD上映 『ニンゲン合格 License to Live (1999年)
    •  18:50~19:00 おわりに
    •  19:00~ 懇親会 (場所をうつして)
  • 場所: 日本女子大学・目白キャンパス
    •  参加ご希望の方 私までご連絡を 教室名をお伝えします
    •  右リンクより「プロフィール」頁へどうぞ メールアドレスがございます

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DVD上映は予定どおりにおこないますが

コメント、意見交換のため 終了時刻はやや遅くなるかもしれません

(途中退席 無問題!)

無償非営利・教育研究目的

皆さん どうぞお集まりくださいませ

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2011年2月19日 (土)

社会の問題 宗教に押し付け

2011年2月18日付 朝日新聞朝刊 国際面の小特集

  • 「不寛容の現場で 米同時多発テロから10年 番外編」

トルコ系ドイツ人コメディアンの ケリム・パムク氏 の談話が載っていた

聞き手は ベルリン支局の松井健記者

僕が、インドやエジプトの事例に言及しながら

以前から強調していたことを 裏書きしてくれていて

大変心づよく思いました

参考: 「宗教、 階級、 差別」

僕らの言動は このレベルから考え直すべきです

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以下引用

 ドイツに住むトルコ人が、 独語を話せないとか、 学校を修了できないといった問題は40年前からある。 それなのに、 「9・11」 後突然、 「ドイツ人と外国人」 という構図が 「キリスト教徒対イスラム教徒」になり、 すべての問題が宗教と関連づけられるようになってしまった。

 人は複雑な現実に向き合わずに問題を単純化し、 誰かのせいにしたがる。 経済危機も、 大雪も、 メルケル (独首相) の寝起きが悪いのも、 みんなイスラムのせい……。

 国際テロ組織アルカイダやテロ行為の問題が、 ドイツに住む外国人の問題とごっちゃにされている。 独語が話せない人がいるのは、 宗教ではなく教育の問題。 コーランのどこにも 「独語を学ぶな」 とは書かれていない。

 経済危機の原因はイスラムではなく、 リーマン・ブラザーズだ。 (イスラム教徒やユダヤ人に対する差別的な発言や著作で話題を呼んだ) ザラツィン独連邦銀行元理事は、 人々が抱く漠然とした不安を利用した。 10年前なら彼の本はこれほど売れなかったはずだ。 「9・11」 以降の宗教対立の構図が社会の雰囲気を変えてしまった。

 今、 人々が感じる漠然とした不安は、 欧米が発明し、 世界に輸出したグローバル化の結果だ。 欧州は人権や表現の自由を尊重するというが、 実際には経済利益が人権に優先されている。 メルケルが中国を訪問した際に 「チベット問題も取り上げた」 と言ったのには笑ってしまった。 その一方でエアバス航空機をたくさん売っているんだから。

 フランスも同じ。 サルコジ (大統領) は少数民族ロマを追放した。 経済が低迷して人々が不安を感じるようになると、 寛容や自由といった価値は制限されてしまう。

 表現の自由は非常に高い価値だ。 だが、 ムハンマドの風刺画でいえば、 自分の意見を伝えるためになぜ違う宗教を侮辱しなければならないのか。 まだ納得のいく答えを聞いたことはない。

引用おわり

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2011年2月17日 (木)

礼拝所としての映画館 ―現代南インドの場合―

九州人類学研究会 第3回オータム・セミナー(2004年)

セッションA 「彼岸工学ことはじめ」 の記録が

に載っているのを

西村明さんから教えていただいた >感謝!

その第一論文――

  • 桑原知子 「<彼岸工学>ことはじめ ―「この世ならぬもの」を演じる・からくる・生きる―」 (『九州人類学会報』第32号,2005年,11-21頁)

前半は 《彼岸工学》 という方法論についての理論的解説

後半は 南インドのチェンナイ(マドラス)のある映画館の様子の紹介

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2004年4月、 その映画館の開場前の様子――

入口前には開場を待つ人々が座って時間をつぶすのに好都合な数段の階段があり、 各回の上映開始時間の1時間前あたりから三々五々人がやってきては座り込み、これから観ようとする映画に主演しているタミル映画の往年のスター M. G. ラマチャンドラン (1917?-1987 以下、MGR) の葬送パレードがいかにすごかったか、 などについて話している。

17頁

そこに、 ある親子連れがやってくる――

そんななか、 母・娘・孫2人の親子三代と思われる4人連れが映画館の門を入ってくるが、 入口ではなく、 板に張られた印刷ポスターを目指して歩いて行ったかと思うと、 家に額縁に入れて飾ってある印刷の神像 (ブロマイド) にたいしてするように、 用意してきたジャスミンの花輪を袋から取り出しポスター上のMGRの姿の周りに飾り始めた。 それぞれ別にやってきたが互いに顔なじみである常連の中高年女性たちをはじめ、 開場待ちの他の客はその様子を遠目にじっと目で追っている。

開場。 エアコンなどあるはずもない、 灼熱地獄の館内――

さきほどポスターに花輪を飾っていた親子三代4人連れは最前列に席を取った。 そしてまたも用意してきた道具を袋から取り出して、 ヒンドゥの紙にたいする礼拝 (プージャー) の際に行なうのと同じように、 火を焚き始めた。 彼女たちは、 上映開始後もこの火を絶やすことなく燃やし続け、 MGRのイメージがスクリーン上に現れるたびに、 神を仰ぎ見、 火を捧げ、 祈りを捧げるプージャーの動作を繰り返し行なう。 特に、 1970年代のカラー映画によくみられる、 極彩色できらびやかな衣装を身にまとったヒーロー (この場合、 MGR) とヒロインが、 やはり極彩色で 「この世ならぬ」 世界を作り出したセットのなかで歌い踊るシーンでは、 MGRのボカシのきいたアップが現れるたびに、 彼女たちのプージャーの動作は激しくなり、 (やはりこれも用意してきたものである) 花吹雪がまき散らされた。

周りの客の反応――

 他の客たちは、 この一見映画館という場にはふさわしくないと私たちからは思える行為にたいし、 積極的に参加もしなければ制止もしない。 彼女たちが映画館前でポスターに花を飾っていたときと同様に、 その存在を黙認しているだけである。 むしろ他の人々自身、 それぞれの 「映画を観る」 実践をするのに忙しい。 MGRが登場すると拍手と口笛で迎え、 アクション・シーンでは声援を送る (多くは男性の) 観客たち。 持参のスナックを食べながら、 登場する往年の俳優たちについての話でもりあがる (多くは中高年女性の) 観客たち。 このように、 さまざまな人々がひとつの対象 (時間的持続をもったスクリーン上のイメージ) を共有しながら、 それによって喚起されるさまざまな実践を繰り広げる時空間として映画館は存在しているのである。

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僕にはおなじみの光景である

そして、 僕にはいつも インドの市井の人びとの

こうした映画との向き合い方、 付き合い方を

「正しい」 と直観されて仕方ないのであります

2011年2月16日 (水)

サイレント映画からトーキーへ

20世紀初頭 映画は音を獲得した

1927年にハリウッドで最初のサウンド映画である 『ジャズシンガー』 が制作されて以来、 映画は単に映像の連鎖であることをやめ、 音と映像という異質のシステムを同時に体験する表象体系として発展することになった。 1938年にはソ連のエイゼンシュタインとプロコフィエフによって、 ショットのモンタージュと音楽の旋律を徹底して対応させるという実験が行なわれ、 その結果が 『アレクサンドル・ネフスキー』 なるフィルムに結実した。

四方田犬彦 『映画と表象不可能性』 産業図書,2003年,89頁

2011年2月11日 (金)

「藝術の宗教学」研究会 2月~3月の企画

映画部門 (東京) ――

  • 2月27日(日) 15時~ 第2回ワークショップ
    「終末・寓話・存在 ―黒沢清マツリ―
    • 『大いなる幻影』 (1999年)
    • 『ニンゲン合格』 (1999年)

  • 3月13日(日) 15時~ 第3回ワークショップ
    「究極の選択 ―メロドラマ・ホラー・SF―」 【詳細後日】
    • 『危険な遊び』 (ジョセフ・ルーベン,1993年)
    • 『ミスト』 (フランク・ダラボン,2007年)

  • 3月27日(日) 15時~ 第2回研究会
    「童話・神話・《ホラー》 ―『崖の上のポニョ』から―」 【詳細後日】
    • 前半 近藤の研究発表
    • 後半 『ポニョ』上映会 (上映後、意見交換)

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場所はいずれも、日本女子大学・目白キャンパス

いずれも、会場の都合から ご参加の方は事前に私までご連絡をいただけるとありがたいです ドタ参OK、ドタキャンOK とにかくお気軽にどうぞ!

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なお、「ワークショップ」(2/13, 27, 3/13)より「研究会」(3/27)の方が、アカデミック色がつよい、という企画です ご参考までに☆

2011年2月10日 (木)

宗教法人令(1945) 全文

前便 「宗教法人令(1945)の起草・発布の過程」

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「中野毅ゼミCyber Library」

井上順孝他編 『新宗教事典』 957-9頁よりの引用として

「宗教法人令」が公開されています

http://www.succ.soka.ac.jp/~tnakano/lib/houjinrei.html

当然ながら、 「無断で複写することを禁じます」 とありますので

リンク紹介だけ、させていただきます

宗教法人令(1945)の起草・発出の過程

日本の宗教法人法(1951) の成立過程を調べないとなぁ…

と思っていたところ、 次の論文に突き当りました

占領最初期の1945年末

宗教法人法に先立ち発出された 「宗教法人令」

その起草過程についての略述です

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以下引用: 〔 〕 はママ, [ ] は引用者補足

総司令部は 「宗教に対する統制や干渉を完全に排除するために、 〔宗教〕 団体法廃止後は、 宗教に関する法律は、 つくらせない方針をうち出していた」 ( [岸本英夫 『戦後の宗教と社会』] 32頁)。 これに対して日本側は、 それまでに宗教法人が存在していたこともあり、 また宗教法人の免税特典を維持したいという考えもあり、 1940年施行の宗教団体法に代わる新法制定を求めていた (同頁)。 この制定に関して、 文部省宗務課総司令部との間で行き違いが生じた。 総司令部の検討を経ないまま、 新勅令を閣議決定した上、 天皇の裁可を受けてしまったのだが、 そののちに総司令部がそれを承認できないことが判明した。 岸本はこの渦中にあった宗務課長の相談を受け、 10月22日以降、 総司令部と善後策を講じた。 結局はのちの宗教法人令になる法案が改めて提出され、 すでに勅裁を受けていた勅令は前田文部大臣が処理した (32-37頁)。 (16)

 ところで、 ダイク [民間情報教育局局長ケン・R・ダイク代将] がこの法案に対して日本の宗教家たちの意見を求めることを望んだことから、 11月5日にダイク、 バンス [ウィリアム・K・バンス(1907-2008) 民間情報教育局で神道および宗教政策を担当した] らと宗教家たちとの間の懇親の場が設けられ、 岸本も司会兼通訳として参加した (37-38頁)。 しかしながらこの場では、 「法令の内容に関しては、 意見らしい意見はひとつも出なかった」 という。 これに対して、 岸本は次のように記している。

せっかく、 ダイク代将が意見をのべる機会を与えていたのである。 もっと宗教家らしく、 率直に意見をのべればよいのにと、 同席していた私は、 歯がゆく感じたのであった。 そのような歯がゆさは、 占領行政中いろいろな場面で、 何度もくり返されたのであった。 (38-39頁)

ともあれ、 宗教法人令はこの年、 12月28日に公布されることとなった。

23頁

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(16) ウッダード 『天皇と神道』 [ウィリアム・P.ウッダード 『天皇と神道 ―GHQの宗教政策―』 阿部美哉訳,サイマル出版会,1972年] 91-98頁も参照。

31頁

引用おわり

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2011年2月 8日 (火)

偶像崇拝と映画

四方田犬彦 『映画と表象不可能性』 (産業図書, 2003年) より 

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以下引用

 絶対者をはたして表象行為の内側において捕えることが可能なのか。 またそれは許されているのか。 こうした問いはユダヤ=キリスト教的伝統が長らく抱え込んできた神学的問題であるとともに、 そもそもが表象行為のシステムとして開始されたシネマトグラフがけっして回避することを避けられない問題でもあった。 今日われわれを取り囲む大衆消費社会では、 映像の際限のない過剰が新たなる抑圧構造を招いているという状況が横たわっている。 映画の作者と観客は音と映像を前にして、 二つの選択肢を前に躊躇することになる。 それは表象行為の全能性の側に積極的に身を置くことによって、 物語の魅惑の秩序に沿って大衆的な啓蒙に赴くという径か、 あるいはその逆に、 どこまでも表象不可能な他者を想定し、 映像がけっして触れてはならぬ禁忌を想定する径のいずれかを採ることである。 アロンとモーゼの永遠に続く対立は、 われわれの世界にあってはスピルバーグとランズマンの対立へと持ち越される。 前者はアウシュヴィッツの悲劇をより多くの世界中の子供たちに告知し、 それを表象として存続させるために 『シンドラーのリスト』 を監督した。 後者はいかなる表象も強制収容所の悲劇を描きつくすことはできないし、 そうするべきではないという認識に基づいて、 映像の不在と欠落そのものを他者なるものの顕現の証しであると主張する。 この二律背反から逃れるには、 どうすればよいのだろうか。

 ストローブとユレイはこの二つの選択を前にして、 いずれにも加担しようとしない。 彼らは対立する二つの声の競合 (と同時にその同時の破滅) を提示することによって、 さらなる別の径が可能であるかという探求に邁進する。 [ ストローブ=ユレイ演出 『モーゼとアロン』(1975年) において] モーゼとアロンは互いに永遠の神を説きつつも、 古代の劇場廃墟に閉じ込められた歴史的存在である。 だが、 それをスクリーンで眺める観客は、 けっして彼らと同じ歴史の限定を受けていない。 ストローブとユレイは観客にむかって、 さらに遠くへ、 表象作用がより解放された地点へ赴くように呼びかける。 その場所はいまだに表象されることがなく、 ひとたび表象された瞬間にはただちにそこから遠のいてしまうような空間に他ならない。 彼らは約束するが、 表象はしない。 ましてや指導者としての映像をみずから身に纏っているわけでもない。 多くの素朴な観客たちが二人のフィルムに退屈さ以外の何物をも発見できず、 それを批判するとき、 ストローブとユレイの姿は 『モーゼとアロン』 の第二幕の終わりで言葉の欠落を嘆くモーゼに似ていなくもない。 だがその指先ははるか遠方にある約束の地を差していて、 人は彼らの作品の孤独にして開かれたあり方からそれを見て取ることができるのである。

引用おわり: 133-34頁

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素敵な文章だなぁ…

2/13 「藝術の宗教学」研究会 映画部門(関東)第1回ワークショップ

再告知させていただきます (前便は こちら

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「藝術の宗教学」研究会
映画部門(関東)第1回ワークショップ

―― 成熟 (大人になること) と想像力 ――

  • 日時: 2月13日(日)15時~19時
    •  15:00~15:20 はじめに
    •  15:20~17:00 DVD上映 『ミツバチのささやき』 (ビクトル・エリセ,1973年)
    •  17:00~17:20 休憩
    •  17:20~18:55 DVD上映 『マイマイ新子と千年の魔法』 (片渕須直,2009年)
    •  18:55~19:00 おわりに
    •  19:00~ 懇親会 (場所をうつして)
  • 場所: 日本女子大学・目白キャンパス
    •  参加ご希望の方 私までご連絡を 教室名をお伝えします
    •  右リンクより「プロフィール」頁へどうぞ メールアドレスがございます

DVD上映は予定どおりにおこないますが

コメント、意見交換のため 終了時刻はやや遅くなるかもしれません

(途中退席 無問題!)

無償非営利・教育研究目的

皆さん どうぞお集まりくださいませ

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《世俗の宗教学》 におけるメロドラマ的映画の重要性

「メロドラマ」 とは何か――

四方田犬彦先生 は、 その近代的世俗性を強調する

メロドラマは、 巷間で用いられているように、 荒唐無稽な感傷的見せ物でもなければ、 俗悪な悲劇の紛いものなのでもない。 それは超越的な運命をめぐる人間の挫折を描く悲劇とは、 そもそも完璧に対立する演劇的概念であって、 神の不在と偶然を前提として、 観客を感情的高揚へと導くことを旨としている。

四方田犬彦 『映画と表象不可能性』 (産業図書, 2003年) 208頁

これにすぐつづけて 概念史の整理がおこなわれる

メロドラマという言葉は、 そもそもが一七世紀にイタリアで唱えられた 「メロディーをもったドラマ」 を起源としている。 それはフランス革命の前後から、 悲劇にとってかわって新興ブルジョワジーの世界観と道徳意識を体現する演劇様式として興隆し、 一九世紀には演劇はもとより、 オペラ、 小説、 美術といった多くのジャンルにまたがるモードとして猖獗をきわめることになった。 それが二〇世紀にハリウッド映画を通して、 ひろく全世界に普及した経緯については、 今さら言を重ねる必要はないだろう。

同208-9頁

つづく段落では、 最初のメロドラマ規定がパラフレイズされる

メロドラマの特徴とは、 まず運命でも超越者の全能性ではなく、 道徳が究極の主題として選ばれていることである。 登場人物はえてして複雑な内面をもたず、 善玉と悪玉に分けられ、 彼らの波乱万丈なる闘争が物語の中心を占める。 その根底にあるのは偶然であり、 そこから通常ではありえない廻りあいや、 なぜか読まれなかった手紙、 既のところでの行き違いといった一連の主題が導き出される。 階級違いの恋、 不当な虐待とその補償、 家族の離散と再会といった物語が特権的に採用されるのは、 そのためである。

同209頁

つづいて 映画学における研究史の概略である

映画研究にはじめてメロドラマ研究を持ちこんだトマス・エルセッサーによれば、 メロドラマは、 その時代の高承にして制度的なる芸術がけっして接近することのできない人間の実存を取り上げるという点において、 ある条件さえ整えば、 充分に体制転覆的な力をもちうるとされている (註7)。 無声映画時代から、 あらゆるフィルムにはなんらかの意味でメロドラマ的傾斜が流れていたが、 それは五〇年代のハリウッドにおいて、 ドイツ表現派の流れを組む [ママ] 監督たちが距離化とアイロニーの美学にもとづく演出を展開させたとき、 きわめて精鋭な批評的要素をもつにいたった。 そこではブルジョア家庭と資本主義社会という二つの抑圧的システムのなかに生きる人間の心的複合が、 すぐれてイデオロギーと歴史の批判の問題として実現されているというのが、エルセッサーの論旨である。

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7 エルセッサー 「怒りと響きの物語」、 石田美紀、 加藤幹郎訳 (岩本憲児他編 『新映画理論集成』 第2巻、 フィルムアート社、 一九九八に収録) を参照。 メロドラマの歴史と映画における意義については、 ピーター・ブルックス 『メロドラマ的想像力』 (四方田犬彦、 木村慧子訳、 産業図書、 二〇〇二) ならびに、 その巻末の四方田が著した解説を参照。

同240頁

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ここに表明されているのは

メロドラマ (とくに映画におけるそれ) の 《世俗の宗教学》 にとっての重要性である

近代的世俗性を生きる とはどういう事態か…

近代的世俗の人間にとって 映画とは何か…

それは どのような機能を担ってきたのか…

あるいは 世俗的近代において 映画と人間は何を共有してきたか…

2011年2月 3日 (木)

成熟(大人に成ること)と想像力

こんな研究計画を立てています

【緩募】 「宗教と映画」

関心をもって、一緒に研究してくれる方を求めております

研究領域は3つ

1)映画における具体的な宗教的諸伝統の表出

2)映画と宗教の機能構造論的一致

3)《世俗》の言説=制度としての映画

予算ゼロ、完全手弁当でかまわん、っていう奇特な方!一緒にやりませんか

すでに第1回研究会は開きました

次は、 「映画部門・関東」 の第1回ワークショップです

2月13日(日)15時~

「藝術の宗教学」第1回ワークショップ

DVD上映会 『ミツバチのささやき』&『マイマイ新子』

無償非営利・教育研究目的

@日本女子大学・目白キャンパス

【参加ご希望の方 私までご連絡を】

テーマは 「成熟 (大人になること) と想像力」 になりますかね

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以下は このワークショップのためのメモ――

 少年が青年になり青年もくたびれがかったころ中年となってやがて老年期にいたる ―― 蚊帳にもぐりこむのをよろこんだり、 幻想小説を読んで、 頁をめくるのすらもどかしいくらいにどきどきしていたその少年と、 中年の自分とが、 同一人物であるということがふしぎでならない。 いろいろなことを忘れてゆく。 時間の系列がふるいにかけられてしだいに記憶が無差別になってゆき、 ていねいに自注をつけても追いつけない。

朝吹真理子 『流跡』 (新潮社, 2010年, 72頁)

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